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第17話
ベッドの上で、ルカは妖艶に笑って見せた。
「色気を覚えるには、まずお前が快楽を感じないとな」
わざとなのか、前髪を掻き上げたルカが肩を竦めてみせる。伸び放題に放ったらかしてある前髪から白い額が見えた。
ずるい、と舘野は目を背ける。
普段はまるで気の抜けたホルンの様な、ふにゃふにゃの顔で笑うくせに、こんなときばかり。
「ユウ」
低く、深い声音が、ひときわ甘く名を呼ぶと、舘野は身体の奥に熱が灯るのを感じた。
優しくて、熱くて、何もかもを包み込むように甘い毒のような声。
「ル、カ……」
喉が乾く、掠れた声で名前を口にすると、思わず伸ばした手を捕まえられた。その指先にキスを落としたルカが口に含む。
それはいつだったか、血豆の痕を舐めたときと同じものを呼び起こして、舘野はつい身構える。
「……ッ」
「集中して」
指先のかたちを確かめるように唇で辿られる。それがまるで口淫を連想させて、舘野はきつく目を閉じた。指先は神経が集中している。柔かな舌先が触れる感触だけで、腰が震えそうになる。
「ぁ、……あ、ルカ……」
「今は気持ちいいことだけ考えてろよ」
指を口から抜き取ると、ルカが甘く囁いてくる。その言葉に抗えないのも、魔法の手が自分を溶かしていくからだと、舘野には分かっていた。分かっていて、どうしても振り払うことなんかできない。
シャツの裾からルカの手が潜り込んでくる。温かな掌に触れられていると、安心感と官能が同時に呼び起こされて、まるで自分の身体ではないかのように、反応していた。
「あ、あ……ッ!」
シャツを捲り上げて、ルカが白い肌に唇を滑らせると、舘野は背をしならせる。時折、薄い腹に齧りつく男の頭を抱きながら、舘野は胸を上下させながら引きつったような悲鳴を上げる。
それが酷く情感を煽るのだろう、ルカは腰に噛み付いて、そのまま強く吸い付く。白い肌に、赤く鬱血の跡が残った。
「肌が、気持ちいいな……」
ちゅ、とリップ音を立てて柔らかな腹に口付けると、舘野の背が跳ねる。陸に揚げられた魚のように跳ねる姿は酷く艶かしく見えた。
気を良くしたルカがボトムに手をかけるのを見つめながら、舘野は溶け始めた思考で思う。なぜ、この男は自分を抱くのだろう。
執着しているようには見えない。けれどシカゴまで連れてきてくれた。
自分も気持ちを伝えたわけではないし、相手がどう思っているのかも言葉にされたことなどない。
それでも目の前の男は、かつて自分が得られなかった温もりと快楽を与えてくれた。
ぐずぐずに思考が溶け切るまで、ルカの執拗な愛撫は続いた。
舘野の喉が枯れ、喘ぎ声に時折啜り泣く様な声が交じる頃、漸く解放された舘野の身体はすっかり上気しており、熱を孕んでいた。
枕に頬を押し付けてシーツに沈み込む舘野は、起き上がるのもだるいと言わんばかりに目線だけをルカに向けた。
「ルカ、きみは……」
他の誰かも、こんな風に抱いたのだろうか。相手はラティーノだ、ありえないことはないだろう。もしかして、エレナとも関係を持ったのだろうか。
「ん?……どした、ユウ?」
柔らかく優しい、官能的な眼差しを彼女にも向けたのだろうか。
甘い声で、名を呼んだのだろうか。
想像するだけで胸が引き絞られるような感覚になって、舘野はルカの首を引き寄せた。首筋に額を押し当てると、胸いっぱいに息を吸い込む。いつもと変わらない、パルファムと煙草の香りがしていた。
「ルカ……いままで、僕みたいに悩む共演者も抱いたのか」
そんなつもりではなかったのに、少し責めるような口調になってしまった気がしなくもない。それでもルカは笑って目を細めると、優しく頭を撫でて、口付けを落としてきた。啄むようなキスに夢中になっていると、いつのまにかルカが足の付根に熱を押し当てていた。
「それはない、……誓うよ」
