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第1話
「アシェ! アシェ!」
「……は、い!」
階段下から聞こえる大声で、目が覚める。お義母さんより遅く起きてしまった。怒られる。被っていた布を急いでどかしてドアの外へ飛び出す。
「洗濯物! それから庭の草むしり! 朝食もレオンちゃんが起きるまでに作るんだ! 早くしろ!」
急いで返事をしてから階段を駆け降りる。レオン義兄さんが早くしないと起きてしまう。お湯をたくさん沸かして、野菜をいっぱい切って、鍋の中に全部入れる。スープは最近作れるようになった。
「レオンちゃん。おはよう。今日も早起きで偉いわね」
「ママ。お腹が減ったよ」
「アシェ。早くしな!」
「はい」
鍋を急いでかき混ぜる。
「もう十歳だろ! 男のくせに手際も悪いし、体力もないし……少しは役に立っておくれ!」
返事をして、勢いよく混ぜすぎてお湯が少し手にかかってピリッと痛んだ。これがぼくのいつもの朝。手際が悪いっていつも怒られてしまう。お義母さんは亡くなった本当のお母さんの妹。義兄はぼくより二個上のレオン義兄さん。お義父さんはいつの間にか帰ってこなくなって、どのくらい経つだろうか。
二人は、ぼくを引き取るのを嫌がっていた。穀潰しなんて、引き取りたくないって。でも身寄りが他に居なくて、置いてもらっている。その代わり家の家事は全部ぼくがやっているんだ。だってそれ以外、役に立たないから。ぼくは、いらない子だって。
「また野菜スープ? 野菜嫌いだって言ってんだろ」
レオン義兄さんにスープを持っていくと不機嫌そうに言われた。
「や、野菜たくさん食べた方がいいって、お義母さんが言ってたよ……?」
「ママ。そんなこと言ったの?」
「いいえ。レオンちゃんが好きなものを食べなさい。早く違う物を持ってきなさい!」
作ったスープをどかされ、そのままテーブルの下へとこぼれ落ちる。
「は、はい……。ごめんなさい」
スープを頭からかけられるよりはマシだなんて。そんなことを考えたらこの野菜を売ってくれた人に失礼になっちゃうかもしれない。なんてことを思った。他の物を作り直さないと。ぼくはテーブルから落ちたスープを急いで片付けて、キッチンへと向かった。
結局いつもの大量のフライドポテトを揚げたらレオン義兄さんは満足したようだった。ぼくも今日は手に油がちょっとだけしかはねなかった。痛い思いはもうこりごりだ。以前やけどしたときは手が真っ赤になって痛かった。腫れが引くまで重い物が持てなくて怒られた。
そのあとは頼まれた洗濯物と草むしりを終わらせて、お皿を洗う。ちょっとだけお腹が空いたな。
「レオンちゃん、今日も学院の制服がよく似合っているわ」
「まあね。アシェもおれくらい優秀なら学院に通えたのにな。まあ朝食すらまともに作れない役立たずに、かける金はないか」
お皿を洗う手がぴたりと止まる。レオン義兄さんの言う通りだ。ぼくには魔力がない。
魔法の本をこっそり読んで練習してみたけど、魔法が使えるようにはならなかった。
「……うん。ぼくもレオン義兄さんみたいにたくさん魔力があったら良かったな」
「まあもう無理だろうな。アシェみたいな役立たずは一生おれのいうことを聞いていればいいんだよ。行ってきます。ママ」
「いってらっしゃい。レオンちゃん」
レオン義兄さんは魔術学院に通っている。ぼくよりも魔力もたくさんあって優秀みたいだ。ぼくは逆に魔力がないから、通う必要がないってお義母さんが言っていた。でも本当は魔法のことをもっと知って、勉強してみたい。けど、レオン義兄さんのいう通り、ぼくにかけるお金はどこにもないんだ。お母さんが遺してくれたお金は、ぼくの養育費だって言ってお義母さんが全部持っていった。そんなのは当たり前だろうって。
「アシェ!」
泡の付いたお皿を置いて、返事をしてから急いでお義母さんの元に向かう。
「トイレ掃除と、風呂掃除。家の中の掃除もしておきな。出掛けてくるからちゃんと終わらせておくように」
お義母さんはそれだけ言うと、出かけていった。なんだかオシャレな格好をしてたくさん化粧をしていた。どこに行くかは知らない。でも居ない時の方が気が楽だ。お皿洗いを終わらせて、残っていたスープを飲む。結局お義母さんもお義兄さんも一口も飲まなかった。
「美味しいのにな」
こくりと飲んだスープはちょっとだけ、しょっぱさがまざっていた。
頼まれたお掃除を全部終わらせて、楽しみにしていたことがある。レオン義兄さんの部屋にある物語の本をこっそり読むことだ。レオン義兄さんが居る時は怒られるから読めないけど、今なら読める。続きが楽しみなんだ。
「魔物を倒したあと、騎士様はどうなったのかな」
こっそり挟んでおいた栞から続きを読む。これは本当にあった話が元になってるからびっくりなんだ。誰も倒せなかった魔物を倒した、英雄と呼ばれる騎士様がいるんだって。騎士様は魔力に頼らず、ただ剣ひとつで魔物を倒したんだ。
魔力がなくても、こんなすごいことができるんだって思うとぼくも、夢を見てしまう。ぼくもこんなふうに――カッコいい騎士様みたいになりたいな。
玄関の物音で我に帰る。もうこんな時間だ。お義母さんが帰ってきたんだ。本をしまって急いで階段下に向かう。帰ってきたお義母さんはご機嫌そうだ。良かった。お掃除も全部終わらせた。細かい埃もいっぱい取った。ふと、お義母さんは足を止める。
「これはなんだい」
なんだろう。心臓がドキッとする。お義母さんが指をさした先には、野菜の入った籠があった。今朝使った野菜の残りだ。まだ使ったばかりで、新しい。
突然、頬に平手が飛んでくる。な、なあに? なんで?
