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第18話
ヴァイオリンを手にしたのは三歳のとき。不思議とその日のことは覚えている。一番古い記憶だけれど、手渡されたときはまるで、大切な宝物を授けられたように感じていた。その時から、どのヴァイオリンも大切に扱っていた。
その日の朝は、やはりいつも同じように練習をして、いつもよりも丁寧に手入れをした。湿度も問題ない、コンディションは十分だ。
祈るようにボディに触れてから、深く息を吐き出す。
そっとケースに収めてロックをかけると、大切にケースの表面を撫でた。
パリでずっと傍にいたロッカ。一番苦しいときに傍にいてくれた。
今日、この日のために今までの出来事があったような気がする。そして、これからも。
コンサートホールへ向かいながら、シカゴにきてからのことを思い出していた。最初は周りとどう距離を測っていいかわからなかった。
コンマスのリザはユーモアは団員のモチベーションを上げるのが得意だった。衝突しそうになると上手く誘導しようとするから、自分は余計な気を揉むこともない。フェリックスは絶対君主という感があるが、ルカは皆に支えられてもいるのだと感じていた。
「ユウ、日本でのルカのこと聞かせてくれよ」
練習が終わってはよく飲みに行った。最初はルカのことを知りたいためかと思っていたが、どうやら皆、新入りに興味津々のようだった。そのせいだろう、アウェイ感を感じたのはほんの僅かの間のことだった。
「ユウは、なんでヴァイオリンにしたの?ヴィオラも楽しいよ」
「僕がヴィオラやると、君、第一の座を取られるよ?」
「やっだー、それは困るなぁ」
舘野の腕を気に入ってか第一ヴィオラのエマはよく転向しないかと誘ってきたし、それを躱せる程度には軽口も叩けるようになった。
友人と呼べる存在はそう多くない。生来の不器用さは自分でも自覚があった。
昔から、友人を作ることは上手くなかった。人と話すよりもヴァイオリンを相手に向き合うことのほうがずっと楽しくて、毎日のように弾き続けても何の苦にもならなかった。
ヴァイオリンを与えてくれた両親には心から感謝していたし、同時にパリから逃げ出しても何も言わずに迎えてくれたことに申し訳なさも感じていた。
だから逃げ出した先でも、毎日の練習は欠かさなかったのかもしれない。
リハが終わって控室で着替えを済ませると、急に現実味を帯びてくるように緊張がじわじわと背筋を伝ってくるようだった。指先が少し冷えてきて、ポケットから使い捨てカイロを取り出す。開場のアナウンスが聞こえてくると、念入りに指を温めてから、舘野はルカの姿を探した。
アキハバラでも、いつも舞台に上がる瞬間は緊張していた。どの公演でも。
失敗したらどうしようとかいう不安というより、人生を賭けてきたものに対する畏怖の様なものだ。
けれどルカは平気で幕間にコンビニに行くし、緊張など感じたこともない。いま彼がいないのも、恐らくはタバコとコーヒー、ホットドックじゃないだろうか。すぐ近くに、美味しいコーヒースタンドがあると言っていた。
まったく、と溜息をつくが、呑気にコーヒーを啜っているルカを想像すると、少しだけ緊張が和らいだ。彼の姿が見つからなくても、想像するだけで愛おしい気持ちになる。すぐ側にいるような気さえして、束の間、安心できた。
そういえば、アキハバラではいつも徳永が本番の直前にトイレに篭もる。一番緊張しているのが彼だ。リハではあれこれと手配に忙しなく動き回っているからあまり知られていないが、一番神経質なのは徳永かもしれない。一方で緊張しないのが幡山とルカだ。リハの後でもタバコを吸いながら打ち上げの話をしていたから、呑気なものだった。
「ユウ、そろそろ時間だよ」
「はい」
外からのノックに、舘野は顔を上げる。もう一度姿見の前で身だしなみをチェックしてから、愛器を手に取った。
大丈夫、怖い、大丈夫。
相反する感情を抱えて、舘野は舞台袖までの廊下を進んだ。
