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第10話
アキハバラ交響楽団に帰ってきて、またいつも通りの練習が始まる――そう思われたが、どうも自分がいない一ヶ月の間にどうやら大きな変化があったらしい。
団員達は練習の合間にガチャで爆死することもなくなったし、私語も減っている。何より、アンサンブルの時間は特に集中している。つまらないリードミスもなくなったし、パートごとの練習もかなり積んできている。
そうだ、楽しむ気持ちだけでも、技術だけでも響かない。
目指す方向が同じでなければ、信頼を築き上げることなどできない。
アキハバラ交響楽団のあるべきかたちが、少しずつ見えてきた。
不在の間、代理でコンマスを努めていた喜多村は早速といった様子で運弓を聞きに来た。
それだけではない、団員同士であれこれと楽譜を見ながら話しているのを見ると、ルカがどれだけ心を砕いてこの場所に仲間を集めたのかが伝わってくる。
一人ひとり、欠けてはならない星のようだった。
今回演奏するゲームは、故郷を追われた主人公のもとに仲間が集まり、運命を紡いでいく物語だ。古いRPGながら名作と言われ、今でも根強いファンは多い。
その証拠だろう、昨日徳永に見せられた練習動画は再生数もマイリスト数も今までのものとは桁違いだった。ルカの名前も一役買っているだろうが、動画内のコメントを見る限りではゲームそのもののファンが圧倒的だ。
ゲームと同じように、それぞれがそれぞれの想いを抱えながら、同じ志の方へと動き出していく。それが物語となり、響き合う音となる。
ルカはきっと、その中心となる星を宿しているのだろう。
そう思うと同時に、舘野のなかで、一つの疑問が宿る。ルカは、シカゴ公演の後に、ある理由で失踪した。
まるで故郷を追われた主人公のようだったが、彼はいったい、何が理由でこの逆境の物語に身を投じることになったのか。
もっと、ルカのことを知りたいと、思っていた。
「ルカ、こないだのプレハブの設置のことだが……」
練習が終わったあと、楽譜を片付けていると、セカンドホルンの石井がルカのもとにやってくるのが見えた。
「ん、どうした」
「徳永から請求書預かってるだろ?」
あぁ、と手を打ったルカは、ボトムの尻ポケットから折りたたまれた封筒を出してくる。目の前でやり取りをしているから否が応でも見えてしまうのだが、何となく気になった。
「プレハブ小屋って、なんだ?」
「舘野、……あぁ、俺の部屋、プレハブなんだが……防音工事してもらったんでな」
聞くと、石井は実家の庭の隅に小さなプレハブ小屋を置いているらしい。昔、親が自営業をやるときの事務所にしたらしいが、会社を畳んだ折に、自室にしたらしい。その小屋を、ルカと徳永が、知り合いに頼んで防音設備を整えたらしい。
「これで家でも練習できる」
請求書を受け取った石井は、ひらひらとそれを揺らしながら機嫌よくスタジオを出ていった。その背中を見送りながら、思わず呟く。
「そんなことまでやってたのか……君は」
「ん、何がだ?」
すっとぼけたような反応に、思わず溜息が出る。確かに、自分ではそんな方法を思いつきもしなかった。
「徳永に聞いた。団員たちの悩みにあれこれ付き合ってたって」
「あー」
バラしたな、トクチャンめ、と口を尖らせるルカはまるで悪戯がバレた子供のようだった。
「まぁでも、以前のオケでも、同じようにやってたしな」
肩を竦めて見せるルカは、何でもないことのように言う。けれど、少なくない団員の一体何人に付き合ったのだろうか。徳永は、ボイコットしていた全員と対話を繰り返したと、言っていた。
「シカゴで?」
「うん。最初はさ、もう全然うまくいかないの。無名だから信用もされてねぇし、団員のほうが名前売れてるし」
指揮台の上に腰を下ろしたルカは、指先で指揮棒のコルクをいじっている。誰が書いたのかはわからないが、気の抜けたスマイルマークの落書きがある。その眉間をつつきながら、ルカは目を細めた。
「けど、色々悩み事きいてる内にさ、あぁ、思ってたよりいいやつだな、ってよく言われた」
心外だよなぁ、とルカは苦笑するが、団員のその表現はあながち間違いではないな、と胸中で漏らした。自分も、何度『これだからラティーノは』と思ったかしれない。
けれど、ルカの音楽に対する情熱は本物だ。フェリックスも優秀な指揮者だけれど、彼とはまったく違うアプローチで、オーケストラの音をまとめていく。
「だから、シカゴの団員たちは今でも俺に連絡くれる、……何があったって、味方だって……」
急にルカの声が小さくなって、舘野は思わず楽譜から顔を上げる。珍しく表情が曇っていた。
「……何が、あっても?」
引っかかる物言いは珍しい。舘野は反芻して見るが、ルカは曖昧に笑って、指揮台から立ち上がった。
「……ルカ」