「レオンちゃんが食べたくないって言っていたでしょ! なんで捨てとかないんだ!」
「……ご、ごめんなさい……」
泣くな。泣いたらもっと怒られる。痛みで涙がこぼれ落ちそうだったけど、必死に堪えた。頬がじんじんと痛む。明日の朝食は何を作れば、怒られないかな。まだ食べられる野菜を全部、ゴミ箱に捨てながらぼくは明日のことを考えていた。
夕飯の時間になったら自分の部屋に駆け込む。お義母さんにそう言われているんだ。ぼくは後で、残った物を食べる。たまにレオン義兄さんが夕飯を全部食べてしまって、食べられないこともある。今日はそうならないといいな。
ぼくの部屋は半分、お義母さんとレオン義兄さんの、もう使ってない物で埋まっている。でも部屋があるのは嬉しいんだ。唯一ここが一人でいられる場所だから。
以前ゴミ捨て場に捨てられていた本を取り出す。ゴミ捨てに行ったときに拾ったものだ。お腹が空いたけど、本を読んでいたら空腹も忘れられる。
薄い布を被って、本を読み進める。前捨ててあったのは、結婚しているのに別の人を好きになるっていう話で、よくわからなくてあんまり面白くなかった。でも今回の本は大当たり。ぼくくらいの子供が冒険に出る話だ。いろんな街を旅して、魔物を倒して、仲間を増やしていく。宝物も増えていく。たくさんの人に、慕われていく。
「…………う、ぅ……」
なんでだか急に、涙がぽろりと溢れてきた。さっき叩かれたところの痛みは無くなってきたのに。なんで涙が出るんだろう。せっかく続きが読めるのに、どうしてだか涙が止まらなかった。
「……おい! アシェ!」
レオン義兄さんの声で目が覚める。いつの間にか泣いたまま眠ってしまっていたみたいだ。でもノックなんて珍しい。いつも耳をふさぎたくなるほど大きい音と一緒に入ってくるのに。
「なあに……?」
涙を拭いてドアを開ける。
「相変わらず狭くて汚い部屋だな」
「……こっちの半分置いてあるのはレオン義兄さんの物だよ?」
「チッ。そういう話じゃない。ちょっと来い」
「わっ」
レオン義兄さんに引っ張られて階段下に向かった。なんだか神妙な顔をしている。なんだろう。ぼくはレオン義兄さんの後についていくことにした。
「やっぱりアシェを使うべきね」
「だろう? ママ」
リビングに入るとすぐにお義母さんにそう言われる。何の話だろう。テーブルの上には見慣れない徽章が置いてあった。模様が入っていて、キラキラカッコいい。
「学院の子と度胸試しで、あの騎士団長ヴァルド・ノイシュタット様の徽章を盗ったのは、本当に凄いわ。レオンちゃん。学院の友人の中でも一番だったでしょう」
騎士団長ヴァルド・ノイシュタット様。この国で一番強い騎士様だって、聞いたことがある。
「そ、そうだよ! 一番凄いものを盗んだんだ! みんな凄いって言っていて……」
「でもね、それがバレたらいけないことだって。可愛いレオンちゃんの首が……飛んでしまうかもしれないの。分かるわよね?」
「だ、だから! やばいと思ったから、アシェを呼んだんだろう!」
ぐいっと腕を引っ張られる。え? なんで、ぼくが呼ばれたんだろう。
「お前、おれの身代わりになれ。お前がこれを、盗んだことにしろ」
「え……?」
「あんたがレオンちゃんの身代わりになりなさい。ヴァルド様に返して、あんたが謝罪するのよ。レオンちゃんはアシェと違って優秀。魔力だって高い、あんたとは違うのよ! こんなところで罰を……処刑されるわけにはいかないのよ!」
身代わり? 処刑? 冷たい言葉の響きにぶるりと身体が震える。
「れ、レオン義兄さんがちゃんとごめんなさいすれば、きっとヴァルド様だって許して……」
「うるさい! それでおれが処刑されたらどうするんだ! いや牢屋行きかもしれない! 下手したら拷問されるかもしれないだろ! お前が行けばいい!」
「あっ」
どんっと身体を突き飛ばされて、近くの椅子にぶつかった。背中に少し痛みが走った。
「このために姉さんはあんたを寄越したのね。初めて感謝したわ。いい? 明日の朝、ヴァルド様の元に行って『自分が盗みました』そう言うのよ。そのままレオンちゃんの代わりに罰を受けて来なさい」
「お、お義母さ……」
「何も言わずに帰って来たらどうなるか、分かっているでしょうね。本当のことをバラしても、魔力もない役立たずのあんたの戯言を聞き入れる者なんて居ない。もうそのまま――帰ってこなくても、構わないわ」
「…………っ」
それは、そのまま処刑されても構わない。そういう意味だ。ぼろり、と身体が、心が崩れ落ちた。涙も出ない。ぼくが家事をいっぱい頑張ったら、いつか魔法を使えるようになったら、お義母さんやお義兄さんと仲良くなれるかもって。そう思っていた。
だから毎日頑張っていた。でもぼくはお義兄さんの身代わりになる。そうするしか、ない。
「さっさと明日の準備をなさい」
「ちゃんとおれの代わりに謝ってこいよ。最期くらい役に立てよ」
レオン義兄さんに手を掴まれる。ぼくの手の中には小さな徽章が握らされていた。
薄い布が敷かれた床で横になる。でも、全然眠れなかった。ようやく役に立てる。それはぼくにとって誇らしくて嬉しいことなはずなのに。まだ読み終わってない本たちが、月明かりに照らされていた。剣だけで魔物を倒した騎士様の話も、冒険の話も、結末は知らない。でもぼくは明日、レオン義兄さんの身代わりになる。騎士団長の徽章。とっても大事な物だ。盗んだのがぼくだって知ったら、きっとその場で、殺される――
