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第13話

 もんじゃ焼きの打ち上げ後にルカから誘いがあったが、どうしてもその気になれなくて帰宅した舘野は、デスクチェアの上で膝を抱えてノートパソコンを開いた。  ルカの過去が知りたい。  何があったのか。  なぜ、シカゴから逃げるようにして日本に来たのか。  サーチに名前を打ち込むと、ウィキペディアが出る。これはもう目を通している。大して新しい情報はないだろう。  続いてスクロールしていくと、検索上位はほとんどがルカ自身のSNSや、その日の日本公演の話題が多かった。恐らくは先んじて動画サイトにアップしていたせいだろう。その件に関して期待をしているという記事が目立っているのは喜ばしいことであった。  次のページに行くと、過去の演奏に関する感想が並んでいる。これはこれで気になるが、さらに進めていくと、漸く目的の記事を見つけた。 『ルカ・フェランテ シカゴ失踪の真実』  三文記事のタイトルだとは思うが、そのままクリックする。すぐに開いた記事に、思わず目を伏せた。  そこにあるのは、面白おかしく書き立てられた醜聞だった。  要約すると、ルカが一人のヴァイオリニストを死に至らしめたというものだった。  シカゴ公演の直前にヴァイオリンのソリストが変更されたのは元々予定していたソリストが突如首を吊って自殺したことが原因だという。その自殺の原因は指揮者ルカとの確執にあり、追い詰められたソリストがコカインに手を出した挙句に中毒死。  冗談じゃない。  ルカがそんなことをするとは思えない。どれほど酷いオーケストラにだって心を砕いて、立ち向かってきたマエストロだ。フェリックスのように厳しい指導ばかりではないし、真摯に音楽に向き合う心を持っている。それを知っていると、舘野は叫びたくなった。  他の記事にもと目を通したが、時間のムダだったことを悟る。記事によって、書いてある理由が滅茶苦茶なのだ。指揮者としてはまだ若く将来有望なルカを貶めたいという悪意すら見えるようで、吐き気がする。思わず舘野はブラウザを閉じた。  深い溜め息を吐き出したところで、ふと、尾上に連絡を入れようとメーラーを起動する。彼の方が、ルカ・フェランテという男には詳しい。手早く、ルカの失踪の理由を問う文面を送りつけると、気分転換にとコーヒーを淹れにデスクを立った。  コーヒーの香りで落ち着きを取り戻した頃、尾上からのメール着信があった。株だかFXだかでPCに張り付いているのだろうか。団員の誰よりもレスポンスが早いことで定評のある彼だ。尾上からの情報は誰よりも信頼出来ると、舘野は認識していた。 『その頃のルカは急にコンペに勝ち上がってきた頃だったから、やっかみはありました。若き才指揮者とも呼ばれてたし、一部の  だから、出てる記事はほぼデタラメですよ』  メールの文面に目を通して、やはり、と舘野は安堵の息をついた。 『ですが、ソリストが自殺したのはほんとですし、それが失踪の理由だというのは、おそらく本当だという話でした』  これは当時のシカゴオーケストラのメンバーから集めた情報ですが、と前置きがあり、更に文面が続く。  ソリストの自殺でルカは自責の念に駆られ、公演の中止を何度も訴えたという。天才指揮者と持て囃されようと、有能なバイオリニストを死なせてしまってまともに指揮が出来るわけが無いと、何度も練習中に荒れたそうだ。  どうしても成功させたいという団員たちの強い要望により公演が中止になることはなかった。 『俺が知っているのはここまでです』  すみません、と文面にはあった。ルカの信者たる尾上ですらそこまでしか情報を得られなかったのだ。あとは本人から聞き出すしかないのだろう。  ルカの中では、公演が成功しても、何一つ満たされなかったのかもしれない。  だから、アキハバラ交響楽団のようなアマチュアオケに来たのかもしれない。いや、もしかしたらそのまま、指揮すら辞めていたのかもしれない。  想像したところで、思わず唇を噛んだ。  自分を本気にさせておいて、あれだけの熱を団員にもたらしておいて、身勝手だ。ルカのあのやり方がシカゴ当時と変わらないのであれば、団員はきっといなくなったルカに憤っただろう。今の自分のように。  日山に誘われたのは偶然だとルカは言っていた。だとしたら、なんという巡り合わせなのだろうか。ルカに逢わなければ、自分は団員との悶着の末、アキハバラ交響楽団を辞めていただろう。  亡くなったソリストが生前に演奏した動画がネットに上がっていたのを見つけると、再生ボタンを押す。練習中に撮影したらしい動画は、胸にすっと入り込むような、美しく、透明感のある音色をしていた。オーケストラでソロを演奏していたら、きっと見事なものだったろう。団員たちは、ルカは。どれほどその時を楽しみにしていたのだろうか。  ルカはシカゴに戻るのだろうか。それは寂しい気もする。  だが、シカゴでの伝説と言われた演奏に、自分も触れてみたい。彼が招待を断ることを想像したら、酷く落胆するであろう自分がいた。  きっと、招待状はシカゴの団員たちからルカへ贈られたメッセージだ。  スピーカーから流れるヴァイオリンの音色が、いつまでも響いているような気さえした。  気がつくと、舘野は会社帰りの徳永を捕まえに新宿まで来ていた。誰かに聞いて欲しい、と思った時には徳永だった。尾上は聞いているのか聞いていないのかよく分からない。  知った情報を洗いざらい喋ってやっと落ち着いた頃に、舘野は自分自身の感情にも気づき始めた。