唇を甘噛されると同時に、奥へと熱が入り込んできた。散々愛撫を施されたせいで抵抗なく迎え入れてしまうと、舘野はただルカの白いシャツに縋り付くしかなかった。
「あ、あ……ッ」
共演者を抱いていないと言っていた。ルカは嘘は言わない。
だが、どうして自分を抱くのか。彼の真意はまだ引き出せない。
それとも、恋じゃないからこんな風に抱けるのだろうか。言葉に出すこともできず、胸の内で問い続けるしかなかった。
空が白む頃に解放された舘野は、僅かな睡眠をとってから、いつもどおりの時間に目を覚ました。時差ボケはないらしい。
朝の日課としているヴァイオリンの練習をと起き上がろうとして、腰に力が入らないことに気がつく。以前、日本で抱かれた時はここまで酷くなかったのに、下半身の感覚が薄い。
暫くの間もがいてはいたが、一人でジタバタしているのも馬鹿らしくなって再びシーツに沈み込む。その動きで目を覚ましたのだろう、ルカがこちらを見つめていた。
「おはよう、ユウ」
「……立てない。どうしてくれるんだ、ルカ」
「え?」
起床のキス、と言わんばかりに顔を寄せてくるラティーノの鼻をつまんでやると、ふが、と情けない鳴き声が出てきた。
「君のセックス、ねちっこいんだよ」
鼻から手を離すと枕を抱き込むようにベッドに突っ伏した。動く気力が沸かない。
「まったく、これだからラティーノは…」
いつの間にか口癖になってしまった言葉を漏らす。恨めしげに睨みつけると、ルカは悪びれもせず肩をすくめて見せた。
だが、その言葉に何か引っかかったようで、僅かな思案の後に、首を傾げる。
「他のラティーノも、そんなにねちっこかったのか?」
思わず、舘野が目を見開いた。枕を投げつけたい衝動に駆られる。
こんなに、こころを掻き乱されるのは初めてだというのに、目の前の男は自分が誰かと比較しているとでも思っているのか。
「……知らない」
「ん?」
「僕は、君しか知らない」
他のラティーノがどんなセックスをするのかなんて知らない。
知っているのはただ、イタリアの男はすぐに節操なく口説くことと、人を誑すということ。
目を伏せると、舘野は再び訪れる深い眠りに身を任せた。だから、ルカがどんなに慈しみ深い目で見つめていたかは知らない。
何を考えてのことなのか、本気で自分に色事を教え込もうというのか、舘野は一週間の間、夜ごとルカに抱かれた。それも執拗な愛撫と共に、手を変え品を変え。
朝になればそれでも舘野は練習を続け、ルカの求める音色を探し続けていた。
そうして過ごした、7日目のこと。
既に、この一週間の過ごし方が習慣になりつつあり、シャワールームから出てきた舘野はいつものようにベッドに座ってルカが来るのを待っていた。待っていると自分では思いたくないが、どうせ来るのだろうと思う心とは裏腹に、身の内に燻る熱を自覚していた。
「……ユウ、お疲れ様」
開けたドアを軽くノックするのに気付いて、舘野は顔をあげる。やはり来た。
「飽きないな、君も」
呆れた様子で肩を竦めるのも、自分が待っていたと思われたくないからだ。だが、当のルカは目を細めるとベッド脇のソファに腰を降ろしてその長い脚を組んだ。
「今日は、その前にヴァイオリンを弾いてもらおうかな」
「は?」
何を言い出すのは、この酔っ払いマエストロは、と思ったが今夜はアルコールの香りがしない。どうやら真面目に言っているようだ。
思わず眉を寄せると、にぃ、と口端を上げたルカがヴァイオリンケースを差し出してくる。
「ヴァイオリンで俺のこと誘ってみせたら、抱いてやるよ」
自分が欲情していることを、見透かされているのか。
そう思ったら一瞬、カッと怒りとも羞恥とも付かない感情が背筋を通り抜けた。だが、このために一週間抱いていたのだろうと目を閉じる。自分から、最高の音を引き出すために。
舘野はケースを受け取ると、ロックを外してヴァイオリンを取り出した。弦の調整を手早く済ませると、ベッドから立ち上がって構える。
目を閉じて、深く息を吸い込んだ。
弓を滑らせる直前で、手が止まる。
「……できない」
弓を下ろした。出来るわけがない。