「う……うぅっ……」
また涙が溢れ出てきていた。涙で布がびしょびしょだ。身体を丸めるとズキンとさっき打ちつけた背中が痛んだ。痛いけどお医者様に診てもらったことは一度もない。だって我慢していればすぐ治るから。ぼくは被っていた布の端をぎゅっと握った。
まだ眠れなくて、お義母さんに言われていた言葉が脳内に何回も響き渡る。姉さん――ぼくの本当のお母さんは、穀潰しの役立たずだけ残していった、と。魔法もろくに使えない。だったら、せめて家事くらいまともにやれ、と。でもぼくは料理も掃除もへたくそなんだ。毎日起こられてばかり。レオン義兄さんが食べたいって言ったものを、作れなくて怒られた。埃がまだ残っているって叩かれた。ぼくが魔法もろくに使えない、役立たずだから。きっと、こういう運命だったんだ。この本の――物語の主人公みたいには、なれないんだ。
「う、ああ……う、う……っ」
あんまり大きい声を出すとお義母さんに怒られるかもしれない。でも、役立たずのぼくでも、本当は殺されるのはとってもとっても怖いんだ――布で声を抑えながらぼくは、この部屋でのさいごの夜を過ごした。
「徽章はちゃんと持ったか?」
手を開いて見せる。これはぼくが盗んだ、徽章だ。
「ちゃんとレオンちゃんの代わりに謝罪するのよ!」
「はい……」
「上手くやれよ。おれの名前を絶対に出すなよ」
「うん……」
「さあ、さっさと行きなさい。表に馬車を待たせてあるわ。ようやくお前が私たちの役に立てるわね」
玄関へと背中を押される。二人が見送ってくれるなんて、初めてかもしれない。いってきますって一度くらい言ってみたかったけど、言いたくなかった。
だってもう、ここには帰って来られない。
「ママ。これでおれは大丈夫だよね? 殺されないよね?」
「アシェでも謝ることくらいはできるわ。むしろ得意なことよ。何かあってもレオンちゃんのことは、ママが守るわ」
お義母さんもレオン義兄さんも楽しそうに笑っていた。笑っていたけど、ぼくにとって嬉しくなかった。玄関の前には小さくて古い馬車。お義母さんはぼくの背中をぐいぐい押して馬車へと押し込める。そして扉がばたりと閉まった。
御者の人はじろりとこちらを睨んだ後、無言で馬車を走らせた。ぶつぶつとこれしかもらえないのかよ……と呟いている。今ぼくに出来ることは、レオン義兄さんの身代わりになる。それだけ。俯いたまま鞄の紐をぎゅっと握る。ゴミ捨て場から拾った冒険の本。この鞄に入れて持って来た。最期まで持っていたら、死んだ時に天国に持って行けるかもしれないから。天国で続きが、読めるかもしれないから。もう、いいんだ。
騎士団庁舎近くについて馬車を降ろされる。振り返るともうその馬車は遠くへと見えなくなっていた。騎士団庁舎の前に門番がいることに気が付く。ヴァルドさんは騎士団長。すぐ会わせてもらえるのかな。
「あの……」
「なんだい? 坊や」
門番に声を掛ける。長い武器を持っていて怖かったけど、笑顔で答えてくれた。
「ヴァルド・ノイシュタット騎士団長様はいますか?」
「騎士団長? 何の用だい?」
「お、お話ししたいことが……」
「……いいよ! どうぞ。騎士団長なら今、執務室にいるからな」
「はい。ありがとうございます」
お辞儀をする。ちょっとぼくのことを見ていた。でも通してくれた。何も聞かれなかったけど、いいのかな。ぼくはここを出られないかもしれない。すぐに、その場で処刑されてしまうのかもしれない。でももう、戻れない。騎士団庁舎に入り、執務室を探した。広い廊下だけど、誰もいない……。ひたすら歩いていると、執務室を見つけた。コンコンとノックする。
「入れ」
ドアの向こうから、鋭い声が聞こえた。恐る恐る扉を開けると、部屋の奥の大きな机の前に――ヴァルド・ノイシュタット騎士団長が座っていた。黒い服に、黒い髪。ただ座っているだけなのに、どきどきして息が詰まる。
「子供がこんなところまで、何の用だ?」
机の上には紙がいっぱいある。書き物をしている。よく見るとヴァルドさんの腰には、長くて真っ黒の剣が差してあった。あれで、切られたら――
「わざわざこんなところまで一人で。何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
「あ、……」
震えて、声が出ない。鞄の紐を握りしめる。ヴァルドさんは書類を書きながら、こちらを気にしているようだった。深呼吸をする。言わないと。ぼくが、身代わりにならないと。もう、帰れない――
「……ご、めんな、さい。ぼくが、き、騎士団長様の、徽章を、盗みました」
手のひらから徽章を取り出す。手が震えている。脳裏に浮かぶ、レオン義兄さん、お義母さんの言葉。処刑、拷問、もう帰って来なくても構わない――
「ふむ……お前が謝罪しに来るのは、甚だ疑問だが――状況を詳しく聞かせてもらおうか」
突然執務室にやって来た少年『アシェ・エクリュ』門番には子供が来たら通す様に伝えていたが……。しかし、随分幼いな。着古した衣服に、何度も修繕された様子のある鞄と靴。そして痩せ細った身体。そんな彼が徽章を自分が盗んだと、偽りの罪を告白しに来たようだが、どうしてそんなことになったのか、詳しく聞いてみる必要がある。しかし。
「もう一度聞くが、本当にお前が盗んだのか?」
「……はい。なので、ぼくを、罰して下さい」
先ほどから何度質問を変えても、ぼくを罰して欲しい。としか言わない。ここに来た経緯をオレは知りたいのだが……。
