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第19話

 スタジオまでの道は晴れていると歩くのに心地いいと気づいたのは最近だ。ロードバイクを押しながら坂を登っていく。  行く先には真っ青で気持ちのいい空が広がっている。ぽっかりと浮かぶ雲はふたつ、コットンキャンディの様で、舐めたら甘そうだなんて取り留めのないことを徳永は思案する。  三月ももう終わり、道沿いに時折見える桜の木は紅く蕾を膨らませていて、開花が楽しみだった。つい三ヶ月前はシカゴ、シンフォニーセンターのS席に座っていたことが夢のようだった。  送られてきたチケットには、ただ一言「感謝を込めて」と書かれていた。几帳面な舘野の字だった。ルカの時は読めない。  チャイコフスキー、ヴァイオリン協奏曲。一八七八年に作られた作品は、ペテルブルグ音楽院のレオポルド・アウアーに捧げられた。  だが、アウアーは技術的に難しく、演奏は出来ないと断ったため、翌年ニューヨークでダムロッシが初演を行うこととなった。最初こそ難曲だと言われていたが、演奏が増えてくると、いつしかヴァイオリン協奏曲の代表的名曲となった。  名曲となれば演奏家は増える。演奏が増えるとクラシック愛好家の耳は肥える。  舘野は見事に、シカゴの耳の肥えた観客を沸かせた。初演のシカゴではアンコールを求める拍手が鳴り止まず、急遽演目にないセッションをやる羽目になったと楽屋で会った舘野が苦笑していた。  見事に世界を魅了して見せたルカと舘野は、その後世界公演に飛び回っている。客席で泣いたあの夜がつい、昨日のことのように徳永には感じられた。  スタジオに到着すると、駐輪場にロードバイクを止める。入り口に植えられた桜を見上げると、日当たりが良いのだろう、ぽつぽつと蕾を綻ばせているのが見えた。 「ルカがいたら、花見の算段してそうだな」  兎角、皆で賑やかに過ごすのが好きな彼のことだ。そこに酒が入るとくれば、取り仕切っているに違いないだろう。  彼がいたら、とあれこれ想像するのは少しさみしい気持ちもあるからだった。できることならもう一度、一緒に演奏ができたらと願わずにはいられない。それは徳永だけでなく、他の団員からも、アキハバラ交響楽団のファンからも声が上がっていた。  ルカがシカゴに発った後、沢山の出演依頼がきた。イベントに駆り出されることも増えた。二人に世界で活躍して欲しいと願う気持ちに嘘はないけれど。いつか、を望む気持ちは消えなかった。 「俺もつくづく、欲深いタチだよな……」  独りごちてスタジオに入ると、耳慣れたアリアが風に乗って届く。  まさか。  思わず徳永はロビーを走る。  この、繊細で美しいアリアを自分は知っている。  団員の誰よりも一番聞いていた音だ。  ドアを開け放つと、ピアノに向かってヴァイオリンを構える姿を見つけた。思わずその場に立ち尽くす。 「……舘野、ルカ……なんで」  もうここには戻ってこないのだと思っていた。ヴァイオリンを下ろした舘野がゆっくりと振り返る。 「何で、とは酷い言い草だな、徳永」  肩を竦める舘野の後ろから、ルカが顔を出して見せた。何一つ変わらない、ちょっと気の抜けた笑顔で。 「Ciao!来月、日本公演があるから帰ってきたんだよぉ、トクちゃん」 「トクちゃんはやめろつってるだろ」  なんだか妙に気が抜けるのは、ルカが相変わらずなせいだ。きっとシカゴでも、同じようにやっていたのだろうと想像がついた。 「それでさー、アキハバラの次の公演は何をやるの、トクちゃん?」 「次?……いや、まだ未定だが」  ヴァイオリンを下ろした舘野がずい、と身を乗り出してくる。  