7 / 19
第7話
達したところで、意識を飛ばしてしまえれば良かった。ルカからの問いに答えを返せないまま達した余韻に薄い胸板を上下させていた舘野は、シーツに身を委ねたままぼんやりとルカの目を見つめていた。
「ユウ、大丈夫か?」
「はぁ……」
茫洋とした目線を向けていると、ルカは軽く唇を喋んでくる。まだ呼吸を荒げている舘野はされるままに口付けに応える。奥の窄まりを濡れた手で触れられると、落ち着いてきた呼吸をまた乱された。
ルカの愛撫が執拗と感じる程だったのは、初めてだということが分かっていたからかもしれない。暴いていく手つきはひたすら優しく性感を煽っていくが、挿入を試みる頃には、目の前の男も余裕が無いように見えた。
何度も大丈夫か、痛くないかと訊いてくる。気遣っている割に、挿入は諦めようとはしないのだと、思わず笑みが漏れた。宥めるように唇を啄む仕種に、舘野はルカの柔らかい髪に指を通した。
それを了承と捉えて、ルカは腰を押し進める。結合を果たしただけでどっと疲労が来るようだったが、意識を飛ばすことは許されず、代わりに理性を飛ばしてくるようだった。
結局、何度自分が達しても、中に放たれても、ルカは執拗だった。途中で何度か意識を飛ばしては、腰を揺さぶられて戻される。もう無理、出ないと懇願しても許されなかった。
意識を飛ばす直前、甘い声が何かを囁いたように思ったが、聞き取った言葉を記憶に留められるほど、理性も体力も残ってなどいなかった。
夜中に意識が浮上した。ベッドサイドの灯りに、ルカが煙草を吸っているのが視界に入る。どうやら眠っていたのはほんの一時間程度だったようで、ルカはサイドテーブルの灰皿に煙草の灰を落としながら、楽譜に目を通していた。イヤホンを外すと、煙草を揉み消して抱き寄せてくる。
「ん……」
背後から腕を回されると、背中に体温が伝わってくる。鼓動までが聞こえてきて、心地よかった。項に時々吸い付かれるが、セックスの最中のような激しいものではなく、甘く、慈しむようなキスだった。
「……ユウはいつごろからバイオリン始めたんだ?」
「あんまり、覚えてないな……気がついたらピアノとバイオリンは弾いてた」
頬を、ルカのものか自分自身のものか分からない髪の毛がくすぐる。舘野は目を閉じて一番古い記憶を辿ろうと海に潜る。
ピアノとバイオリンを習っていたが、バイオリンの方が特に自分が音を鳴らしているという感覚がして好きだったのを覚えている。
6歳の時に出たコンクールでは、準優勝だった。一つ上の少女が優勝したのを今でも覚えている。毎日小学校から帰って何時間も練習して弾き続けて出たコンクールだ。バッハ、無伴奏バイオリンのためのパルティータ第二番、ニ短調。いま思い返しても、忘れられない。あの頃、バイオリンを弾くのが何よりも楽しみだった。練習のための時間を確保したくて、宿題は学校で放課後に済ませていた。家に帰るとすぐランドセルをおいて、バイオリンを弾く。
自分の方が、バイオリンが好きなのに。誰よりも、バイオリンが大好きなのに。楽しく弾けるだけでは勝てないとわかってしまった。
その気持ちをぶつけるように、練習に打ち込んだ。生まれは雪国で、娯楽もない。買ってもらったバイオリンをいつも持ち歩いて、次第に学校にまで持っていくようになった。昼休みは誰とも遊ばず、音楽室に篭っていた。友達は、バイオリンだけで良かった。指を怪我して弾けなくなることが怖くて、体育もいつも見学していた。指が冷えると動かなくなるから、音楽室のストーブの前が一番の居場所になった。
小学二年の秋、学芸会でやる出し物を決める学級会の日に、担任がバイオリンをメインにした音楽会をやろうと提案してきた。仲の良い友人もいない状況で、担任の提案はただ闇雲に周りのやっかみを生むだけで、クラスでは議論が分かれた。賛成する生徒もいれば、反対する生徒もいた。自分はただ弾きたくて弾いているだけなのに、周りに巻き込まれることを嫌だと感じていた。
