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第15話

 パリにいた頃の楽譜を取り出すのは久しぶりだった。クラシックオーケストラに代役で呼ばれることがあっても、新しく楽譜を準備するようにしていたのは、当時の気持ちを受け入れられなかったからだ。  けれど今は、弾く目的がある。あの頃は、受け入れられるものがそう多くはなかった。  サンクトペテルブルクオーケストラでも血が滲むほど弾き続けたが、学生の頃はどうだっただろうか。熱心に練習してきたつもりだったが、目的が違った。あの頃はただ、自分のためだけに演奏していたような気がする。だから足りなかった。  自分が満足するためではなく。  自分の演奏で彼の背中を押すことができるのなら、それは何を得るよりも幸せなことのように思った。  呪いを受け継いだ主人公は、物語の中で大切なひとの魂を喰らってしまう。そしてこれ以上誰も失いたくないと、帝国の圧政を解放したのちに一人で旅に出ようとする。  ずっと傍にいた大切な家族が、一度は失った家族が、傍にいた。  もうひとりでいなくてもいい。奪ってしまう恐怖だけを抱えて生きなくてもいい。  孤独を癒やして、生きていける。そう信じていた。  二週間後の水曜の夜に来るようにルカにメールで伝えていた。舘野はいつもとは違うバイオリンを手にして、ピアノの椅子に座っていた。ルカからは一言、「Si(わかった)」ときていた。  膝に乗せたヴァイオリンをそっと撫でる。パリでずっと共に旅をしてきた彼。随分長いこと手にとることを避けていたが、今ではもう胸が痛むこともない。ただ、過去を温かく受け入れる気持ちだけだ。パリでの苦い思い出が、過去のものになってきているのを実感していた。  胸の内はひどく静かで、まるで凪いだ湖面のようだった。  いつかの香りが、鼻腔をくすぐる。見なくても分かった。舘野は立ち上がるとルカを椅子へと促した。  何も言わずに一礼すると、ヴァイオリンを構える。弓が弦に触れる。  意識が、研ぎ澄まされる。 「……ッ」  ルカが息を飲む。チャイコフスキー、ヴァイオリン協奏曲。  情緒的で、豊かな表現力と華やかさのある音をしていた。アントニオ・ロッカ。いつか話に聞いたことはあったが、彼がパリで舘野と時間を過ごしたヴァイオリンなのだろう。  耳慣れた曲だからこそ全身で身を委ね、音の奔流に任せる。  ヴァイオリンソロに乗せて、オーケストラが脳裏に重なる。かつてのシカゴ交響楽団のメンバーがそこに在るような気さえした。  温かく、生命の輝きに満ち溢れた音。恐怖も、呪いもそこには何一つない。  こころが、魂が温かく包み込まれているようにさえ感じて、ルカは目を閉じた。  エレナは自分の恐怖のために、音楽の楽しさをすり減らしてしまっていた。けれど、指先を血豆で絆創膏だらけにした舘野は、心地良さそうに、心から楽しそうに、嬉しそうに弾いている。きっと、この二週間食事も睡眠もおろそかにして弾き続けたはずだ。苦しくない訳がなかった。自分は間近で見ているから知っている。エレナも、舘野も。だが、舘野が紡ぎ出す音色は歓びに満ち溢れている。音楽なしでは生きられない。音楽こそが生きる歓びなのだと音で、カラダで、表情で、全てで伝えてくるようだった。  目の奥にじわりと熱が篭る。  ルカは舘野を見つめ続けていた。  夢のようなひとときでさえあった。一瞬のような、永遠のような。最後の音の止んだ静寂のなかで、ルカはただ余韻に浸るまま、呆然としていた。舘野が弓を降ろしてもなお、流れるままに頬を濡らして。 「ルカ」 「……ん」  ヴァイオリンを置いた舘野が歩み寄って、椅子に座るルカの足許に膝をついた。絆創膏だらけの指で涙を拭う。 「君の音楽が好きなんだ」  だから、罪を償うことなんかしなくていい。 「魔法の手は、ぼくも、アキハバラも救ってくれた」  呪いのはずがないのだから。