「無理だ、ルカ。そんな気持ちで弾けない」
ベッドに力なく腰を落とすと、ヴァイオリンを膝に乗せた。そんな風に弾ける訳がない。
自分の恋慕と、劣情とを、人生を賭けてきたもので示そうなど、出来るわけがなかった。
「ユウ」
首を振ってみせると、ルカがソファから立ち上がる。
「スマン、ちっとやりすぎた」
ベッドが軋む。隣に腰を下ろしたルカが肩を抱き寄せて頭を撫でてくる。
「この変態マエストロ」
「ごめんって」
その魔法の手に撫でられると、怒りよりも彼に自分の気持が伝わらないことが酷くもどかしく、切なくなる。
「今日はレッスンはやめておくか」
頭から背中を、あやすように撫でられて舘野は身を委ねた。
ルカの気持ちが知りたい。触れられる度に気持ちがどんどん膨らんでいって、行く先を見つけられずに身の内を駆け巡るような気がしていた。
不安と、期待とが渦巻いていくばかり。
それを昇華させるすべを、自分は一つしか持たないことを分かっていた。
「ヴァイオリンで君を誘うようなことはしない。でも、僕なりに気持ちを込める」
小さく呟いて、舘野はベッドから立ち上がる。窓際に立ると、ルカに向かって、再びヴァイオリンを構えた。
低音から上がりきった音が、感情の昂ぶりと共に勢いを増す。
モデラート・アッサイ、そしてドルチェ。穏やかに、優しく甘い音が連なると、舘野はルカの掌を思い起こす。温かく触れる手に、どんなに安心したことだろう。
触れられていると心から安心する。柔らかな笑顔を見つめていると、気持ちが軽くなる。
自分はこんなにも気持ちを込めているのに、君はいつまでたっても人を惑わすラティーノのまま。
本当は、どう思っている?僕のことを、好き?
何度も何度も問いかける。
問いかけるように弓を滑らせると、脳裏にルカの指揮でオーケストラが応える気がした。
答えを見つけられるだろうかと、舘野は胸中で、その切ない感情を音に乗せる。
いつの間にかルカが、指先でタクトを振る仕草をしていた。無意識にだろう、目を閉じている、そこにはないはずのオーケストラの音が聞こえた。
魔法の手に、たくさん触れられた。日本でも、シカゴでも。
その温もりが忘れられないし、きっとこの先も忘れることはない。
けれど、いまだにその心の有り様がわからない。
おしえて。
君はどう思っているの。
知りたい。
知るのが怖い、知りたい。
その、魔法の手に触れたい――
ゆっくりとヴァイオリンを下ろすと、舘野は深く息を吐き出した。
「……本番では、こんなに甘ったるくなんか弾かないからな」
ヴァイオリンの音は素直になれる。けれど、言葉にするのはやはり、気恥ずかしいし、問うこともできない。
「えー、そうなの?まいったなぁ」
言いながらも、ルカは満足そうに笑って見せてきた。肝心なことは言わないけれど、演奏自体は良かったのだろう。オケとの練習のときには何度か弾き直して調整しようとしていた。
「うん。いいな、今の。本番が楽しみになってきた」
色気というものを言葉や仕草にするのは難しい。けれど、音には乗ってきたらしい。うんうん、と頷きながらルカが抱き寄せてくる。その腕をよけて愛器の手入れをすませ、ケースにしまった。
「色気だけじゃなくて、音に深みが増した。早くオケと合わせたいな……ところでユウ、今日、する?」
にこにこと機嫌の良さそうな顔で無邪気に聞いてくるが、すぐに分かった。弾く前にルカが言い放った言葉を瞬時に思い出して、舘野はわざと、思い切り顔を顰めて見せた。
「しない」
「えー」
子どもが不満を垂れる様に口を尖らせる男は、自分よりもずっと年上なのにひどく幼く見えた。それがまた余計に惹き付けることを、自覚しているのかいないのか。
「まったく……これだから」
ラティーノだからなのか、ルカだからなのか、もうわからなくなりつつあるけれど。
舘野は肩を竦めて、ベッドに座るルカにそっと身を寄せた。
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