「何故お前が、ここへ来ることになったのかが知りたいんだが……」
「ば、罰して、くれないと。ぼくにはもう……、帰る場所が、ないんです」
ようやく違う話が出た。アシェは、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始める。
「ぼくの、い、命で償います、ので。許して……下さい。ご、ごめんなさい……」
こんな幼い子がそこまで言うなんて。どうしてそこまでするのか。
全く何があったのか。
「泣くな」
執務机から離れて、タオルを渡してやる。しかし涙を溜めたまま、受け取らない。
「ったく」
タオルで軽く顔を拭いてやる。
「あ、うぅ……」
アシェはキョロキョロとオレの様子を伺っている。こちらから話さないと、おそらくこれ以上ここに来た理由は聞けないだろうな。
「アシェ。罰して欲しいと言うが――オレは、お前が盗ってないことを知っている。……身代わりになれとでも言われたのか?」
「……! ち、違います。本当に、ぼくが……」
小さくため息をつく。必死に自身を罰しろと訴え続ける。面倒な訳が山ほどありそうだ。
「アシェ。よく聞いてくれ。オレは盗んだ奴が、誰だか知っている。探知魔法で分かるんだ」
「え……」
「そして、お前はずっと怯えているが、盗んだ人物が直接謝罪に来れば……そうだな、一発殴って済まそうと思っていた。それだけだ。だから身代わりに罰されようなどと、考えなくていい」
「でも、謝りに、来ないです。だからぼくを殺して、終わりにして下さい……」
アシェはぼろぼろと泣き続けている。
「なにを……」
こんな幼い彼に――身代わりを引き受けた彼に、そこまで言わせるなんて……。
「殺してなどと、そんなことを言うな」
目線を合わせ、そっとアシェの身体を引き寄せる。泣いている彼の頭を、自分の肩に押し付けた。これは、ただの庇護欲だ。
「もう、戻るなと……そう言われたのか?」
「…………」
泣いたまま、何も言わない。そんなの同意しているのと変わらない。アシェは肩越しに泣きながら、静かに呼吸をしている。ふと、鞄が目に入る。くたびれていて、何度も縫い直したかのような鞄の中には本が入っているのが見えた。
「本、好きなのか?」
小さく、こくりと頷いた。
「どんな本が好きなんだ?」
まるで、子守りをしているようだ。しかしこんな状態の彼を放って置ける訳がない。
「ぼ、冒険のと、騎士様の本……。騎士様の本は、最後まで読めなかったけど、冒険の本は、天国で……」
そこで彼は口をつぐんだ。オレの徽章を盗んだのは、アシェの義兄、レオン・サリュスだと分かっている。徽章は大事な物ではあるが、ガキの戯れ。簡単に盗まれる警備体制も見直すべきだ。なので大人しく本人が反省し、直接返しに来れば、ぶん殴って終わらせても良かった。
しかしそいつは自身の犯した罪の重大さに怯えたのだろう。オレの徽章を盗んだ罪で処刑されると考えた。だからアシェに身代わりになれと頼み、そのまま帰って来るなと命令した。
断ればどうなるかわからない。そんな残酷な家庭内の主従関係が窺える。
そこに――最期のつもりで、大切な本を持って来たと言うのか。もう、帰れる場所もない。だから大切な本を、天国に持っていけたらと。身代わりになって罪を被り、全て終わらせてもらう。それだけを考えて。
「……そうだな。もう、戻る必要はない。終わりにしよう」
「ぼくを、罰して、くれますか?」
アシェは胸元でこちらを見上げる。
「あぁ」
剣を抜くとアシェは鞄の紐を握り、目を瞑った。まるで天国に本を持っていけるよう、祈るかのように。オレは剣を振り下ろし、そのまま床に突き立てる。剣は床に深々と突き立った。その音に、アシェの肩がびくりと小さく跳ねる。
「え……?」
アシェは目を見開く。
「ここで、身代わりにされたアシェは――もう、死んだ」
「ぼ、ぼく、生きて……」
「もうこれで、罰は終わった。アシェ。たくさん本を読みたいだろ?」
目に涙を溜めながら、こくりと頷く。
「アシェ。ここには読んだことがない本が山ほどある。お前はここにいろ。オレが一緒に居てやる。だからもう、戻らなくていい」
「い、っしょに……?」
「ここにはちょっと変わっているが、気の良い奴らが多い。皆、アシェを歓迎してくれるはずだ」
剣を鞘に収め、再びアシェと目線を合わせる。
「……こ、ここに。居て、いいんですか……?」
「あぁ。もう罰は終わったんだからな」
「罰は、おわ、ったのに、ぼく、生きて、て……そ、そんなの、あ、う……あああ」
「アシェは生きてていい。当たり前だろう」
泣いてるアシェを引き寄せ、頭を撫でてやる。ここまでこの幼い少年を追い詰めた奴らには、それ相応の罰を受けさせる必要がある。ぼろぼろと涙を流すアシェの隣で、オレは静かにその決意を固めていた。
ヴァルドさんは、ぼくに生きてていいって言ってくれた。ここに居ていいって言ってくれた。罰は終わったって。そんなこと、いいの? 役立たずなのに、いいの? 気付くと、いつも我慢していた声が出て涙を流していた。ヴァルドさんの服が汚れてしまう。
「今までよく頑張ったな」
ヴァルドさんは静かに優しく、ずっと頭を撫でてくれていた。ヴァルドさんは執務室の二人掛けソファーにぼくを座らせてくれた。またタオルがびしょ濡れになっちゃった。ヴァルドさんも隣に座って、ぼくの顔を何度もタオルで拭いてくれていた。ようやく涙が止まって来た頃。ノックの音が執務室に響き渡る。
