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第14話
割りと、音楽業界ではよく聞く話ではあるが、と前置きをしてルカは口を開いた。ロビーのL字型ソファに三人で腰を落ち着けると、ルカの声が静寂の中に響く。もともとよく通る声だが、今日は人がいないせいか、ひときわよく響いた。
「俺って、家族の中では変わり者って感じだった。両親も普通だし、姉貴も外資系企業のキャリアウーマンって感じなだけで、音楽やりたいなんてのは俺くらいのものだった」
ルカはわずかに視線を上げて、遠くを見つめるような表情をした。スペイン人の父親と、イタリア人の母親がいると聞いたことはあった。いわゆる音楽一家というのは少なくないが、ルカはごく一般的な家庭に育ったという。
「俺だけなんだよ。異端、っていうのかな。物心付いた頃にはオーケストラに忍び込んでは練習するのを聞いてた。生まれてくるときに音楽を愛するように神に造られたんだって、子供の頃にはそう思ったくらいだった」
親にどうしても音楽がやりたいとせがみ、ピアノを学び、機会があればオーケストラの公演に足を運んだ。練習に忍び込むこともやめられなかった。ジャズバーでのバイト代を貯めると、時々ピアノ演奏でボーナスを貰うこともあった。それらはすべて楽譜に消えた。
「音大に行ってさ。フェリックスはそこで同期だったんだ」
フェリックス・クリーコフ。ロシアの若き天才指揮者。
舘野は実際に会ったことがあるせいか素の彼を知っている。ルカとは性格的にも音楽の方針としても真逆の方向性をいく男だ。
「あいつは俺と違って音楽一家でさ。学院内でも割りと有名だったな。努力家で自分にも他人にも厳しい……人一倍努力家で、やっぱりレベルも違ったな。でも、俺はそんなこと、あんまり気にしてなかったんだ」
「気にしていなかった?」
徳永が怪訝そうに眉を潜めた。
「そう。俺は、好きなように音楽がやれればよかったし、楽しかったし」
それだけで良かった。好きな音楽に、好きなように触れられれば楽しかった。それは、まだアキハバラ交響楽団の団員がルカと舘野の熱意にあてられる前の時のような感覚なのだろう。あるいは、迷い続けている舘野のような。
「でも、楽しいのに何かが足りなかった。うん、空っぽな感じだった。今とは違ってたな」
楽しいだけでは満足できないことに、まだその時は気付いていなかったんだと思う、と小さくルカが呟いた。その言葉に、再びロビーに静寂が降りる。
舘野はコーヒーを一口啜る。嚥下する喉の音まで聞こえるような気がした。
「ユウは知ってると思うがな、フェリックスはプロ初公演で盛大に失敗した。その時に得たんだろうな。あいつの演奏は迷いがなく真っ直ぐで、力強い。でも、俺はそのとき、挫折や失敗すら、うまく味わえなかったんだ」
徳永が、まっすぐにルカを見つめている。
挫折も失敗も、プロレベルの話だ。本気で音楽の道に進む者に与えられた試練をフェリックスが乗り越えているときも、ルカには与えられなかった。
「何が足りねぇのかよく分かんないままだったけど、振る度に評価はされてた。そんで、一昨年な。シカゴに呼ばれたんだ、客演で」
伝説のシカゴ公演。たった一度きりの演奏会。幻の公演。
再演どころか音源も公式には存在せず、非公式な動画がネットに上がっているだけ。それでも、再生数もリスト数もとんでもない数を叩き出している。それほどに、今でも話題になっているほどだ。
「チャイコフスキーの、ヴァイオリン協奏曲だったか」
「そう。でも、いいソリストが見つからなくて、オーディションをやったんだ。そのとき、……彼女がやってきた」
ルカの声が強張る。彼女、それは件の自殺したヴァイオリニストのことだろう。舘野は思わずルカの背中に手を添える。ゆっくりと撫でてやると、ルカは深く息を吐き出した。
舘野も徳永もネットに上がっているさまざまな事実と憶測は目を通している。おそらく同じ内容をルカ本人も知っているはずだった。だからこそ、二年経ったいまでもその傷は癒えていない。
「彼女、エレナと出会ったときのこと、今でも覚えてる。自信の無さそうな、申し訳無さそうな顔で、俺達の前に立ったんだ」
何人もの参加者がオーディションを受け、しかし決め手となるものが欠けていたことで、審査は難航していた。妥協はしたくなかった。
とりあえず好きに弾いてみろよ、とできるだけ柔らかい声音を心がけて言うと、エレナは小さく息を吐き出した。僅かに手が震えているが、弾き始めた瞬間に、惹き込まれた。
音が輝いて、踊っている。まだ若く、弾きこなしているとはいい難い硬さはあるが、他の誰にもない瑞々しさがあった。
他のメンバーとも話し合ったが、特に異論なく彼女に決めた。一方の彼女は、合格するとは思っていなかったらしい。オーディションを受けはしたものの、本当に自分でいいのか、というような顔をしていた。
