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第8話
ルカのワガママに付き合うつもりでサンクトペテルブルク交響楽団に来たが、アキハバラとはまるで違うと舘野は感じていた。これがプロ・オーケストラなのだろうと思うと、やはり経験しておくのは勉強になる。
団員たちは真面目で熱心だ。指揮者、フェリックス・クリーコフが来る前には全員着席しチューニングを済ませて音を完璧に合わせている。私語も無ければ、スマホでアプリゲーをしながら爆死に悶絶などしない。
「皆揃っているな」
よく通る声がホールに響き渡る。楽譜を手に、指揮台立った長身の男は極北生まれの白い肌に黒く少しクセのある髪の毛が印象的だった。無表情、というよりは冷ややかといった言葉が似合う。指揮者を前に、オケ全体の空気が引き締まる。
「では、第一楽章の練習番号Aから始める」
パガニーニのバイオリン協奏曲第二番、音大にいた頃に何度も弾いた曲だ。書き込まれた楽譜に目を落とすと、耳を済ませる。オケの演奏が始まると、ホールに響き渡る音の心地良さに、久しく忘れていた高揚感を取り戻す。
比べるべきではないと分かっていても、ここしばらくのアキハバラ交響楽団ではずっとピリピリしていたせいもある。いい音を聞くとやはり心地良い。練習用のホールでも十分に鳴っている。音が、お互いに響き合っていて、高揚する。
アキハバラでは、どうして思うように行かないのだろう――そう思案した瞬間だった。
「……!」
フェリックスの指揮棒が降りる。沈黙、男はきつく眉間にシワを寄せている。
「タテノ。なんだその農作業してるババァみたいな音は」
指揮棒の先を向けられて、冷ややかに言い放つマエストロに、舘野が顔を歪めた。
「は?」
「音に精彩が無い。つまらない演奏をするなら帰れ」
カチン、ときた。誰が農作業してるババァだ。
悪態の独創性は悪くないが、負けん気に火を付けたのはこの男だ。
「ふざけるなよ、テメェ」
思わず日本語で反論が零れ出た。流石に日本語はわからないのだろう、フェリックスは表情一つ変えない。
「Was expected because his introduction, but it just may be disappointing」
――アイツの紹介だから期待したが、期待外れも良いところだ。
冷ややかな言葉に、思わず譜面を叩いて立ち上がっていた。
「Say, it once more, gonna fuckin' kill you!」
――もっぺん言ってみやがれ、ブチ殺すぞ!
「Bring it on, Tateno!」
――いいだろう、かかってこい、タテノ。
背後で団員たちが凍りついているのを感じる。ロシアの巨匠相手にここまで罵倒語を繰り広げた者も居ないかもしれない。舘野は再びバイオリンを構えると、すっと息を吐く。目を伏せると、弦を鳴らし始める。
視界の端でフェリックスが指揮棒を掲げる。いいだろう、このままオケを合わせられるものなら合わせてみるといい。そんな挑発的な感情が生まれ出たのは久しぶりだった。
プライドを刺激されている。
その場にいた誰もが、舘野の演奏に釘付けになる。
鬼気迫る、というほどの迫力で、ホールに音をぶつける。
技巧曲の名に相応しく、まるで生きるか死ぬかの瀬戸際で狂おしく叫ぶような、攻撃的といってもいいほどの音で、フェリックスに対峙していた。
(クソが、ブチ殺す、僕の本気の音を聞いてみるといい!!)
一方のフェリックスも負けてはいない。自分の音を受け止めるだけの重厚感で見事に調和させていた。
何よりも強い、強い意思を感じる。まるで、誰かに激しい熱情をぶつけるような、生命力に溢れた音。
「やれば出来るんだ、なぜやらん」
「うるさい」
練習を終えたあと、フェリックスの問いに思わず悪態をつき返す。ババァと言われたことを根に持っていたが、それでも演奏は自分に何か満ち足りたものを与えたことを舘野は自覚していた。
これほどまでに自分の本気を受け止めたオーケストラは初めてだ。
ケースに相棒を仕舞い込むと、帰ろうとした舘野をマエストロが呼び止めた。
「おい。この後、夕食に行くぞ」
「は?なんで?」
有無を言わせない口調も腹が立つ。巨匠だからって誰でもホイホイ付いていくと思うな。そういう言葉を飲み込んだのは、二人以外に誰も居なくなったホールの入口に、少女という程に若い女性がにこやかに手を振って立っていたからだ。
「家内だ。紹介させろ」
途端に、厳格なフェリックスの表情が一瞬緩む。酷く優しい目つきで奥方に微笑むのを見て、思わず目を見開いた。
この横暴で暴君の様な男が、奥方相手にこんな顔もするのか。ゆっくりと歩み寄ってきた女性は柔らかく笑う、美しい女性だった。まだ少女とも言える風貌は、思わず娘じゃないかとすら疑ってしまうほど。
「タチアナ・クリーコフです。ターニャとお呼びくださいな」
「舘野優です、よろしく。マエストロにこんな美しい奥方がいらっしゃるとは」
お世辞でもなんでもなく、この男の奥方にしては勿体無いくらいに優しく、穏やかな女性だった。本当に勿体無い。
舘野が手を差し出すと、タチアナが手に触れる前に、フェリックスが彼女の腕を取る。横暴な王らしく、独占欲と執着も強いように見えた。それだけ、奥方に惚れ込んでいるのだろう。
「夕食に行くぞ。予約を取ってある」
