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第一幕「発端」第一章「少年」第一話
中古で買った、90㏄の原付バイクにキーを差す。体重をかけてキックペダルを踏み下ろすと、エンジンがかかった。乗れよと春介が促すと、剥き出しのスチールの荷台に、志季がまたがった。ギアペダルを踏んでアクセルを回し、春介はバイクを発進させた。
深夜0時を過ぎている。国道は往来がない。空気が澄んでいる。志季は春介の腰に緩く手を回している。安物のシャンプーのにおいがした。
「……汗くせぇ」
「ちょうどシャワー浴びるとこだったんだよ」
春介が答えると、志季は少しだけ腕に力を込めて、春介の背中にもたれた。下腹部に手が触れて、柔く揉まれる。またいつものイタズラが始まった。
「やめろよ、危ねぇから」
春介が言っても、志季は下腹部をまさぐる手を止めない。ハムスターを撫でるような手付きがくすぐったかった。
「やめろってば。事故ってお前と心中なんて、ぞっとするぜ」
「……ホントに勃たねぇな」
そのことを確かめるようにまさぐる手に、春介は自身の手を重ねた。
「前にも言ったろ。俺は男として死んでんの」
歩行者用の信号機が点滅する。黄色から赤に色が変わる。春介は重ねた手を放し、グリップを握り直した。トットットッ……とエンジンの回る音だけが響く。志季は、春介の腰に緩く手を回したまま、それから何も喋らなかった。
春介と志季は、小学校に上がる前からの幼馴染だった。今となってはほとんど家に帰ってこない、たまに思い出したように仕送りをしてくるだけの母親だが、その頃はまだ家にいて、昼も夜も働いていた。春介は、志季と同じ保育園に預けられていた。
小学校に上がると、毎日一緒に遊んだ。学校から走って帰って、里山の奥地に放置された古い温室を秘密基地にして遊んだ。
初めてそこを見つけた時、鉄骨のフレームは腐食して錆び付き、外壁のガラスは穴だらけだった。二人の手で、少しずつ作り替えていった。フレームにはカラーテープを巻き、外壁の穴は色付きのフィルムシートで塞いだ。
出入口にはカーテンをかけ、コンクリートの床には段ボールとビニールシート、さらに毛布を重ねて敷いた。漫画雑誌や古いラジオを持ち込んで、日が暮れるまで飽きずに遊んだ。
そこは二人きりの聖域だった。長年放置されたことにより、野生の蔦や葛が蔓を伸ばし、建物全体を覆っていた。外壁のガラスは、長年風雨に晒された影響で白く削られ、すりガラス状になっていた。緑の隙間に差す木漏れ日や、すりガラス越しに差す陽光は、夏であっても柔らかく、脆さを孕んでいた。草と露のにおいに、いつも満たされていた。
「なくなっちゃった」
ステンレスの水筒を逆さに振って、志季が言った。口いっぱいまで入れていた麦茶が、もう空っぽだった。
「これ食ったら帰ろっか」
春介はドーナツに手を伸ばす。志季が祖母に作ってもらい、持たせてもらったものだった。他にも、ホットケーキだとか蒸しパンだとか、そんなものをよく作ってもらっては、志季は秘密基地に持ってきた。遊びの合間に食べるのが、二人の楽しみだった。
今日も一日暑かった。帰る前に駄菓子屋に寄り、アイスを買った。シャリシャリのソーダアイスで、当たりは出なかった。
店の前のベンチでアイスを食べていると、町の者ではない、見知らぬ男が通りかかった。知り合いの家を訪ねたいのだが、道に迷ったと言う。それなら志季の家が近所だからと、帰るついでに案内することになった。志季とはそこで別れて、春介は帰路についた。
アパートに着き、鍵を出そうとしてポケットをまさぐった。入っていたのは小銭だけだった。秘密基地に忘れてきたのだと思い出して、来た道を急いで引き返した。
夕暮れに差しかかったとはいえ、真夏の日差しはいまだ鋭い。西日に焼かれながら、汗だくになって走った。
途中、駄菓子屋に立ち寄った。どうしても喉が渇いていた。ソーダアイスを一本買って、急いで食べた。頭がキーンとなった。あまりに急いで食べたから、三分の一ほど地面に落とした。拾って食べようと一瞬思って、泥にまみれているのを見てやめた。あっという間に蟻がたかった。
今度は当たりが出た。明日志季に見せようと思って、ポケットに突っ込んだ。秘密基地へと続く坂道を駆け上がった。
山に入れば幾分涼しい。青葉が日差しを遮っている。蝉時雨が降り注ぐ。秘密基地が見えてきた。
ガラス越しに影が動いた。春介は反射的に足を止めた。志季も忘れ物をしたのだろうか? それにしては、影が大きい気がした。ここは、二人しか知らない場所のはずなのに。
息を潜めて近づいた。耳慣れない、不気味な物音がした。恐る恐る、ガラスの隙間から中を覗いた。
駄菓子屋で道を尋ねてきた男がいた。服を上半身しか着けていなかった。
志季がいた。服を着ていなかった。地面にねじ伏せられて、泥にまみれていた。
何が起きているのか、春介には分からなかった。男が息を荒らげ、志季を押さえ込んでいる。志季の綺麗な顔が、泥にまみれている。これは、なんだ。
志季の悲痛な叫びが響いた。はっとして、春介は焦点を定めた。必死に藻掻いて、男の下から脱しようとする志季を、男は物凄い力で引き寄せて、押し潰した。志季の悲鳴が鈍く濁る。
やだ、やだ、と泣き叫ぶ声が響く。二発、三発、殴打する音が響く。志季は砂利を噛んで涙を流す。嗚咽するような声が響いて、そしてまた、微かな悲鳴が響いてくる。
春介はガタガタ震えていた。目も耳も塞ぎたいのに、そうすることさえできなかった。ガラス越しに、志季と目が合った──気がした。それなのに、その場を一歩も動けなかった。
どれくらいの間そうしていただろう。永遠のように感じた。ようやく男がいなくなって、それからさらにしばらくした後、春介は震える足で立ち上がった。
温室の中は、ひどいにおいがした。汗とも小便とも違う、饐えたにおいが充満していた。
志季は泥の中に倒れていた。汗と涙と、白く濁った粘着く液体にまみれていた。虚ろな瞳で春介を見上げた。
誰にも言わないで、と志季はか細い声で告げた。何度も何度も、掠れた声で繰り返した。小さく震える体を、春介はただ抱きしめることしかできなかった。
すりガラス越しに差す夕日が、赤黒く濁っていた。春介の手足と、志季の白い肌とを、同じ色に染めた。血のような赤だった。
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