舞台袖からそっと覗き見ると、客席は立ち見が出る程だった。発表後チケットは数分で完売していたと聞いている。最後列の立ち見を入れようと誰ともなく言い出したのだった。再演も既に検討されている。ルカに寄せられる期待の大きさに、身震いが来た。
大丈夫だと何度言い聞かせても、手の震えが収まらない。
「大丈夫、セナ。いつも通りいつも通り!」
ルカの声が聞こえて、顔を上げた。団員に一人ずつ、声を掛けているようだった。
「ルーク、今日のリード、特に調子いいな。期待してるぞ」
「ほらほら、今日は楽しむぞ、トム」
全員に声を掛けて、肩を軽く叩き、あるいは背中を押してやる。
「リザ、よろしく頼むな」
一人ずつ舞台へと送り出していく姿を見つめていると、最後にコンマスのリザが出ていく背中を見送った。
「ユウ」
まだ、手が震えている。温めたのに。どのホールよりもベストなコンディションのはずなのに、手の震えだけが収まらない。
「ルカ……」
「ユウ、大丈夫だ。俺を信じて」
舞台上で、チューニングが始まる。
背中を抱き寄せられた。楽器の音が響いているけれど、ルカの声がハッキリと聴こえる。
「大丈夫だ、ユウ。……愛してる」
前髪を軽く掻き上げて、ルカが額にキスを落とす。聞こえた言葉を反芻する間もなく、背中を押された。
いってらっしゃい、と送り出すように。
馬鹿なのか。これだからラティーノは。いや、これだからルカ・フェランテは。
舞台袖で告白する奴があるかよ。こんなタイミングで。頭を抱えたくなる。少し、顔が熱い。ライトのせいか。
けれど緊張どころではない。手の震えは治まっていた。ルカはきっと、緊張していたことを知っていたのだろう。恐怖も、不安も。
信じて。そう言った。恐怖も不安も、何もかも包み込むルカの胸は広く、温かい。額に落とされたキスはまるで、福音のように胸の内の暗雲を取り払って、祝福を与えてくれるようだった。
舞台中央、指揮台の傍に立つ。続いて、ルカが舞台に現れる。ライトの真下で、楽しそうに、幸せそうにルカは全員の顔を見渡して頷いた。
場内に溢れていた拍手が収まると、不思議と、動揺も不安も落ち着いていることに気付く。胸の内は静かな水面が広がっているような感覚だけだった。
ルカの魔法の手が、指揮棒を振り下ろす。
第一楽章、アレグロ・モデラート。静かに第一ヴァイオリンの旋律から始まり、弦楽器と管楽器の掛け合いから、全体の音が鳴り響く。最初の展開のあと、弱奏。オケの音を引き継ぐように、舘野が甘やかに繊細な旋律を奏で始める。
シカゴに来て直ぐは音が硬いと言われていたが、シカゴオケで過ごす内に、音が伸びやかになったとルカは言う。サンクトペテルブルクの時はもっと攻撃的だったと言うから、シカゴのメンバーのお陰だろう。友と呼んでくれるメンバーに少しずつ心を開いていくと、彼らは自分にも尊敬と愛情をもって返してくれる。
「ユウ、ルカばっかりじゃなくて俺とも飲みに行こうよ」
「ユウ、ここの運弓相談に乗ってほしいの」
「ユウ!」
「ユウ!」
最初はルカが連れてきたヴァイオリニストが珍しいのかと思っていた。けれど彼らの興味はただ純粋にヴァイオリニストとしてのユウ・タテノと、友人としての舘野優に向けられていた。
モデラート・アッサイ。呈示部に入ると、チェロとコントラバスのピッチカートから、ソロは第一の主題を奏でる。問いかけるような、訴えかけるような音色は、あの時ルカに聞かせた音そのままだった。シカゴの団員は、舘野が鳴らす音の変化を敏感に感じ取り、またそれを受け止めてくれた。
自分はずっとヴァイオリンしか知らなかった。孤独だった訳ではないけれど、心から信頼できるひとはどれほどいただろうか。不器用な性格なのは自分でも理解している。パリに留学したときも、信じた相手に最悪のかたちで裏切られた。不器用な性格で、彼と自分自身の両方を傷つけていたのかもしれない。
真冬の校舎裏、ずっと雪の中に埋もれていたのは自分自身だ。ネックが折れ、弦が切れ、雪の中に突っ込まれて一度は死んでしまった。
まるで自分のようだった。心が折れ、暗い雪の中に置き去られて、朽ち果てていく。
「ユウは上手に弾くね」