そして、それが発端となって事件が起きる。移動教室の授業から戻ると、ロッカーにおいてあった筈のバイオリンが失くなっていた。ケースごとだ。真っ青になって探した。教室から、トイレから、ありとあらゆる場所を探した。授業なんかどうでもいい、自分の半身がいなくなったかのような恐怖だった。
給食も食べずに探していた頃、外が騒がしくなった。気づけば昼休みだった。名前を覚えていないが、同じクラスの女子が駆け寄ってくる。校舎裏にある生徒用の菜園脇に、楽器が埋まっているという。
聞くなり、教室を飛び出した。
教師が声を張り上げて注意するのも構わずに、上履きのまま菜園に走る。掘り返したであろう真っ白な雪の小山の中から、ネックが飛び出しているのが見える。弦が切れて、凍っていた。
降り積もった雪の塊を掘り起こす手が震えた。折れた弓が掌を傷つける。ネックが折れている。真っ二つだった。
怒りに、咆吼をあげた。
掘り起こした土を地面に投げつけて、その場に崩れ込んだ。涙も出ない。
自分の半分が、死んでしまった。殺された。バラバラになって埋もれているのは自分自身だった。
全ての破片をかき集めて腕に抱くと、そのまま学校を出た。雪が凍りついた道は、上履きの薄いそこから痛みをもたらす。けれどそれも気にならない程に胸が痛かった。
部屋のデスクに半身の遺体を置くと、破片を一つずつつなぎ合わせようとする。
そこで漸く涙が零れ落ちた。止められない涙で、視界がぼやけていた。
すすり泣いていた自分を連れて、母が楽器屋に向かった。楽器店で一番いいバイオリンを買ってくれた。壊れてしまったバイオリンの代わりにはならないけれど、と言った母もまた、死んでしまった彼を惜しんでくれた。
学校にも行かず、来る日も来る日もバイオリンを弾き続けた。新しいバイオリンが身体に、耳に、指に馴染むまで、部屋に篭って弾き続けていた。
「僕にとって、バイオリンが全てだったんだ……」
けれど、逃げ出した。その言葉を飲み込んで、舘野はルカの胸元に顔を埋める。いつもとは違う、石鹸の香りが心地よくて深く吸い込むと、ゆるゆると眠気が襲ってくる。
「……俺にとって、音楽が全てであるように」
ルカの言葉は、耳に柔らかく落ちてくる。甘く、低い声色はいつまでも聞いていたいと思わせるほど穏やかだった。
返答を返そうとするが、長いセックスのあとで疲労もあるのだろう、言葉にならないまま舘野は意識を手放した。
目を覚ますと、遮光カーテンの隙間から朝日が漏れていた。金色の光が床に積み上がった楽譜とCDを照らし出している。ベッドに座ると、足許にある一枚を手に取る。Luca Ferranteと銘があるのは、過去の演奏の音源の様だった。見ると、ベートーヴェンの交響曲第九番とある。歓喜に寄せて――日本では年末になるとそこかしこで演奏されるものだ。
カーテンの隙間から外を見ると、外はサラリーマンたちが歩いている。時計を見ると8時を回ったところだった。眠りすぎてしまったのは、同性相手の初めての性行為に身体が消耗していたせいだろう。中が、まだぬるついていることに違和感を感じた。
全裸のまま、床に置いてあるバイオリンケースから、相棒を取り出す。軽く弾き鳴らすと、そのままいつも通りに練習曲を弾き始める。何処にいても、毎朝のルーティンとして欠かせない。たった一日でも弾かなければ、衰えてしまうことをよく知っていた。
ルカはまだ眠っている。誰も聞いていないのが分かっているから、好きなように弾ける。何のしがらみも、何の遠慮もいらない。ただ自分が気持ちよくなるためだけに弾く。アキハバラ交響楽団のことも、自分の未来のことも、不安も期待もなく、ただ、今この瞬間のために。