ソリストに決まってから、彼女は練習に打ち込んだ。血が滲むほど、実際に血豆ができても彼女は弾き続けた。ルカも、徹夜で付き合うこともしばしばあった。時が経つほどに、共に過ごすほどに、ルカは指揮者として彼女に心を砕き、彼女と協奏曲を作り上げた。
だが、エレナにそうまでさせたのは、舞台上で失敗してはいけないという恐怖心だった。
彼女はヴァイオリンを弾く度に、少しずつ少しずつ、心を削っていた。幼い頃からヴァイオリニストとして成功するためにスパルタ教育を受けてきた。彼女はそれを口にすることなく、ただ黙々と引き続けた。
それでも弾くことをやめない、やめられない彼女にとって、ヴァイオリンを弾くことそのものが恐怖だったのだ。それを自分で受け止めることもなく、周囲の望み通りに弾き続けたのは、それしか知らなかった。
公演の一ヶ月前に自ら命を絶った彼女の部屋からは遺書の代わりに、使用した痕跡のあるコカインが発見された。
絶望した。時間をかけて、オーケストラの誰よりも心を通わせていると思っていた。だが、それは自分だけだった。ルカはすぐさま公演の中止を希望した。一ヶ月で、ヴァイオリン協奏曲を作り上げることなんて、とてもじゃないができない。だが無情にもチケットは完売しており、主催からも何とか別のソリストを探すようにと却下された。
話を聞いたフェリックスが、サンクトペテルブルクオーケストラでお抱えのソリストを紹介してくれたことで、公演には間に合った。宣伝広報が駆けずり回ったためにチケットの払い戻しもなかった。
メディアが彼女の死の真相についてあることないこと吹聴していたが、ルカの周りには、誰一人として、中止にしようという者はいなかった。
その気持ちに救われて、せめて彼女に向けた追悼と鎮魂のため、成功させようと心に決めていた。それだけがルカの支えでもあった。
「ユウに借りたゲームをやっててさ、あれ、運命のようだと思ったんだ」
冷めきったコーヒーを啜って、ルカは言った。ゲームの主人公は、身近な人の魂を喰らって成長していく。そしてエンディング後も、故郷に戻ることなく、旅を続けるのだ。それはまるで、シカゴに戻らない自分のようだとルカは呟いた。
「俺は、エレナの魂を喰らったんだろうな」
シカゴでの演奏は、大成功に終わった。まるで彼女の魂を贄としたかのように。
「指揮棒は捨てるつもりで、ここに逃げてきた。いろんなことをメディア連中が書き立てたけど、それよりも、公演が評価を受けたのが、耐えられなかった」
舘野はそれを聞きながら、目を閉じる。初めて出会った日、なんでこんなところにいるんだと問うたことを思い出した。そのとき、彼は煙草の煙と共に、本心を押し隠したのだと思いだした。
「おかしいだろ?友人を死に追いやったくせに、まだ指揮棒を捨てられない。呪いだよ。何度も何度も、こんなもの捨ててしまいたいって思った。でも、だめだった」
音楽でしか、食べていけない。音楽なしには、生きられない。同じだった。
自分にも覚えのある感情だと、舘野は思った。
徳永とて、音楽一本にすることはできなかったが、どうしても弾きたい気持ちを、日山に見透かされた。
「アキハバラにきて思ったよ。俺ができる贖罪は、演奏し続けることだけなんだって」
コーヒーを飲み干したルカは深く息を吐き出した。胸に収め続けていたものを出し切るように。
指揮棒を捨てたい。音楽なしには生きられない。どんな出会い方をしたのかは分からないが、相反する気持ちを日山は確実に見抜いたのだろう。徳永や、自分や。団員たちの気持ちに寄り添ったのと同じように。
「だったら、余計にシカゴに戻るべきなんじゃないのか」
「シカゴには戻らない。……ユウは、ユウだけは連れていけない」
徳永が言い募ると、絞り出すような声音でルカは拒んだ。けれど舘野には、頑ななルカの言葉にもう自分が何をすべきか、理解していた。
「俺は、ここで演奏を続ける」
立ち上がると、舘野は自分の両手を見下ろして背中を丸めているルカを見下ろした。
魔法の手。
自分が恋い焦がれたルカの両手を、じっと見つめた。その手にキスした日のことを思い出して、笑みを零す。舘野にとって、それはまるで随分昔のことのように思えた。
「ルカ。君は、僕の演奏を好きだと思う?」
「好きだよ」
「世界に通じると思うか?」
「もちろん。そうじゃなかったらフェリックスのところになんか行かせねぇよ」
なんなら、もっと活躍してる指揮者に紹介したっていい。何を今更、という顔でルカは首を傾げた。
「わかった。それが聞きたかった、ありがとう」
ゆっくりと目を閉じる。脳裏に、彼女のチャイコフスキーが流れ出す。彼女の演奏は美しく華やかで、画面越しでも魂を揺さぶるように音が生きていた。紛れもなく彼女は本物であったはずだ。
「二週間だ。二週間、時間をくれないか、ルカ」
贖罪のためではなく、魂を食らう呪いのためでもなく。
心から、本気で楽しいと思える演奏のために。
いつかルカがそうしたように自分がルカの背を押して舞台に立たせたいと、舘野は心の底から、願っていた。
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