だから、 「僕は死んだりなんかしない」  喰らい尽くされて魂を奪われることなんかない。  自分に罪を感じる必要もないし、罰を自らに与える必要もない。 「ユウ……いっしょに、来てほしい」  背中にしがみつく手に、力が篭もる。シャツを掴んだまま、ルカが耳元に言葉を落とした。  求められたことに、じわりと目元が熱くなるのを感じた。  望むのならシカゴへでも、どこへでも共に行こう。呪いなどに恐怖を感じたりしない。 「よろこんで」  ルカ・フェランテ。  君に、僕からの祝福のすべてを。  徳永にメールを入れると、了承と共に『あれからどうなったんだ』と心配そうな返事がきていた。 『今後のアキハバラ交響楽団のことをお前に頼みたい』 『そうか、わかった』  まだ何も言っていないが、察しのいい徳永はすぐ勘付いたようだった。指定した通りに次の土曜の朝、いつもの練習時間にスタジオに彼はやってきた。  しばらく練習は休みと伝えていただけあって、スタジオは静かにピアノの音だけが響いていた。  ベートーヴェン、ヴァイオリンソナタ、春。時々練習にと弾いているのを聞いたことがあるのは、おそらく学生時代に教室で弾いていたのだろう。  以前は、型通りの硬い音色をしていたように感じたと記憶していたが、随分楽しそうに弾いている。ご機嫌な音だ。  日本を発つ前に、もう一度徳永と演奏したいという欲が沸いた。ちょうど、夕方から幡山のバーに行くつもりだったからコンサート用のを持ってきている。  スタジオに入ると、気がついた徳永が手を止める。 「あぁ、来たのか、舘野」  ピアノのすぐそばのパイプ椅子を寄せるとケースからヴァイオリンを取り出す。軽く鳴らしてから構えると、目を細めた。 「セッションしよう」 「ん、……あぁ」  二人で目配せをして弾き始める。スタジオに入って聞いた通り、気持ちのいい演奏をする。随分とご機嫌な春、生き生きとして、いい音色をしている。少し弾き方がルカに似てきたように思う。  時折合わせる目線でわかる。徳永も心から音楽を楽しんでいる。  真面目な徳永をここまで成長させたのは、アキハバラでの経験に他ならない。徳永の癖に、自分を振り回そうというのか。思わず笑みが溢れて、少しテンポを上げてやる。ついてくるか。試すように目を細めると、徳永が一瞬目を見開き、すぐにテンポをあげた。追いついてくる。  まるで子猫がじゃれあって追いかけあっているような。楽しい。楽しくて、二人で笑いながら弾ききった。 「お前なぁ、手加減しろよー」  ひとしきり笑いあったあと、徳永が目尻の涙を拭って言った。 「君ならついてくるだろうと思って」 「まったく……」  肩をすくめる徳永を押しやって、ピアノの椅子の半分に尻を押し込んだ。徳永の肩に、背中を預ける。背中を叩かれて、徳永の柔らかい声がした。 「また、代振りを探さないとな」 「うん」 「喜多村はコンマス昇格だな」 「あぁ。今度は本当にコンマスだな」 「尾上が拗ねるな、ルカもお前もいなくなると」 「拗ねるか?」 「たぶん。あいつ結構ガキンチョだから」  ゆっくりと目を閉じると、舘野は静かに息を吐き出した。徳永は日山と共にアキハバラ交響楽団の創設者だ。任せても何の心配もいらないだろう。指揮者をまた再び探さなければならないが、いまのアキハバラ交響楽団なら心配いらないだろう。 「徳永。君のピアノ、好きなんだ」 「ん?」 「続けるよな?」  アキハバラ交響楽団も、続いていくと信じたい。 「そりゃ、もちろん」  徳永が、再び背中を叩いた。目を伏せた彼が小さく、寂しくなるな、と呟いた。  その言葉に、留学していたパリでは早く日本に帰りたいと思ったのに、アキハバラから巣立つのは寂しい気持ちがしていたことに気がつく。  未練ではない。  名残惜しく、切ないような。  長く共にやってきた徳永が同じ気持ちでいたことに、胸のうちが温かくなるのを舘野は感じていた。

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