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第16話
シカゴのホテルにつくと、荷をほどいて、早速舘野はヴァイオリンをケースから取り出す。部屋は音楽家御用達の防音仕様で、いつ弾いてもいいと聞いている。アパートの手配ができるまではホテルでの滞在になるだろうと、オーケストラの主催側が準備してくれていた。
いつも通りに念入りに指慣らしをしてから、パガニーニの技巧曲を弾く。いつもと違うのは、傍らでルカが聞き入っていることだった。
「もう弾くのか、さすがだな」
「移動中は練習できなかったからね」
ベッドに転がってニコニコと笑ってルカが見ているのは嫌な気はしない。一曲を弾き終わると、しばらく思案していたルカが急に真面目な顔つきになって、ベッドの上に楽譜を広げ始めた。
「どうした?」
「いや……やっぱり、チャイコフスキーやりたいな、と思って」
広げていたのは、ヴァイオリン協奏曲だった。イタリア語でたくさんの書き込みがある。きっと二年前の練習のときのものだろう。
「僕も、やりたい」
最後にあのホールで演奏したとき、ずっと脳裏にはルカが指揮している姿を浮かべていた。ルカの指揮で、シカゴオケでソロをやる。ついこの間までは、想像したこともない状況にあった。
「ソロ、弾いてくれるか?」
「もちろん」
自然に抱き寄せてくるルカの腕に身を預けて、舘野は頷いた。
シカゴオケの練習は翌日の夜から始まった。スタジオにつくと、既にメンバーは全員揃っており、皆がルカの帰りを待ちわびているようだった。
「ルカ!」
姿を見るなり何人も立ち上がって駆け寄ってくる。もみくちゃにされて声をかけられている様子を見ていると、やはりルカが慕われていたことを知る。そういえば、アキハバラでも最初は胡散臭い男だと思っていたが、ルカの人となりを知ると誰もが彼に寄っていく。
公演の前にメンバー全員と対話をし、プレハブ小屋を防音仕様にし、恋の悩みを聞き、飲みに行き、ガチャ用の祭壇を作り。そうして、人と関わり、関係を築いていくのがルカのやり方だ。それはシカゴでも同じだったとルカは言っていた。
「おかえり」
「待ちくたびれちまったぞ!」
口々にルカの帰還を祝福するのを見つめながら、ルカがどれほど求められていたのかを舘野は実感していた。やはり、アキハバラに留まるには勿体無い。
「ところで、そこのジャパニーズは学生さんか?」
「はっはっは、見学か。いいぞ、好きなだけ見ていってくれ」
陽気な連中だが、学生に間違われたことに舘野は僅かに眉を寄せる。
「誰が…」
学生だ、と言いかけてルカが舘野の肩を引き寄せた。
「今回、チャイコフスキーのヴァイオリンソロをやる、ユウ・タテノだ」
ルカが言い放つと、ルカの帰還を喜んでいた楽団員たちが静まり返る。その沈黙の意味は、無名のヴァイオリニストに対する警戒だろう。彼女もまだ若く、そして経験不足だった。
「彼は日本のアマチュアオケのコンマスだったが、俺が引き抜いてきた」
僅かに品定めするような視線が混じっている。舘野はぐるりと辺りを見回した。
経験不足であることは自覚はあったが、ルカが身内贔屓で自分を評価したとは思わない。ルカがシカゴに連れてきた。その事実だけで、舘野はまっすぐに立っていた。
「こないだのフェリックスの日本公演でもソロを務めたんだ、腕は確かだ」
何より、極度の負けず嫌いだ。
口元だけで、小さく呟いたのが分かって舘野は視線をルカへと向けた。余計な事を言うなと小さく首を振ってみせたが、ルカは気にした様子もなく肩を竦めて見せた。
「フェリックスって、フェリックス・クリーコフか!」
「サンクトペテルブルクか…」
静寂が、再びざわめきに変わる。ここでは日本よりもフェリックスの名は通っているらしい。これがフェリックス相手だったらまたここで罵倒を繰り広げていたように思ったが、ヴァイオリンを置いた女性が両手をパンパン、と叩いて舘野に笑いかけた。
「ほら、そのへんにしておいて。練習、練習!」
「あぁ、そうだな」
「……助かった、リザ」
「どういたしまして。でも……そうね、お手並み拝見だわ」
口端を引き上げて見せた女性がこちらにウィンクをしてくるのに、舘野は嘆息を吐き出した。何かと気にはなるのだろう、他のメンバーからも視線がちくちくと刺さるようだった。
「それじゃ、頭からやってみよう」
「ユウはそこの椅子使って頂戴」
リザに促されて、舘野は椅子にヴァイオリンを置いた。ケースから取り出すと、構えた。軽く鳴らすと、アキハバラとは比べ物にならないほどよく響いた。音響がいい。気持ちよく弾けそうだった。
「今日はとりあえず、慣らしだな。リラックスして」
楽譜を捲ると、アキハバラから持ってきた指揮棒をルカが持ち上げた。コルクのところに、さよ子が落書きしたスマイルマークがあるやつだ。
