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第9話
フェリックス・クリーコフ指揮による演奏会は盛況の内に終わった。タチアナも見に来ていたようで、演奏が終わると楽屋まで顔を出してきた。久しぶりに、心から楽しめた演奏だった。
金曜の夜、連絡を入れるとプロジェクトを終えて残業がなくなってきた徳永が呼び出しに応じる。一月ぶりに会う徳永は少し痩せて見えた。かなり忙しかったのだろう。それでも、快く応じてくる辺りは、お人好しなのだと思えてしまう。
徳永の会社にほど近いイタリアンバルで待ち合わせると、相変わらずリュックを背負った姿でやってくる。デニムにニットというゆるゆるした姿なのは、サラリーマンでも、現場に近い人間の特権だろう。
「待たせて済まなかったな」
「いや、呼び出したのは僕の方だよ」
二人でカウンターに座ると、スパークリングワインを頼む。今日は自転車は会社に置いてきたらしい。徳永も同じ物を頼んで、二人で軽くグラスを鳴らす。
「それで、どうだった、ロシアの巨匠は」
「うん、楽しかったよ。流石にレベルも高いね」
アヒージョを摘みながらグラスを傾ける。思わず、といったふうに徳永が苦笑を漏らした。
「耳が痛いなぁ」
「そっちはどうだったんだ、あれから」
団員のストライキの話はどうなったのか。一ヶ月不在にしていたのは初めてだが、特に誰と連絡を取るでもなく過ごしていた。
状況は変わったのだろうか。
尋ねると、ガーリックトーストに齧りついた徳永が、口元だけで笑って見せた。
「お前がそっちでオケやってる間、俺らがストライキしたままだとでも?」
ふふん、とドヤ顔を向けてくる徳永に、思わず目を見開いた。あの状況から団を立て直せるとしたら、あの男しかいないだろう。自分には出来なかったことを、やってのけたのだろうか。どうやって。あの団員たちに、モチベーションを上げさせたというのか。
「……公演は中止になるかとも思ってた」
意外だ。
そう呟くと、トーストを飲み込んだ徳永が、頬杖をついてこちらを眺めてくる。
「俺がさせねぇよ、中止だなんて」
よくいう。どうせ、胃を痛めていたくせに。だが、その言葉は飲み込んだ。すぐ皆に気を回して胃を痛めるのは、人のいい徳永の気質のせいだ。揶揄うのはなんとなく違う気がした。
「って言っても……ほとんどはルカが、だけどな」
頭をがりがりと掻いているのは、ドヤ顔で言った割に、という照れがあるのだろう。カッコつけてみる割に、それを通さないのも徳永らしいような気がした。真面目なのだ、この男は。
「お前の出たオケ、動画サイトでストリーミングしてたのは知ってるだろう」
「あぁ、……そういえばなんかそんなことを言っていたな」
「あれを皆で見ていた」
この一月のうち、半分はストライキのために練習から逃げていた団員を説得していたのがルカだったらしい。一人ずつと対話を繰り返し、と言えば聞こえはいいが、それぞれの抱える悩みを解決する手助けをしていたらしい。
団員の演奏の練習に付き合うのは勿論、オーボエ奏者のリードづくりや、転職相談に恋愛の悩み、果てはアプリゲームで狙ったキャラを出すために祭壇を作って儀式をしてみたりと、多岐にわたる。くだらないと自分なら鼻で笑ってしまうようなことまで。聞いていて思わず苦笑を漏らしてしまうほどのお人好しだった。
徳永は見てきたように言うから、おそらくはほとんど、関わっていたのだろう。
徐々に練習に参加する人数が増えてきて、最後の一人、舘野と口論になったホルン奏者が戻ってきたのが先週のことだったという。その日、いつもなら午前で終える練習を夜まで自主的にこなした団員たちは、ルカの誘いに集まった。
団員たちは食い入るように画面を見つめていた。演奏が始まると誰もが言葉一つ漏らすことなく、聞き入っていたという。