肩をぐっと掴んでくるその左手の薬指に、プラチナが光っているのが見えてしまって、徳永は目を見開いた。  舘野はそれを意にも介さず、じっと徳永を見つめている。 「決意が…決意がみなぎった……」 「はい?」 「あ、あのゲームのサントラかいま流行ってるもんな」 「あれは曲がいい。絶対にやりたい」  飛行機の中でずーっとやってたもんな、とニヤニヤ笑うルカの指にも、同じプラチナが嵌っている。いつの間に、と思う反面、これは大変なカップルになりそうだという予感が脳裏を過る。 「あぁでも、、三十周年のあのRPGもいいな︙︙名曲揃いだ」 「俺あれも気になる、刀のゲーム。昨日狙ってたキャラがガチャで出たし」  あれやこれやと口々にゲームの名前を挙げていく二人に、徳永は恐る恐る尋ねる。 「ここで、またやるのか?」  既に選曲を始めようと携帯端末のプレイリストを弄っていた舘野が、不思議そうに顔を上げた。ルカも、何言ってるんだ、と目を丸くしている。 「当たり前だろー?俺はここの常任指揮者なんだから」  驚いた。まさか、帰ってくるつもりだったとは。  シカゴから世界ツアーに駆け回る二人が眩しすぎて、友人として嬉しかったが、アキハバラの団員としてはやはり寂しくもあった。  けれど、あれこれとゲーム音楽を語る二人はやっぱりアキハバラのマエストロとコンマスなのだと実感して、じわりと頬が熱くなる。目元に、熱が灯るように感じられて、涙がまた溢れそうになるのを堪えた。 「……そうだな、……あぁ」  何度も頷く。目を閉じたのは、泣きそうになるのを見られたくないからだった。少し早めに来たとはいえ、団員たちも間もなくやってくるだろう。こんな顔、見せられたものじゃない。 「まったく、これだからお前らは……」  目頭を押さえて涙を堪えると、少し赤くなった目で笑って見せた。  久しぶりにセッションやろう、とルカに誘われて、男二人で座るには狭いピアノ椅子の半分に腰を下ろした。  その軽いノリがアキハバラの創設の頃を思い起こさせる。 「大丈夫だ、好きに弾いていい」  舘野に背中を軽く押された。ルカが自分の膝を叩いてリズムを取り始める。聞き覚えがある。ルカが来て、初めてやったゲームのメインテーマだ。少しリズムが違うのは、ジャズ調といったところか。  ルカが低音の伴奏を弾き始めると、続いて舘野がそのリズムに合わせて高音部をリズミカルに弾き始める。  指が自然に動く。メインテーマは公演で何度も鳴らした。リズムにさえ乗ればなんとでもなる。  同じ旋律を繰り返し繰り返し、少しずつ変化を付けながら演奏していると、いつの間にかやってきたのだろう。かよ子がドラムを叩き始める。幡山がトランペットで旋律を吹き始める。ジャズは幡山の十八番だ。ルカの存在に気付いたらしい尾上が背負っていたチェロを慌てて出して音を鳴らす。  団員が、皆が各々の楽器で思い思いに参加していた。  アキハバラ交響楽団を作り上げた頃もこんな風に好きなように演奏していたのを思い出して、また徳永は引っ込んでいた涙が溢れそうになる。両手は鍵盤の上だ。 「ほんっと、お前らは……」  思わず小さく呟いた。いつの間にか、全員が笑って繰り返される旋律の上で踊っていた。  楽しい。  楽しくて仕方がない。  誰もが、生き生きと音楽を楽しんでいた。そして、最高の音楽を、心から信頼できる仲間と作り上げる歓喜と情熱を全身で受け止めていた。  東京、アキハバラ。  小さな交響楽団にもたらされたラティーノの情熱がひとりのヴァイオリニストと、楽団を動かした。そして、未来へまた音を紡ぎ出す。  さぁ、次の舞台へ。

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