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第一章「少年」第二話

 二人の聖域は奪われた。柔らかな木漏れ日も、淡く色のついた光も、ガラス越しの砕けた日差しも、何もかもが破壊された。もはや手に入れることのできない、遠い過去へと消えてしまった。二度と、あの廃温室には足を運ばなかった。  その晩、春介は夢を見た。あの温室で、志季が男に犯されていた。現実よりももっと近い距離で、春介はそれを見ていた。  男の凶器が、志季の体を貫いた。志季の細くしなやかな体が波打った。体が跳ねて、艶のある黒髪がさらりと靡いた。毛先から汗が滴って光り、春介の頬を濡らした。    息を呑んだ一瞬、悲痛な叫び声が耳をつんざく。春介は、現実と同様、ガラス越しにそれを見ている。志季が虚ろな瞳で涙を流す。やめろと叫ぶ自分の声で飛び起きた。  じっとりと汗をかいていた。息を切らしながら、下半身の違和感に気づく。下着の中がべっとりと濡れていた。白く濁った粘液だった。志季を穢した、あの男のものと同じ。  洗面所へ駆け、嘔吐した。鏡に映った顔は、見るに堪えないおぞましいものだった。  この時の夢精が、春介の精通となった。しかし、それ以降ペニスが勃起することはなかった。この時を最後に、春介は男として死んだのだ。    翌日も、翌々日も、志季とは会わなかった。結局、次に顔を合わせたのは夏休みが明けてからだった。  いつもの時間よりも早く家を出て、春介は一人で登校した。教室で見た志季の表情は、いつもと変わらないものだった。  元々、志季はおしゃべりなタイプではなく、クラスの中心メンバーというわけでもない。休み時間は教室の隅で本を読んでいるような、そんな姿が似合う子供だった。学校での志季の姿は、夏休み前と何ら変わらないものだった。  なんだか、全てが夢だったような気がしてきた。あの日のことは、全てが白昼夢だったのだ。あんまりにも暑かったから。纏わり付く蝉の声が鬱陶しかったから。夕日があまりに赤かったから。そのせいで見た幻だ。恐ろしいことなんて何もない。二人の秘密基地は、きっと以前のままそこにある。    しかし、春介と二人になると、志季からは表情が消え失せた。ほとんど何も喋らない。帰り道はずっと俯いていた。死んだ蝉を踏み付けても、表情は変わらなかった。  春介は悟った。志季は無理をして平常通りに振舞っているだけなのだと。一緒に暮らす祖母に心配をかけないため。学校の先生やクラスの友達に不審に思われないため。あんな事件などなかったかのように振舞っている。  悪い夢でも、幻でもない。あれは確かに、現実として起こったことだ。そのことを、春介と志季だけが知っている。他の誰も、永久に知ることはない。    中学に上がってからも、志季は仮面を被った生活を続けた。学校や家では明るく振舞い、春介の前でだけ、表情も言葉もなくなった。それでも、春介は志季のそばにいた。志季も、春介のそばを離れようとはしなかった。共有した秘密はあまりに重く、離れることなどできなかった。  しかし、中学三年の冬だった。志季の祖母が亡くなった。唯一の肉親だと聞いていたが、志季が引っ越すことはなく、祖母と二人で住んでいた平屋の一軒家に、志季は一人で住み続けた。  その頃からだ。志季は、春介の前でも仮面を被るようになった。もはや、どちらが本当の姿で、どちらが仮面を着けた姿なのか、春介にも分からなくなっていた。  その頃、放課後は二人で勉強をすることが多かったが、志季はしばしば約束をすっぽかした。翌日学校で事情を聞いても、薄ら笑いではぐらかされる。放課後、特に週末になると、どこかへ出かけているらしい。朝まで帰らないこともざらだった。    一度、志季の跡をつけたことがある。電車で一時間ほどの距離にある近隣の市街地を、志季は慣れた足取りで歩いた。見失わないよう、春介は人波を掻き分けて必死に追いかけた。そして見た光景は、見知らぬ男に肩を抱かれて嬉しそうにしている、志季の姿だった。  高級そうなスーツを着た、背の高い大人の男だった。二人が寄り添って入っていった建物の前で、春介は立ち尽くした。  青紫のネオンサインに、ホテルムーンサイドの看板。休憩3200円~、宿泊6500円~、フリータイムは一律4800円。  看板の文字が歪んで見えた。胸に嫌なものが込み上げた。狂おしいほどの怒りと嫉妬に苛まれた。  春介は、脇目も振らず駅まで走った。中学三年生の冬。あまりにも無力だった。    何もしてあげられない。あいつの痛みを分かってあげられるのは、俺だけなのに。  それでも、あいつを独りにしたくなかった。夜の闇の底へ置き去りにはしたくなかった。あんな場所ではない、どこか遠くへと、連れ出してやりたかった。  それから、生活費を切り詰めて金を貯めた。中学を卒業すると同時に、ガソリンスタンドでアルバイトを始めた。そこで知り合った中古バイクを扱う店のオーナーに、原付バイクを破格で譲ってもらった。そして、高校に入学してすぐに免許を取った。  放課後、ホテル街へ向かおうとする志季を、バイクに乗って追いかけた。エンジンを空吹かしして呼び止めると、志季は気怠げに振り向いた。   「帰ろうぜ。乗れよ」    志季は冷めた目をしていた。春介はもう一度エンジンを吹かす。   「金貯めて、買ったんだ。お前に一番に見せたくて」 「……一番に見たのは、向かいの家の婆さんじゃねぇのか」 「それじゃあ、お前を一番に乗せたくて」    春介は、剥き出しのスチールの荷台を叩いた。ヘルメットを渡すと、志季はそれを受け取った。   「まだ誰も乗せたことないんだぜ」 「……つっても、中古だろ」    志季は荷台にまたがった。春介の腰に緩く手を回して掴まる。この距離で志季と話をするのは、数年ぶりのことだった。  それから、志季はよく春介を頼るようになった。男に抱かれた後、ラブホテルまで迎えに来いとか、終電を逃したから駅まで来いとか、そんな電話が、春介の元に頻繁にかかってくるようになった。  たとえそれが深夜だろうが、ようやく寝入ったタイミングだろうが、春介はすぐに支度をしてバイクを走らせた。  時々、顔に痣を作っていることがあった。志季はただ、歪な薄笑いを浮かべるだけだった。その度に、春介は胸が張り裂けそうになった。しかし、事情は何も聞かなかった。志季も何も言わなかった。ただ黙って、春介の背中にくっついていた。  志季の求めには絶対に応じた。春介にできることといえば、それしかなかった。ただそばにいてあげることだけ。いつだって、お前を受け入れる覚悟がある。その準備ができているということを、行動で示し続けることしかできなかった。

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