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序幕

 三十路を越えても人生が続いているなんて、昔の自分に言っても信じないだろう。あの泥沼に生きていた頃、毎日が息をするので精一杯だった。このまま、この泥中で喘ぎながら死んでいくのだと、疑いもしなかった。  トコトコトコ……と、単気筒エンジン特有の、小気味よく歯切れのいい走行音が響いた。早朝の新聞配達を思わせるその音に、永瀬志季(ながせしき)は目を覚ます。少し昼寝をするつもりが、二時間も眠っていた。窓の向こうは真っ黒な雲に覆われて、今にも雨が降り出しそうだった。傘立てに差してあった二本のビニール傘を持ち、志季は家を出た。    八月ももう終わりだ。このところ毎日夕立がある。真夏の日差しに焼かれた町が、日を追うごとに冷まされていく。  蝉時雨は死に絶えた。ぽつりと鼻先を雨粒が打ち、そうかと思うと、傘を広げる間もなく、バケツを返したような土砂降りになった。  駅までの道を、水溜りを跳ねて走った。こんなことになるのなら、わざわざ出てくるんじゃなかった。ずぶ濡れになった姿を見て、あいつは笑うだろうか。透明のビニール越しに、男と目が合った。   「何やってんだ」 「来てくれたの!?」    志季の声と、男の弾んだ声が重なった。カバンを傘代わりにして土砂降りの中を突っ切ろうとしていた男に、志季は傘を差し掛けた。男は気の抜けた笑顔を浮かべて、びしょ濡れになった髪を掻き上げた。   「いや~、降られちまった」 「傘を忘れるなって、今朝あれだけ言っただろ」 「朝はピーカン晴れだったろ。邪魔ンなると思ってさ」 「いい加減、新しい折り畳みを買えよ」 「でも、お前が来てくれただろ」    男は、志季の濡れた髪を撫で上げて、笑った。   「ホント言うと、昼寝してんだと思ってさ。既読もつかないし」    言われて、志季はポケットに手を突っ込む。メッセージありを示すライトが点滅していた。開いてみると、志季が家を出たすぐ後くらいに、この男──春介から送信されたものだった。  春介に呼ばれるより早く、傘を持って家を出た。あれだけ言ったのに、この男は傘を忘れるし、空は重く垂れ込めた曇天で、雨が降り始めるのは明らかだったから。だが、そのことを春介に知られるのはなんだか癪で、志季は彼の胸を叩いた。   「ちょ、なんだよ。俺はゴリラかって」 「うるせぇ、この筋肉はゴリラだろうが」 「ゴリラってホントは優しいんだよ?」    志季は、差し掛けた傘を春介に渡して、もう一方の傘を開こうとした。しかし春介に阻止される。開こうとした傘は取られて、春介が相合傘をするように体を寄せてきた。狭いと志季は文句を言う。いいじゃん、と春介は気の抜けた笑顔で返す。   「どうせ、そんなに長い距離じゃないんだし」 「だからって、濡れて帰ろうとするのはバカだ。ケツまで濡れるぞ」 「だからお前が来てくれたんだろ? ありがとな」 「……」 「帰り、なんか買ってこうか。飯ある?」    彼の純粋な好意に弱かった。いつも、志季は何も言えなくなる。夕食の支度はなかったので、商店街で惣菜を買って帰った。  この町に住んで十年になる。高校を卒業してすぐに上京し、都会の片隅でひっそりと暮らしていた。初めの数年は、単身者用のボロアパートで肩を寄せ合って暮らしていたが、必死に働いて金を貯めて、今いるアパートに引っ越した。2DKのファミリー向けマンションで、二人で住むには十分すぎるほど広い。    藤井春介(ふじいしゅんすけ)とは、小学校に入る以前からの幼馴染だった。同じ町の同じ学校で青春を過ごして、田舎を捨ててからもずっと一緒にいる。家族よりも深い付き合いになっていた。人生のほぼ全てが、この男と共にある。  金曜の夜は穏やかだ。リビングのソファに二人で座って、金曜ロードショーをつける。毎年、夏になる度に放送しているような映画だ。若干見飽きているのだが、やっているとついテレビをつけてしまう。それなのに、放送中それほど集中できるわけでもない。  春介の手が肩に触れた。抱き寄せられたわけではないが、志季は彼の肩にもたれた。身を預けて、下から彼の顔を見上げる。目が合って、自然と唇が重なった。   「いいの」 「ん」    志季は、春介の膝にまたがった。向かい合って抱き合って、もう一度口づけを交わした。見飽きた映画の音声だけが聞こえている。  金曜の夜はセックスをする。気が乗れば土曜もする。生活をする中で、何となく決まっていったことだ。春介はルート配送のドライバーをしていて、志季は輸入雑貨を扱う小さな会社で働いている。今日は、先月の休日出勤の振替休日だった。何をするわけでもなく、家でのんびりと過ごした。    リビングでは互いの体を愛撫するにとどまり、寝室へ行ってベッドの上で繋がった。たった一度の繋がりで、身も心も満たされた。  昔は、それこそ高校を卒業して数年ほどは、毎日毎晩貪り合っていた。体が溶けて、混じり合うほどに愛されなければ、安心できなかった。彼との生活が続く中で、そんな焦燥はいつの間にか消えていた。残ったのは安らぎだけだ。あまりにも穏やかな日々が続くから、感覚が麻痺していたのかもしれない。    朝日が優しく瞼を撫ぜる。目を開けると、春介の後ろ姿が見えた。引っ掻き傷が残る、大きな背中。ベッドサイドに置いていたミネラルウォーターを飲んでいた。喉を鳴らす音が力強かった。  志季が起きたことに気づいて、春介はこちらを振り向いた。あの朝日と同じ、優しい笑みを浮かべて、志季の頬を撫でた。  今日は海に行く約束をしていた。八月の終わり。海に行くなら最後のチャンスだった。晴れてよかったな、と春介は笑った。    朝食は春介が用意してくれた。できたら呼ぶからそれまで寝てろと言われたが、香ばしいにおいにつられてベッドを下りた。  スクランブルエッグと、カリカリベーコン、トマトとレタス。それに淹れたてのコーヒーだ。焼きたてのトーストにたっぷりのバターを塗って、かぶり付いた。ありきたりな朝食だった。  テレビをつけると、朝のニュースがやっていた。天気予報を気にして、春介はチャンネルを切り替えた。パッパッと画面が切り替わる中で、春介はふと、リモコンを操作する手を止めた。志季も画面へ目をやった。故郷の風景が、でかでかと映し出されていた。   「──県の山中で、遺体が発見されました。死後十年は経過している模様で、警察は身元の特定を急いでいます」    淡々とニュース原稿を読む、アナウンサーの無機質な音声が響く。映っているのは、三方を山に囲まれた、谷底の田舎町。グレー一色の、故郷の風景だった。十五年前の夏、あの山に死体を埋めた。  ニュースを読み終え、ぱっと画面が切り替わる。やたらとファンシーな音楽に乗せ、番組のキャラクターが踊っている。今日の運勢はこちら、とアナウンサーが作り物めいた声を張り上げた。   「ラッキーアイテムは鍵だってさ」    そう言った春介の声のトーンは、昨日の朝と変わらないものだった。

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