ルカがこちらに視線を向けて、僅かに笑んだ。
大丈夫だ、もうパリにいた頃の、臆病な自分ではない。頷いて見せた。
魔法の手が導いていく指揮はやっぱりとても心地よく、弾いていて気持ちがいい。楽しい。フェリックスのときに感じたような反発心もない。あれはあれでフェリックスの迫力のある演奏に良かったのかもしれないが、きっと同じ曲を振ってもルカとフェリックスでは違う。
ルカの華やかさは、もっと温かい。これが、シカゴを魅了した指揮なのだろう。
「ほい、一旦ここまで」
指揮棒を下ろすと、舘野は深く息をつく。流石にプロはレベルが違う。ルカの様子を窺うと、楽譜を軽く捲くっていた手を止めて、首を傾けた。
「うん、ちーっと硬いな。ユウ、もうちょっと肩の力抜いて、大丈夫だから」
ぱちん、と軽いウィンクをしてルカは次々、団員のメンバーに指示を出していく。その様子はアキハバラと何一つ変わらなくて、舘野は深く息を吸って、吐き出した。
変わらない。アキハバラでやっていたように。
「それじゃ、もっかい最初から、練習番号Bまでな」
楽しそうなルカも、いつも通り。
何の心配もいらないという風に笑うから、安心していい筈なのに、何となく無意識に肩がこわばってしまう。ルカにとっては懐かしい場所でも、自分にとっては完全にアウェイな環境なせいだろうか。
フェリックスのオーケストラでは、緊張などしなかったというのに。
「硬い……」
自分の両手を見下ろす。いつも通りにと思っていたが、確かに少し肩に力が入っているようにも思えた。
「もちっと、こう……色気があるといいなぁ」
「は?」
「技術も繊細さも元からあるし、だいぶ華やかな音になったしな。あとはこう、艶っぽさが欲しいなぁ」
日本語で話しているせいか、他の団員は会話に気づかない。ルカだけが、どこか夢を見るように、楽しそうにしている。
思わず眉を寄せるが、舘野はヴァイオリンを手にして冒頭から弾き始める。
「うーん、違う、もう少し……こう、やわらかく」
指先でうねるような仕種で、やわらかく、と伝えてくるルカに目を伏せた。こうか、とその指示を参考に弾き直す。
「ちょっと違う、それだと弱い」
首を振って見せるルカと、何度も何度もお互いに試行錯誤を重ねるが、ルカの首は頷くことはなかった。
「色気って、なんだ」
ホテルに戻ってきてからも、舘野はヴァイオリンを放そうとはしなかった。納得のいく音が鳴るまで、妥協するつもりはなかった。
「お前、そのままメシも風呂も寝るのも忘れて弾きそうだな」
肩を竦めてベッドから立ち上がったルカの腕を掴む。バスタオルを持っているからには、シャワーを浴びに行こうとしたのだろうが、そうはさせない。
「色気ってなんだ?もっと、分かるように伝えてくれ」
「なんだ、って……お前なぁ」
何度も繰り返し弾き続けるが、どうしても見つからない。
腕を組んで暫く思案していたルカが不意に、舘野の腕からヴァイオリンを取り上げる。
「Non!(こら)」
「あ、おい」
「練習しねぇ演奏家は話にならんが、練習ばかりでメシも食わねぇ演奏家もダメだかんな」
ケースからクロスを取り出して、ルカは丁寧に拭いていく。ヴァイオリン奏者が自分の相棒を大切にするように、ゆっくりとクロスを滑らせていく。ポリッシュを僅かに含ませた布で、柔らかく、撫でるように。
ルカが楽器の手入れをしているのを見るのは初めてで、思わず見つめていた。
「ルカ、もしかして腹が減ってるのか?」
「なるほど。色気、な……」
ルカが目を細める。自分の顎を撫でて、得心したと言わんばかりに小さく頷いている。
「なんだ?」
「ユウ、見てろ」
ひらり、とクロスを振ったルカが再びボディにクロスを滑らせる。ホテルの部屋のライトの下でも分かる。その、手つきが妙に、優しい。
「……ルカ」
まるで、初めての夜のようだ、と無意識に思ってしまった。
瞬時に舘野はその思考を追い払おうと首を振る。それなのに、ルカは手入れを終えたヴァイオリンを優しくケースの中におさめる。
まるで、愛おしい恋人を扱うかのように。
「おいで、ユウ」
ぱちん、とロックをかけたルカはその手を舘野に向ける。つい今し方まで、ヴァイオリンを恋人のように扱っていた、その手を。
「……これだから」
「これだからラティーノは、って?」
抗えない、魔法の手には。
差し出された手を取ると、くるりとダンスを踊るかのようにターン、そのままの勢いでベッドに二人でなだれ込んだ。
目の前でルカの黒髪が揺れる。
間近に、まさに色っぽく笑って見せたオトコの顔があった。
「ラティーノの色気について、個人レッスンの時間とするか」
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