一人で集中していると、周りの音や気配を遮断してしまう。雑音を排し、作り出される音にだけ集中する。気持ちがいい。パガニーニを弾き終えたところで、いつの間にかルカが電話に応じているのが分かった。
「あぁ、……あぁ、わかった、聞いてみる、はいはい」
裸のままベッドに寝そべっている姿を見ると、自分も夢中になっていた事に気付く。ニヤニヤとこちらを向きながらぶらぶらと足を揺らしていた。子供みたいだ。
「あぁ、……そう、俺の知る最高のバイオリニスト。そうそう、……ん、じゃーな」
違っていた。最高のバイオリニスト、その単語に胸がドクンと跳ねた気がした。そんな風に思う相手がルカにもいるのだろう。少なくとも自分のことではない。
通話を切ったルカは、ぽーん、とシーツに携帯端末を放り出していた。
「おはよ、たてのん」
「だからその呼び名、殺すぞ」
「えー。……じゃあ、ユウ」
「……」
きつく睨みつけると、流石にルカは苦笑して両手を上げた。流石にここで怒らせるのは得策ではないと判断したのだろう、髪の毛を掻き上げると、急にマエストロの顔になって舘野を見上げた。
「ちょっとさ、お願いがあるんだけど。俺の知り合いのオケに、バイオリンソロの欠員があって」
来月空いてたら、代役まで飛んでくんないかな、そう言って、ルカは頭を下げた。何ともこのマエストロの頭は軽い。徳永にもよく頭を下げている。主に、夕飯をたかっているようだが。
「何で僕なんだ。君、顔は広いんだろう」
少なくともシカゴには自分よりもいい演奏をするバイオリニストはゴロゴロいるだろう。なぜ自分なんだ。
そこまで言ってしまったあとで、無意識に卑屈になっていたことを思い出す。よくない。
「タテノ、お前、ちょっと別のオケで弾いてきてみろよ。こんな小さいトコじゃなくて」
「だから、何で」
「ロシアのフェリックス……ええっとなんだっけ、フェリックス……コカコーラ?」
なんだっけぇ、と思案しているが、ロシアのフェリックスと言えばフェリックス・クリコーフだろう。脳内の徳永が、コカコーラは無いだろうと無意識にツッコミを入れる。まだそこそこ若いが良いマエストロだというのは知っている。日本ではまだあまり知られていないのが惜しいくらいだった。
そういえば、ルカと同年代だったことを思い出す。
「フェリックス・クリコーフ」
「そうそう、それそれ!」
聞けば、サンクトペテルブルクオケの来日公演があるらしいのだが、予定していたバイオリンのソロが急病で参加できなくなったらしい。何で自分が、と眉間に皺を寄せると、ルカは枕を抱き込んで笑って見せた。
「少し、アキハバラから距離をおいてみたらどうだ」
ルカの言葉に、昨夜激昂したことを思い出す。ベッドの上でもルカは何度も、オケを辞めないように迫ってきていた。いまも、気分転換を勧めているのはきっと、オケを辞めて欲しくないからだ。
だが、時間をおいてオケに戻ったところで、また同じ問題を繰り返してしまうのではないか。舘野は目を伏せる。
「距離を置けば解決する問題か?」
「現状維持よりはずっといい」
あちこち散らばっている服を拾い上げて身につけていくが、ルカはベッドの上でノートPCを起動させてメールをチェックし始めた。まだ、裸のままで。
「そんなでっけぇ公演じゃねぇから、まぁ気分転換にな?」
うつ伏せに枕に頬を押し付けて笑うルカに、昨夜の言葉を思い出す。意識が少し怪しいが、自分を引き留めようとしていたことだけは覚えている。あれはやはり本気で言っていたのだ。自分がオケを辞めることを、この男はなんとか阻止しようとしている。それに、アキハバラ交響楽団が解散するのも嫌だという。
ワガママだ。
しかしなぜかルカが自分にワガママを言うのを、舘野は心地いいと思った。
ともだちにシェアしよう!