奥方をエスコートしながらホールを出る男に続いた。
向かった先は小料理屋だった。どうやら日本食が好みらしい奥方に合わせたようだったが、日本にもよく来るのだろう。慣れた手つきで小松菜の胡麻和えをつついている。
奥方を挟んで、フェリックスは熱燗を飲んでいた。座る位置でもフェリックスは奥方を端にしようとしたが、折角なのだから色々話がしたいとにこにこと笑う奥方に折れて、タチアナが間に入った。どうも、フェリックスはこの奥方に弱いようだ。
「わたしね、公演に付き合うのは初めてななんです」
「そうなのですか?」
刺身をつまみながら、甘口の酒をちびちびと舐めるように飲む奥方に、目を見開いた。なんとなく、何処に行くにも連れて行っているような気がした。
「ふふ、わたし、カラダが少し弱くて。けど、どうしても公演を聞いてみたくて、我儘を言ってしまいました」
ぱくり、とブリの刺身を口にして笑う奥方の肩越しに、苦笑を漏らすフェリックスの表情がある。
「お陰で、主治医まで連れてくる羽目になったがな」
「あら、それを言い出したのはアナタでしょう?」
私は断ったんですよ、と肩を竦めるタチアナに、フェリックスは決まり悪そうに視線をそらす。少しアルコールが入って紅潮した表情を向けたタチアナは、悪戯っぽく笑って声をひそめた。
「この公演を楽しみにしてるのは、私だけではないんですよ」
巨匠と言われる程の実力を持ったマエストロでも、若い頃は色々とあったらしい。プロになって初めての公演で盛大に失敗したフェリックスが落ち込んだまま、舞台の隅で座り込んでいると、小さなブーケを持った少女が近寄ってきた。終演時間はもうとっくに過ぎているのに。
その少女は生まれて初めてのオーケストラ公演に感動し、両親に頼み込んでわざわざもう一度戻ってきたのだ。
「わたし、あなたの演奏がとても好きです」
プロになって初めての公演で、気負っていたのも事実だった。これを成功させるかどうかで、今後の活動も変わってくるだろう。最悪、音楽を諦めなければならなくなる覚悟もしていた。干されても文句は言えまい。
それほどに、自分自身に失望していた。
「演奏が止まるような失態を犯した指揮者の演奏をか?」
子供相手に、卑屈な言い回しだと思ったが止められなかった。だが、屈託なく笑って頷く少女は、手にしていたブーケを座り込むフェリックスの膝に置いた。色とりどりの花が、やけに眩しく見えた。
「わたし、きっとまたあなたの演奏を聞きに来ます」
スカートの端を摘んで見せたリトル・レディに目を奪われる。彼女はまた来ると言った。もしかしたら子供の戯言かもしれないが、なんとなく、本当にまた会うことになるような予感がした。
その後、スポンサーからは初めての公演にねぎらいがあったものの、おしかりを受けることはなかった。むしろ、他者以上に自分自身にも厳しいと周りから評価を受けていたせいか、珍しく初々しいものが見られた、と一部のファンの間では話題になったらしい。
そして翌年の公演にも彼女は訪れた。今度こそ無事に成功した公演を、彼女は聞きに来た。遠い客席の中で、両隣には両親がいて、こちらに向けて拍手を送ってくる彼女の姿を、フェリックスは捉えていた。以来、プライベートでも彼女やその両親とは会うようになり、親交を深めていった。
だがある年、彼女は約束していた公演に姿を見せなかった。チケットは贈っていたが、会場のどこを見回してもその姿を見つけられなかった。その頃には自信も取り戻していて様々な公演でマエストロを務めていたが、毎年の定期演奏会には訪れていたというのに。
タチアナの両親に連絡を取ると、彼女には口止めされていたが、と前置きをした父親が重い口を開いた。彼女は長く患っていた病気が悪化して、集中治療室に入っているのだという。
たまらずに、衣装のまま会場を飛び出したフェリックスは、教えられた病院へとタクシーを走らせた。
集中治療室の前で呆然と座り込んでいる両親は振り返って、峠は越えました、と深く頭を下げた。
語り終えた内容は、ころころと笑う彼女からは想像出来ない。舘野は箸を置いたまま、目を伏せて黙ってしまった。かつて、自信をなくして逃げてきた自分は、未だに逃げたままだ。それを、二人ともに見透かされたような気がした。
逃げた先には何もない。何もなかった。いまも彷徨っているような気がする。
「タテノ。お前は、誰に聞かせたい?」
誰の為に演奏していると、フェリックスは問う。
だが、舘野には答えられない。考えたこともなかった。弾きたくて弾いているけれど、聞かせたくて弾いているのだろうか。
「僕は、……」
誰のために弾いているのだろう。考えても考えても、どうしてか、たったひとりの顔しか思い浮かばない。
聞かせたい。共に、最高の音楽を作り出したい。舞台で、感動を味わいたい。
誰よりも一番に聞かせたいひとだった。無性にいま、会いたい。
けれど、アキハバラ交響楽団で、他の団員と衝突を繰り返すのはもう嫌だった。本気になればなるほど、迷いが生じる。
「俺は、何処で演奏していようと、オーケストラじゃなかろうと、本気でやる」
たとえ練習でも、と。冷やのグラスを置いたフェリックスが呟く。
それが最期になるかもしれないからだ、と声なき声で呟いた男の横顔は、信念で満たされていた。
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