「入れ」
「ヴァルドさん! 報告書を持ってきました! 入団希望の子っすか?」
明るい声で入って来たのはヴァルドさんの真っ黒な髪とは正反対の赤い髪の色をした男の人。この人も剣を持っている。
「彼はリオット・アルベリオ。オレの部下だ。彼は入団希望ではない。……徽章が盗難された件の、身代わりとして寄越されたんだ」
「み、身代わり……!?」
ヴァルドさんはリオットさんに、ぼくのことを説明してくれた。リオットさんは熱心に聞いてくれていた。
「そう言うわけで、彼を保護することにした」
ヴァルドさんのお話しが終わって、こちらを振り返ったリオットさん。目からは、ぼろぼろと涙が溢れていた。
「そんなの騎士として放っておけるわけないじゃないっすか! アシェくん、よく頑張ったっすね……っ! ここにいる人達は皆アシェくんの味方っす! ヴァルドさん、口は悪いし目つきも悪いけど、本当は優しい人だから……」
リオットさんに抱き付かれそうになるけど、ヴァルドさんにぼくの肩を強く抱かれて防がれる。
「親睦の抱擁くらいさせて下さいよ!」
「ダメだ。まだこの環境に慣れてないんだ。気安く触るんじゃない」
「しかし、アシェくんの保護は賛成ですが、今部屋は団員達でいっぱいっすよね」
騎士団庁舎には、騎士団員たちが暮らす寮があるってヴァルドさんは言っていた。でも、部屋じゃなくても大丈夫。
「ぼく、どこでも大丈夫です。部屋じゃないところでも」
お義母さんはぼくの部屋を、物置と言っていた。ぼくは、どこでだって眠れる。
「何言ってるんすか! そんなのダメに決まっているじゃないですか! ここでそんな扱いしないっすよ」
「アシェは、オレの部屋に住ませる」
「ヴァルドさんの部屋は他の団員達よりも、広くて綺麗だし、最適……ってマジっすか!?」
「部屋が空いた頃に、アシェ用の部屋を整えてやればいい。アシェ。それでも構わないか?」
「は、はい」
ヴァルドさんの大きい手のひらでぼくの手を優しく握ってくれた。そのまま執務室を出て広い廊下を歩く。ヴァルドさんは本当にぼくと、一緒に居てくれるんだ。
「そっか。良かったっすね! アシェくん! あ、自分もついて行きますね」
「暇なのか」
「いやヴァルドさんこそ業務記録を書いてる途中じゃないっすか」
「そうだ、リオット。昨日提出された書類に不備があった。書き直しておけよ」
「わ、分かりました」
ヴァルドさんとリオットさん、とっても仲良しだ。なんだか面白くなってちょっとだけ笑ってしまった。
「アシェ……笑顔で居てくれ」
「そのとおりっす!」
二人が優しく微笑んでくれて、なんだか心が温かくなった気がした。ぼくはヴァルドさんとリオットさんと一緒に階段を二階へと上がっていった。
「アシェ。ここだ。開けてくれ」
「はい」
ドアノブに手をかけて、扉を開けてみる。入るとその部屋には、すごく大きなベッド。勉強机に柔らかそうなソファー。本棚には本がぎっしり詰まっている。そして大きい窓にはカーテンが付けられていた。
「相変わらずヴァルドさんの部屋はこんなに広いのに、綺麗っすねー」
「お前の部屋が汚すぎるんだ。アシェ。お前の部屋が空くまで、ここで暮らしてもらって構わない。オレは執務室にいることが多い。好きに使ってくれ」
「こ、こんな大きくて綺麗な部屋。ぼくも、居て、いいんですか?」
そこは、今までぼくの部屋にはなかった物ばかりが広がっていた。
「勿論だが……敬語は要らない。これからここで、皆と暮らすんだ。少しずつ、慣れていってくれ」
「そうっすよ! 遠慮はなしっすよ」
「あ……、ありがとう、ござい、ます。ヴァルドさん。リオットさん……」
さっき止まったはずの涙がまた出て来てしまう。男なのにって怒られてしまう。
「な、泣かないで欲しいっす、アシェくん! このくらい普通っすよ。それに誰かと一緒の方がきっと楽しいっすよ。これから自分とも、たくさん話しましょう」
「……うん。リオットさん」
シャツの袖で涙を拭う。するとヴァルドさんがまたタオルを渡してくれた。それからリオットさんは書類の不備を直すために、騎士団作業室へと向かった。また会いに来るって言ってくれた。ヴァルドさんはため息をついていたけれど。
「団の支給服だ。一番小さいサイズがこれしかなかったんだが、着てみてくれないか?」
「はい」
団の支給服を手渡される。団員たちが部屋着として使うものだってヴァルドさんは言っていた。ぼくが今着ている服よりさらさらで、着心地がいい。
「わあ……」
「やはり上下ともぶかぶかだな。すぐにもうワンランク……いやツーランク下のサイズの物を準備させる。悪いが今日はこれで我慢してくれ」
たしかに袖は手がすっぽり隠れるほど長かった。でも、こんな新品の服をぼくに着せてくれるなんて。
「ううん。すごく、嬉しいです」
袖が長くてだぼだぼでも構わない。こんなに綺麗なんだもの。
「アシェ」
「わ」
突然ヴァルドさんがぼくのことを抱え上げた。
「ヴァルド、さん。なんで抱っこ……?」
「いや。しばらくここで休んでいてくれ。色々あって疲れただろう。後ほど騎士団庁舎を案内するからな」
「あ、ありがとうございます」
こくりと頷く。ヴァルドさんはぼくを、部屋の真ん中にある二人掛けソファーに座らせた。
「あ、の」
「なんだ?」
「ぼくは、死んだことに、されますか?」
「…………」