逃げる、と察して舘野はルカの腕を掴む。言葉の意味を、ルカの過去を追求することが出来なくても、この手を離したら後悔すると直感が告げていた。
この魔法の手を、誰のものにもしたくなかった。
引き寄せた勢いのままに口付けて抱き寄せると、ルカが戸惑っているのが分かった。
「ん……」
ラテン男にはいい思い出がない。パリから逃げ出したのも、半分はそれが理由だった。
パリへの留学中に付き合っていた声楽家の男は、酷い男だった。バイセクシャルだと言って付き合っていて、結局、他に女を作っていた。同じバイオリン科の、首席の女性だった。
プライドと恋情の両方を同時に傷つけられて日本に戻ってきてからというもの、ゲームに明け暮れる毎日だった。もともとゲーム自体は好きでやっていたが、もはや何もする気が起きなくて、引きこもってはありとあらゆるゲームを片っ端からプレイした。
その時に出会ったゲームミュージックを聞いて、ずっと放っておいたバイオリンに触れた。恋愛とバイオリンの両方を手放そうと思ったが、やはり自分も弾かずにはいられない人間なのだとその時に思い知らされた。
「君のこと、僕も信用してなかったよ、最初は」
偏見かもしれないが、と唇を寄せたまま告げると、ルカも唇を啄み返しながら、漸く薄い笑みを見せてくる。
「今は、ちがうの?」
違うに決まっている。
もう二度と恋に落ちるようなこともないと思っていたし、ましてラティーノに心を許すことなど無いはずだった。けれど、ルカが自分に恋をしていなくても、自分のバイオリンの腕だけは見込んでくれている。自分の帰るオーケストラを立て直そうとしている。
それだけで、報われたような気持ちになった。
「シカゴの団員が君に惚れ込んだのも、分かる気がする」
緩く癖のある黒髪を指で梳りながら舘野は囁く。
シカゴの団員たちも真正面から向き合うルカに惹かれたのだろう。それは恋愛じゃなくても、マエストロとして、ひとりの音楽家として。
「……ユウ」
「うん」
「俺のこと、信用してくれてんのか」
掌に擦り寄って問うてくるルカに、頷いて見せた。
ルカは、過去のことを自分で漏らしてしまったせいか、妙に萎れている。この男のこんな姿は初めて見るな、と妙に珍しく思う。
自分が与える影響力を分かっているのかいないのか。
「言っておくけど。もう君、代振りどころじゃないんだよ。日山さんは好きなように振っていいって言ってたけど、そうじゃない」
君がいないと、困る。
自分だけではないだろう。徳永も、かよ子も、幡山も、尾上も、他のメンバーも。
誰ひとりとして、今はルカを酔っぱらいのオッサンと思うことはない。紛うことなき、アキハバラ交響楽団のマエストロだった。
戻ってきてからは、団員と衝突することもなく毎週、スタジオの利用時間ギリギリまで練習を繰り返していた。
舘野自身も本気になっていた。
「徳永、そこ、もう少しテンポを落としてくれ」
「ん、あぁ、済まない」
このくらいか、と軽くメロディラインを弾く
ピアノは特にテンションが上がると本番で走りやすくなる。今までの経験上から舘野はそう思案するが、徳永でもテンションが上っているのだろう。指摘はしたが、いつも譜面通りに丁寧な演奏をする徳永にしては珍しいと、笑みがこぼれた。
「なぁ、そこさ。俺は振らねぇから、二人で自由にやってみたらどうだ?」
ルカが指揮棒を軽く揺すりながら言うのに、舘野も手を止めた。
曲はゲーム冒頭のスタッフロールで流れる、感傷的なラインだ。
ピアノを際立たせるために、弦の数を最小限に減らしたいという話になり、最終的には二人で演奏することとなった。
「好きにやっていいのか?」
テンポの指摘を楽譜に書き込んでいた徳永が目を瞠る。
「いいよん。トクチャン、どうせ楽譜見ないなら書き込んでも無駄でしょ。だったらたてのん見てる方が合わせやすいし」
「な、なんで……」
この曲、楽譜を見てないのがバレたんだ、と徳永は呟く。
「だって、公式から楽譜が配布されてる数少ない曲だろ。君が弾いてない訳がない」
「う……」
追い打ちをかけるように言うと、徳永は額に手を当てていた。
自分もそうだ。当時、楽譜のついたサウンドトラックを買って、ピアノの心得があるものはまず間違いなく弾いている。徳永が譜面を見ていないのは途中で気づいたが、覚えるほど弾いたからだろう。
「なら、この後もう少し練習に付き合ってくれ」
「いいよ。竹之内のところか?」
個人やパートごとで練習する際は、竹之内かよ子のレコード店の二階を借りていることが多い。
「ルカも来るだろ?終わったら幡山のところで飲むぞ」
当然のように言う徳永に、舘野も楽器ケースを背負う。いくいく!と機嫌よく返事をしたルカを連れて、三人でスタジオを後にしたのだった。
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