これは、不安だ。  シカゴに行くのか行かないのか。ルカがどちらの選択をしたとしても、胸が苦しい。 「……これだから、ラティーノは信用ならないんだ」  小さく呟いて、シフォンケーキをアイリッシュラテで流し込む。二つ目のケーキは、徳永の奢りだった。 「……音楽に対して本気なら、シカゴに行くべきだろ?」 「舘野、お前は……ルカが本気じゃないと思ってるのか?」  ホットコーヒーを啜りながら、徳永が問う。愚問だろう。 「逃げている」 「ルカがシカゴに行くということは、アキハバラから、……日本から離れるってことだぞ」 「そう、……だが」  ラテのマグカップを置くと、徳永を睨みつける。だが、徳永は気にした様子もない。この男には威嚇しようが悪態をつこうが、通じないのは以前からだった。  だが、逃げてるのは自分も同じだった。  そうだ、確かに逃げている。見透かしたような口を聞きやがって、と思ったけれど、事実だった。事実だけに、余計に心が苦しい。  自分もルカも立ち向かうとしたら、道は一つだと、舘野には分かっていた。だが、言えるはずもないことを舘野は分かっていた。 「……僕も、一緒にシカゴでやりたい」  徳永にだけは本音が言える。ルカに言えないことでも吐き出せる相手は数少ない。  目を伏せると、舘野は唇を噛み締めた。 「ルカと離れたくない、ルカに、シカゴを断って欲しくもない……」  引き絞るような声音になったのは、押し殺した本音だったからだ。  一緒にシカゴに行って、もし、あの伝説と言われた公演を、ルカと二人でやり遂げられたら。そうすればもう二度と、逃げている自分に息苦しさを感じなくて済む。  何より、ルカの指揮で、もう一度演奏がしたかった。  翌々日の水曜夜のことだった。練習が終わり、皆がまばらに帰る頃、舘野は自販機へと向かっていた。  廊下を進むと、人の気配がした。まだ誰か残っているのだろうかと、舘野は思わず立ち止まる。 「だから…!!…、たての、……、…!」  話し声の主は、徳永だった。自分の名前が出たような気がした。  一体、何を話しているのだろうか。 「行かないつってるだろ!」  今度はハッキリと、ルカの声が聞こえた。この二人が口論しているのは珍しい。  思わず息を潜めると、スタジオに戻ろうかと踵を返したところで、背後から呼び止められた。 「……ユウ?」  気配で、気付いたのだろうか。振り返ると、駆け寄ってきたルカに腕を取られた。そのまま、引き寄せられる。 「ユウ、待って。お前にも、聞いて欲しい。ちゃんと、言うから」  初めて見る顔をしていた。酷い顔だ。それは徳永との口論のためではないだろう。きっと、過去を思い出したからだ。  そしてその過去は、自分がヴァイオリンを雪の中に埋められたような昔ほど過去のことではなく、ルカにとってはまだ、ガーゼを貼ったばかりの傷なのだろう。引剥せば、傷口から血が滲むような。 「何で僕だってわかったんだ?」 「指揮者だからな。耳はいいんだ」 「……あぁ」  自慢げに言うものの、口論のせいだろうか、呼吸が荒いように思えた。  相手は徳永だろうか。振り返るとまさしく予想通りの男が腕を組んで立っていた。彼も彼で、感情が荒ぶっている。 「何を話していたんだ」 「ルカに、舘野を連れてシカゴに行くようにって話をしてた……」  低く唸るような声。怒りを鎮めようと必死に押さえ込んでいるようにも見える。温厚な奴ほど怒らせると怖いというが、まさにそうなのかもしれない。  あの口論を聞くに、ルカはシカゴに自分を連れて行くことを拒んだのだろう。その先を聞かなくても分かってしまう自分に、舘野は余計に落胆する気分だった。 「徳永、余計なこと言わなくていい」  説得して渋々連れて行かれることを望んだわけでもない。連れて行って欲しがっているとルカに知られるのも本当は我慢ならない。深くため息を吐き出すと、いっそ消えてしまいたいような衝動に駆られた。 「もういい、最初から期待なんてしなきゃよかったんだ」 「ふざけんなよ!」  バァン、と強く壁を叩いたのは徳永だった。押さえ込んでいた怒りが、限界に達していた。 「二人とも、音楽からも、お互いからも、ズルズル逃げてやがる……実力もチャンスも持ってる奴が、言い訳ばっかりして逃げて、本当に腹が立つ!!」  堰を切ったように、言葉が後から溢れ出してくる。 「やりたい音楽を自由にできる力を持っているくせに!」  アキハバラ交響楽団のメンバーも。音楽に対する並ならぬ情熱を持っているメンバーばかりだ。音楽の道を諦めて辿り着いたメンバーもいる。  徳永自身、音楽で食べていけるほどの腕もなかったし、そのことを自覚している。 「そのチャンス、いらないなら、欲しいやつにくれてやれよ!」  俺に、くれよ。そう叫んでいるように見えて、体中の熱が沸騰しそうになるのを感じた。そんな風に見えていたのか。  お前に何が分かる、と叫ぶつもりで舘野は口を開きかけた。自分の実力もチャンスも、努力の末に掴んだものだ。それをどうしようと自分の勝手だろう。 「……二人とも」  自分の指先が握り込まれるのを感じた。  その先は言ってはいけない、と言うようにルカが遮った。舘野は言葉を飲み込み、拒絶の言葉は形にならずに腹に収められた。  指先を握る魔法の手がわずかに震えていて、冷えていた。本番の直前ですら、緊張に冷えることのない魔法の手が、青白い色をしているように見えた。 「あのときシカゴで何があったのか……聞いてくれ」

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