お義母さんとレオン義兄さんが望むのは、ぼくが罪を償っていなくなること。ここにいるのがもし知られたら、レオン義兄さんはぼくが罪を償ったって思わないかもしれない。そうしたらまた怒られて叩かれる――
「アシェが不自由になるような生活は絶対させない。だが今はまだ……ここで好きなだけ本を読んでいてくれるか?」
ヴァルドさんの部屋にはたくさん本がある。ここで読んでいても、怒られないんだ。
「オレからのお願いだ」
「わ、わかりました」
「敬語。そこは、分かった。だろう」
「あ、う……?」
ぼくは首をかしげる。まだ慣れなくて、つい敬語が出てしまう。
「少しここで待っていてくれ」
ぽんぽんと頭を優しく撫でられて、ヴァルドさんは部屋を出た。その時のヴァルドさんの表情は、一瞬優しかったけれど、すぐに決意に満ちた表情に変わっていた。それが何を意味しているのか、ぼくにはまだよく分からなかった。
部屋を見渡す。ここで……暮らしていいなんて。ヴァルドさんの部屋はとても綺麗で、要らないもの置き場とされていたぼくの部屋とは正反対。この座らせてくれたソファーもふかふか。お尻が沈んで柔らかくて動けなくなりそう。こんな素敵な場所にぼくが一緒に居ていいと言ってくれて、またぽろりと涙が出そうになった。
オレは騎士団庁舎の一角にある医務室を目指していた。怒りが抑えきれない。徽章を簡単に盗まれるような警備体制だった。それは騎士団長としてのオレの落ち度だ。それだけなら謝罪し返しに来たら、二度とこのようなことはするなと殴って済まそうと思っていた。
だが、罪のない子どもを身代わりに立てただけではなく、自ら罰せられたいと頭を下げさせるよう命じた。
『もう戻れない』と泣く声。天国に持っていくために持参した、大切な本。痩せ細った身体。擦り切れた衣服。何度も繕われた靴と鞄。誰にも頼れなかった。いや、頼り方なんて分からなかったのかもしれない。いつ、その命の灯火が消えてもおかしくなかった。アシェは一人でよく、頑張ってきた。騎士である以上、殺しはしない。だが、苦しみを知らずに逃がすつもりもない。
「ルシアン。居るか」
「乱暴だなぁ。扉が壊れるよ」
勢い良く医務室の扉を開ける。そこには、眼鏡をかけ、髪を雑に結んだ男が椅子に座っていた。こちらに気づき、面倒くさそうに振り返る。彼の名はルシアン・ベルネ。彼はこの騎士団庁舎に所属している、治癒魔法使いだ。治癒魔法の腕は優秀だが、相変わらず書類整理は苦手なようで、医務室は散らかっている。
「伝令文見たよ。彼を新しくウチに置くことにしたんだね。彼の境遇を知って反対する者は、ここには居ないだろうね」
「責任持ってオレが面倒みてやる。ただ健康面に対してはルシアン、お前のが秀でているだろう。診てやってくれないか」
「分かったよ。それに君だけが背負わなくても、皆協力してくれるはずだよ」
「助かる。それから以前、お前が話していた魔法。試せる場所を確保できた」
「本当かい?」
ルシアンは目を輝かせている。
「ああ。――試してもらわないと、俺の気が済まない」
「……なるほど。あの魔法を試せる機会をもらえるなんて。嬉しいね」
すると医務室の扉が開く。医務室に入ってきたのは、見慣れた顔、リオットだ。
「自分も、いいっすか? 彼のことを放っておけないのは自分も同じっす。ヴァルドさん。ご一緒していいですか?」
「……あぁ。ついてこい。これから向かうのはただの――醜悪な魔物退治だ」
「ママ! ポテトおかわり。このピザ焦げてるよ」
「レオンちゃん。今新しいのを用意するわね」
レオンちゃんは最近少しぽっちゃりしてきた。野菜を食べた方がいいと言った独り言が、アシェに聞かれていたなんて。ただ、レオンちゃんは野菜嫌い。朝から山盛りポテトにミートピザ。いっぱい食べることはいいことだわ。好物は大抵レオンちゃん一人で全て食べるから、アシェに与えたことはない。でも姉が亡くなり、他に身寄りがないからと言って、役立たずを押し付けてきた方も悪いわ。だから家事や掃除をやらせていた。もちろん姉の残した財産は全て私の物! 服や宝石、あとレオンちゃんの魔法学院への入学金に使わせてもらったわ。役立たずを引き取るのだから、そのくらいはもらっておかないとね。
「ママ。早く!」
「今新しいポテトを揚げてるわ」
すると、家のチャイムが鳴る。
「誰かしら? レオンちゃん、ちょっと見てきてくれるかしら?」
「嫌だよ。もしアシェが失敗して……ヴァルド・ノイシュタット騎士団長がいたらどうするんだ」
レオンちゃんはおかわりが来るのを待ちきれず、ピザを口一杯に詰め込んで、もごもごと噛み潰していた。仕方なく玄関に向かい、念の為、覗き穴から確認する。
「どうも! 魔物が入り込んだと通報を受けたので、見回りに来たっす」
覗き穴には赤髪の男性が、にこやかな笑顔を浮かべていた。あら。あの騎士団長ヴァルド様ほどではないけど、なかなかのイケメンね。
「魔物? 怖いわ。助けて頂けるのかしら?」
玄関の扉を開ける。今日はヴァルド様のご尊顔を見に、騎士団庁舎に行く予定はなくなってしまったけど、化粧はバッチリよ。ヴァルド様にお近付きになりたくて、騎士団庁舎に通っていたけど、彼のようなタイプのイケメンもいたなんて知らなかったわ。
「勿論。お邪魔しますっす!」
「失礼する」
赤髪の彼の後ろから入ってきたのは――
「騎士団長ヴァルド・ノイシュタット様!? ど、どうして、こちらに」
「言っただろう。魔物退治だと」
ヴァルド様に声を掛けられた! 魔物がどうとかはよく分からないけど、今日は最良の日だわ!