「いつも凄いと俺は思ってるが……お前のあんな演奏、初めて見た」
徳永が二杯目のワインを空けながら、思い出したのだろう、目を閉じて言った。
「そりゃあ、プロオケだからな、本気にならないと鳴らせない」
「お前の本気に、俺たちみんな、当てられたんだ」
自分もそうだったが、子供の頃に講師にスパルタ教育を受けたメンバーは多い、と徳永は漏らす。
彼らが、自分たちに出来るのか、本気になるのは怖い、辛い、とこぼすと、ルカが言ってのけたという。
――魂を削って作り上げる演奏は格別に楽しい。
ここに連れて行ってやる、と豪語したルカに皆が奮起したらしい。やはり自分が厳しく指導するよりも、扱いがうまいな、と感じる。
徳永ですら、ビビってんなよ、と笑ったルカに、思わず背筋がぞくりと冷えたと言うから、見事なものだ。
「そういえばお前、その絆創膏はもしかして」
「あぁ、……」
グラスを持つ指先の絆創膏に、思わず舘野が苦笑する。フェリックス相手に本気で練習していたら、血豆が出来てしまった。袖でいくらか隠れているが、手首にはテーピングもある。
「朝から晩まで練習してたら、血豆ができた」
本気で弾き続けるとこうなるらしい。どこか他人事の様に言ってしまったが、フェリックスに負けたくないと思ったら、毎日毎日弾き続けていた。
「舞台で弾いてると、時々、ホールに、無音の音が鳴り響く」
「無音の、おと?」
「そうだ。スコアの中に、誰ひとりとして音を鳴らさない瞬間がある。そのとき、ホールの高い天井に、響きだけが残る」
美しく調和した響きにならないと単なる雑音になってしまうその音は、楽しいだけでは得られない音だ。
「僕は、どんな楽団で、何を弾いていたとしても、そこを目指してる」
頷いた徳永は、暫し思案してから、デニムの尻ポケットからイヤホンのついた携帯端末を取り出す。指で何やら操作すると、見慣れた動画サイトを開いて見せた。
「これ、お前がいない間に録画した動画だ」
「……練習中の?」
コメントやタグの付けられる大手動画サイトは、時々団員がセッションした動画を上げている。アキハバラ交響楽団も、日山や徳永が動画上でセッションしていたのが元で出来上がった楽団だ。
見ると、いつもの「アキハバラ交響楽団」「演奏してみた」のタグ以外にも、「Luca_Ferrante」と「演奏していただいた」のタグがある。
「何だこのタグ」
「尾上が、ルカに言われて付けた。宣伝にはもってこいだって」
「追い込むような真似を…」
イヤホンを借りて動画を再生する。見慣れたホールの中で、全員が練習に出ていた。ストライキを始めたメンバーも、誰一人として欠けていない。
演奏が始まる。曲目は冒頭のCM曲と、もう一曲は中盤最大のボスとの一騎打ちの曲だ。冒頭の変則的なリズムはおそらくこの演奏会で最も難易度の高い曲だろう。日山ですら入れるのを躊躇ったが、ルカはサントラを聞くなり絶対にやりたいと言っていた。
「これは……」
CM曲はチェロとコントラバスのピッチカートが揃ってきている。間奏に入るオーボエのソロは、よく練習されたのだろう、音が「鳴り」始めている。まだまだ荒いところもあるが、格段に良くなっていた。少なくとも、この一ヶ月で見違えるようになっただろう。
二曲目はまだ自分も合わせていない曲だったが、メインのメロディを鳴らす弦楽器に対して、リズムを鳴らす管と打楽器がよくタイミングをはかっている。この難易度の曲をよくここまで合わせたものだ。一曲、演奏しきっている。以前ならば途中で合わなくなり、止まってしまっていただろう。
「……よくもまぁ、一月でここまでモノにしたな」
「全員が全員、ルカのバイトの時間を削らせて練習に付き合わせていたからな……」
イヤホンを外して端末を徳永に戻してやると、グラスの中身を空にして、二杯目にサングリアを頼む。