初めてヴァイオリンで一曲弾ききったとき、父も母もとても喜んでくれた。それが嬉しくて堪らなかったのを今でも覚えている。自分のヴァイオリンのために、いろんなことを犠牲にしたであろうということも分かっている。
両親のために、自分のために、声楽科の彼のために、アキハバラのために弾いてきたけれど。
ずっと、雪に埋もれた世界で、藻掻いていた。
この世界から立ち上がりたいのに、雪が足を沈ませ身動きがとれない。
もうこのまま、誰にも助けてもらえないのではないか。
そんな風に、思っていた。
呈示部のラストは、抒情的な第二主題を変化させていく。ヴァイオリンを慣らしながら舘野は、自分が雪に覆われた大地に立っているような気さえしていた。
雪原の中でたった一人、足元を雪に捕らわれたまま、身動きが取れなくても弾き続けている。誰も聞いていなくても、弾くことしかできなかった。
暗く垂れ込めていた雲がの隙間から、白い光が見えたような気がして、舘野は顔を上げた。
柔らかな雪を踏みしめて、追憶の中で誰かが歩いてくる。
まるで、自分の演奏に引き寄せられてきたと言わんばかりに、ルカが自分を見て笑いかけた。
次第に力強さを増していき、オーケストラの強奏。
フォルティシモ、メインの展開部に引き継がれる。自分の本気の音を、ルカが率いるオーケストラが受け止めてくれた。
いつだったか自分の本気を引き出してみせろとルカに挑発したことがあったけれど、彼は見事にそのオーダーに応えた。気持ちがいい。
その音はまるで、雪に包まれた大地を照らす真っ青な空のようで、美しく光り輝いている。
照らす光、溶かす温もり。
追憶のルカが手を伸ばして、壊れたヴァイオリンを抱きかかえる。魔法の手が優しく慈しむように抱き上げて、祝福の口付けを贈る。
雪の中で立ち尽くしていた自分を救ってくれたのはルカだ。
魔法の手を掴んだら、愛情をもってここまで導いてくれた。
ならば、今度は自分が――
長い独奏部分に入ると、舘野は目を伏せた。甘く、華やかに、惹き込むような音色を奏で始める。
チャイコフスキーをやると決めてから、何度も何度も、エレナ・カーターの演奏を動画を繰り返し視聴した。彼女の音色は透明感があって美しく、音が輝いていた。
舘野の意識の中に、エレナが姿を現す。
動画の中で、長い金の髪を揺らして、音に合わせて一人で踊っている彼女は、重圧と不安とで押しつぶされそうに泣いているように舘野には見えた。
彼女に手を差し伸べるように優しく。
彼女のために弾きたい。
ルカのために弾きたい。
そう想いを込めて鳴らすと、ルカが僅かに目を見開いたのが分かった。独奏を聞いているだろう、オーケストラの、客席の空気が変わる。独奏――その時、舘野は確かに彼女の手を取り、二人でステップを踏んでいた。それが音となって、重なり始める。
舘野の繊細で甘く、艶やかな音と、エレナの生き生きと輝いた、踊るような音が重なる。一人で鳴らしているはずのヴァイオリンの音が、多重に聴こえる。和音なのは確かだが、エレナと二人で向き合って弾くような錯覚さえ覚えた。
きっと、本当はルカと、シカゴオーケストラと、もっと演奏したかったはずだ。自分にはわかる。重圧に潰されずにいられたなら、彼女もルカも心から演奏を楽しむことができたなら。
二年前の二人のために、舘野は長い独奏をトリルで締め括って、オーケストラに引き渡した。
自分の想いが伝わったのだろう、フルートの主題と、それを支える弦楽器隊が受け止めるように優しく、深い音色で迎えてくれる。
オーケストラの全員が、感情豊かに楽器を鳴らす。フルートは、舘野の音をきちんと聞いてくれていた。その音を導いているであろうルカに視線を向けると、ライトの中でルカの頬が濡れているのが見えた。
「愛してる」と。そう言ってくれたマエストロに、自分は最高の音を捧げた。誰のためでもなく、ルカと、彼がなくしてしまった大切なもののために。
視線に気付いたルカが、濡れた目でほんの少し笑って、頷いた。
信じてくれて、ありがとう。
そう、唇が動いたように見えた。
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