「ママ、誰が来たんだ?」
レオンちゃんの声で我に帰る。もしかして、このタイミング。アシェが何か言ったのかしら……。でも騎士団からしたら、徽章は戻ってきたし、犯人も名乗り出た。何も問題ないはずだわ。もしレオンちゃんがやったなんて言ってのこのこと戻ってきたのなら、アシェはまた罰として外の物置小屋に閉じ込めてやるわ。でもあんな子の戯言なんて聞くわけがない。
「うわ。君すごい食べてるっすね。肉付きが半端ないっす」
「だ、誰だよお前! 不法侵入だぞ」
「ちゃんと許可を得てるっすよー」
ひらひらと手を振り赤髪の彼は二階へと上がっていった。ヴァルド様は家内を見回している。
「汚い家で申し訳ないですわ。魔物はどちらに?」
「その子供が食事をしている場所、そして今使っているキッチン以外は掃除が行き届いているな。本当に綺麗だ」
「まあ!」
ヴァルド様が褒めて下さったわ! アシェに隅々まで掃除をするように、言いつけていた甲斐があったわ。
「一人で、頑張っていたのだろう。感情の残火がまだわずかに残っている」
ヴァルド様はなにやら懐中時計のようなものを手に持ちながら確認している。あれは魔道具かしら。ヴァルド様が魔物を退治してくれるなら、なんだって構わないわ!
「マ、ママ! ヴァルド・ノイシュタットがなんでうちに!?」
レオンちゃんが持っていたピザをぼとりと落とす。
「魔物が入り込んだらしいわ」
「本当かよ!? ママ、ヴァルド様のファンだからって」
「静かになさい」
ヴァルド様に気に入ってもらうチャンスなのだから。
「ヴァルドさん」
二階から赤髪の彼の声がする。
「今行く」
二階に魔物が忍び込んでいるのかしら。二階はレオンちゃんの部屋と物置しかないはずだけれど……。
二階は廊下の左右に二部屋。一つは本や大きなベッドと机にソファー。おもちゃや食い散らかした菓子などが、そこらかしこに散らばっている。
「多分こっちが……」
もう一方の部屋に目を向ける。気配の痕跡や感情の残火を辿ることができる、懐中時計型の魔道具も激しく揺れを示している。
「こんなところに彼を押し込めていたなんて、見てられないっす……」
「…………」
思わず絶句してしまう。そこはまるで〝物置〟と呼ぶしかない場所。壊れた家具や使われていない雑多な道具が、めちゃくちゃに詰め込まれている。どこを見ても、生活のために整えられた空間ではなかった。
けれどそこには〝人が居た痕跡〟が確かにあった。カーテンもない部屋の、ほんのわずかなスペースに布が敷かれ、綿の飛び出たクッションには、人が腰かけていたような凹みがある。積み上げた物の上に板を置き、机のように使っていたらしい。その上には、数冊の本とヒビの割れたランプが置かれていた。
「これが、アシェが読んでいた本か……?」
騎士の本は見当たらないが、哲学の本、恋愛小説などジャンルはバラバラだ。この恋愛小説はアシェにはまだ早いだろうとは思うが、かなり見た目がボロボロだ。まるで、元はゴミとして捨てられていたかのような。そして近くには薄い布が小さく折りたたまれていた。布をそっと手で触れてみる。アシェはここで、眠っていた。魔道具で確認しなくとも分かる。この布団とも言えない布を被って――
「アシェくん……こんな環境にいたなんて」
「……。外にいるルシアンの準備が終わったようだな。下に行くぞ」
「は、はい」
リオットが下に向かうのを見て、再び振り返る。アシェがここで小さく丸まって眠っていただろう姿を思い浮かべる。こんな暗く、寒く、汚いところで、一人。
一体、どんな気持ちで――オレは、自分のために、彼が使っていた物を手に取る。ここで彼が必死に生きていたことを、忘れないためだ。きっと彼は騎士団庁舎に来る時に、最期だと覚悟していた。大事な物は全て持ってきたのだろう。ここにある物は要らないものだ。それでいい。これからオレが新しく、アシェにとって大切な物を増やしていくんだからな。
そして彼をここに戻って来させるなど、二度とない。オレは階段を降り、アシェが過ごしていた部屋を後にした。
「魔物は二階にいたの? なんだか怖いわ」
「ママ! 冗談じゃないの!?」
「今、魔物を制裁する準備が整った。外にいる彼が、魔法を発動する」
ヴァルドさんの言葉を聞き、ルシアンさんが玄関先から顔を出し手を振る。
「あら。彼もなかなかのイケメンね。ヴァルド様には敵いませんけど」
「魔法って……何をするって言うんだ!?」
「だから、魔物退治っすよ。何もやましいことがなければ、君たちにはなーんにも、起きないっすよ。ゆっくり座ってピザでも食べててくださいっす」
「な、なにを」
太った子――アシェくんの義兄レオンと言ったかな。怯えているようだ。
「ヴァルド様! 私のためにここまでして頂けるだなんて」
「……少し黙ってろ」
「ヴァルド、様?」
ヴァルドさんが合図をすると、ルシアンさんの魔法が発動され、家全体が瞬時に光に包まれる。
「さて」
頭の上で手を組み、傍観の姿勢だ。ヴァルドさんは二人に対して睨みを効かせている。あの睨みだけで人を気絶させられそうだ。しかし、彼ら二人は今、それどころではないようだ。