「ルカのおかげで、耳の肥えた客を呼び寄せちまうな。すでにチケットの問合せも来てる」
「いい宣伝にはなるが、首を締めてる気もするな」
「あぁ。だが、いい発破になったようだ。これのお陰で団員たちのやる気も上がってるしな」
端末をポケットに仕舞うと、徳永は生ハムを摘んで口に放り込む。チーズを乗せたクラッカーによく合うせいか、つい手が伸びてしまうようだった。
「あと、お前の代理でコンマスやってる喜多村が泣いてた」
「は?」
「ルカの出す指示のレベルが高くて、代理つとまらんってよ。お前の帰りを待ちわびてるぞ」
「はぁ」
ルカのバイトを肩代わりしてまで、彼の指導を願う団員が増えているという。チェロの尾上に至っては、自分が養うとまで言い出す始末だったそうだが、本気なのだろう。ルカの信者だ。
ストライキで練習に来なかったメンバーが、自分の帰りを待っているというのは戸惑いもあるが、そう悪い気はしない。舘野は、予定通り翌日の練習から参加することに決めた。
「おかえり、たてのん」
「だからその呼び方をやめろと言ってるだろう」
いつも以上に早めにスタジオにつくと、ピアノの前で座って楽譜のチェックをしていたのはルカだった。舘野の顔を見るなり、嬉しそうに手を振ってくる。
ここ、ここ、とピアノ椅子を半分空けて叩いて来るから、思わず隣に座る。
今日はアルコールの匂いはなく、パルファムと、ほんの僅かに煙草の香りが混じっているだけだった。
「ターニャから連絡あったよ、大盛況だったってな」
「あぁ。いい勉強になった」
オケは最高だった。久しぶりに、心の底から本気で演奏した。
「楽しかった?」
「ん……」
血豆ができる程だったが、と絆創膏の取れた手を軽く挙げて見せると、ルカが手をとって軽く握りしめる。傷の痛みはないが、僅かに眉を顰める・
「血が出るほど、……そうだな、動画でも見た……あそこまで本気の演奏をする程なんて、妬けちまうな」
ぺろ、と血豆の痕を舐められて、背筋が跳ねた。
「……ッこら、汚いだろ」
慌てて引き剥がすと、思わず椅子を立ったが、腕を取られた。ルカに引き寄せられて、座っていたときとは違う意味で、距離が近くなる。
「おれ、そんなにばっちくないもん」
指先にキスを落とす様は、まるで初めて会った日と同じように感じられた。まだテーピングしたままの手首にもキスを落とされて、目眩がしそうになる。
酒の勢いに任せてセックスした夜のことを、思い出していた。
「……ルカ」
「先に本気を出させたのがあの野郎なんて、腹立つな……」
そんな、甘い声で返事をしないで欲しい。期待しそうになる。目眩がしそうになるのを堪えて、舘野は腕から逃れた。こんなところを他の団員に見られたくない。
「いまは、ダメだ」
「今じゃなかったら、いいのか?」
あぁもう、これだからラティーノは。
胸中で悪態をつくと、今度こそ悪い男の腕を振り払った。返事をしないままピアノから離れると、自分の席に付く直前で振り返る。
「そう思うなら、僕から本気を引き出してみせて」
振り返って挑発的に笑って見せると、それに応えるようにルカも笑って、頷いた。
演奏に必要なものは、楽しむことだけでも、技術だけでもないことをもう知っている。一人で演奏するのではないのだから、オーケストラは人と人との繋がり、信頼が何よりも大事なのだ。
技術だけがあっても、それは足りない。
ルカは自分が求めるものを叶えようとしてくれているように思えた。帰ってくる場所を作り上げるという方法で。
それだけでも自分にとっては過ぎた福音のように思えた。
人たらしのラテン男が自分に本気じゃなくても、自分の演奏に本気になってくれれば、今はそれでいい。
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