「な、何!? 何これ、き、汚いっ!!」
「ま、ママ!? 暗いよ!! ここどこ!?」
彼らはひたすら身体を掻きむしったり、頭を抑えたりしている。
「や、やめてよっ! やめて、出してよ! 出して出して出して!!」
「嫌ーーっ!! 熱い、熱い熱い、顔、私の、顔が……っ!!」
各々に叫び回る二人。しかし、実際のところは何も起きていない。
こちらから見えるのは、ただ二人が狂乱状態で暴れ狂っているだけだ。ルシアンさんの魔法はえげつない。彼の発動した魔法は、対象――アシェくんの記憶と感情に干渉し、彼らに〝自分自身の恐怖〟を幻覚として見せるものだ。
まさに復讐に、とっておきの魔法。故に扱いが難しくて、協会からは禁止されていた。なかなか試す機会がなかったらしく、今回ルシアンさんはノリノリで発動しているようだ。恐ろしい。
「騒がしいっすね」
「防音魔法が張られている。外には聞こえない」
「さすがっす」
「アシェがここにいなくて良かった」
「そうっすね。見せない方がいい光景っす」
「……なかなかの成果だね」
ルシアンさんが部屋の中に入ってくる。彼らは全く気付いていない。狂っていく二人を騎士団三人で見るという、なんともまあ、シュールな光景だろうか。そんな妙な趣味は一切ないけども。
「これは想定以上の結果だよ。実践でも試せそうだ」
「誰に試すんですか」
「そうだなぁ。口を割らせたい相手とかにでも少しずつ試して様子を……」
「真面目に答えないで欲しいっす」
「……どうだい? ヴァルドくん。満足した?」
「まだだ」
「そうっすね。まだ甘いっすね」
「奴らはアシェの物語には不要だ。二度とアシェの人生に関わらせない……!」
「アシェ」
少し遅くなってしまった。アシェは大丈夫だろうか。部屋を見回すと、アシェは――ソファーの上で沈むように眠っていた。部屋でソファーに座らせた後、そのまま眠ってしまったのだろうか。本の入った鞄を抱きしめたまま、頬にはまだ乾ききらない涙の跡が残っている。
「アシェ。戻ったぞ」
頬にそっと手を寄せる。
「……っ! ヴァルド、さん?」
最初はびくり、と身体を震わせていたが、すぐに目を擦り、ぼんやりとした眼でこちらを見ていた。
「よく眠っていたな」
「ご、ごめんなさい。ソファー、ふかふかで、き、気持ちよくて……」
「いいんだ」
頭を撫でてやる。今まで、あんな場所で眠っていたのだから今、こうして安心して眠れていたなら、それだけで十分だ。
「その服。動き辛いだろう」
「ううん。綺麗な服。嬉しいんだ」
えへへ、と袖を擦り合わせてアシェは笑顔を向ける。
「アシェ」
「わ」
アシェを抱え上げる。軽すぎる。これは片手でも持てそうだ。
「なんで、また、抱っこ……?」
「もう、終わったんだ」
「え……?」
制裁は終わった。ルシアンによる魔法は解かれたが、まだ彼らは幻覚から逃れられずにいる。家内は今までと何も変わりはないが、彼らは物音に震え、暗がりに何かがいるのではと怯えていた。
「ああぁ。もう、嫌、嫌」
「ごめんなさい、ごめんなさい……!!」
幻覚の強さは、今までアシェに与えてきた非道の数々に、比例している。どれほどのことを彼らがしてきたのか。それは、彼ら自身の苦しみが物語っている。
「幻覚から逃れたければ、今すぐこの街から出て行け。そして、アシェには二度と近付くな」
「ヴァルド、様……っ。わ、私を守ってくれるんじゃ……」
「もう嫌だ! ここにはいたくないよ!」
何の罪もないアシェを何年も虐げ、心も身体も傷つけた。命を取られなかっただけ、ありがたいと思え。その後、リオットがにっこり笑って釘を刺すように言った。
「もちろん、追放先でも同じようなことがあれば、また幻覚が復活するかもしれないっす。お気をつけるように」
「ひっ……!」
アシェが自由に外に出られるようになるには、過去の影をこの街から追い出す必要があった。奴らの追放先は労働力を欲しがっていた。徹底的に使ってもらうことにしよう。
「アシェが心配するようなことはもう、何もなくなった」
「ぼ、ぼくがここで、生きていても……怒られないの?」
「あぁ。アシェは生きていていいんだ。ここにいろ。アシェ」
「う、う、わああ、ああ」
アシェは大きな瞳からぼろぼろと涙を流した。乱れた灰色の髪を撫でてやると、アシェはオレのシャツを小さく握った。思わず胸元に抱き寄せる。誰にも頼れなかった。いや、こんなに小さいんだ、頼り方も分からなかっただろう。
ようやく自由になった彼の心にはまだ、深い傷が残っている。アシェに必要なものはまだ、山程ある。彼が幸せを掴む、手助けをしてやりたい。
こんな幼い子が自分の命を諦めるようとするなんて――そんなことは二度と起こさせないためにも。少しずつでいい。ここでの生活に慣れていってくれれば。
アシェの幸せな物語は――ここから始まっていくんだからな。
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