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第一章「少年」第三話
学年を上がる頃には、志季の行動はエスカレートしていった。ドライブ中に車を叩き出されたから県境の峠道まで来いとか、男の家まで迎えに来いとか、春介への要求もエスカレートしていった。
そして、ちょうど入梅の頃だった。ヤりすぎて動けないからホテルの部屋まで迎えに来い、と連絡があった。春介はバイトからの帰り道だった。すぐに踵を巡らせた。
時刻はまだ十時前。バイパスができたことで使われなくなった旧国道は無人だった。町外れの、鬱蒼とした藪の中に、指定のホテルはあった。
ホテルというより、テーマパークにあるお城のような建物だった。やたらと煌びやかで、装飾がごてごてしていた。しかし、どぎついピンクのライトアップと、ホテルダイヤモンドの看板が、ここがテーマパークなどではないことを示していた。
実際に足を踏み入れるのは初めてだった。おどおどしながらエレベーターを呼び、絨毯の敷かれた廊下を進んだ。
薄暗い廊下の先に、部屋番号が点滅していた。ドアを開けると、室内の明かりが目に沁みた。ベッドの上に、志季がいた。
シーツも何もかもがぐしゃぐしゃに乱れたベッドの上に、志季は寝ていた。覆い隠すものの何もない、剥き出しの滑らかな肌が、白く濁った粘着く液体にまみれていた。志季は虚ろな目で春介を見上げ、唇だけを歪めて笑った。
「……なんで……」
見るに堪えない惨状だった。春介は目を背けて、唇を噛みしめた。
「なんで、こんな……」
あの夏の光景と重なった。泥にまみれてうずくまっていた小さな体が、目の前の志季の姿とオーバーラップした。
いつもそうだ。春介はいつも間に合わない。ようやく駆け付けた時には全てが遅い。何もかもが手遅れで、何も取り返すことなどできはしない。今よりももっと無知で無力な少年だった時のまま、春介の過去は錆び付いている。
「やめろよ、もう、こんなこと」
それは、今まで決して口にしなかった言葉だった。しかし魂からの叫びだった。
志季に、これ以上自分を傷付けてほしくない。傷付いて当然の顔をして笑ってほしくはない。この泥沼から、どうにかして連れ出してやりたかった。
「……どういう意味だよ」
志季の声が低く響いた。静かな怒りを秘めていた。彼のこんな声を聞くのは初めてだった。
「もう一回言ってみろ。どういう意味だ」
「……こんなことはもうやめろって言ったんだ」
志季が、手元にあった枕を掴んで投げ付けた。春介の顔を殴り付け、枕は床に転がった。
「てめぇに何が分かんだよ」
志季の怒りが、春介の胸をも震わせた。空気が張り詰め、毛が逆立った。春介は唇を噛みしめて、真っ直ぐに志季を見つめた。何一つ見落としてはいけない気がした。
「てめぇにおれの何が分かんだよ。何も知らないくせに。お前は何も奪われなかったくせに。何もできないで、ただ見てただけの分際で、今更分かったような口利いてんじゃねぇよ!」
この五年間、耐えに耐え抜いてきた志季が初めて見せた爆発だった。怒りの爆発。理不尽に対する憎しみの爆発だった。
志季はリモコンを投げ付けた。角が当たり、春介の額に血が滲んだ。一瞬怯えた顔をした志季を、春介はそっと抱きしめた。
ごめん、と春介は一言囁いた。離せよ、と志季は泣き叫ぶような声で言い、四肢を振るって暴れた。
「もうどうだっていいんだ。こんな体に価値はねぇ。守るもんなんかねぇんだよ」
否定しようとする春介の声は掻き消される。
「お前だって、どうせそうだろ。おれの具合が気になるんだろ。だからずっと尽くしてきたんだろ。そうじゃなきゃやってられねぇよ。こんな男の相手なんか」
力いっぱい突き飛ばされ、そのままベッドに押し倒された。全体重で押さえ込みながら、志季は春介に馬乗りになる。ベルトに手をかけられる。
「おい、なに考えてんだ」
「うるせぇ黙ってろ。正当な対価を与えてやろうってんだ」
「んなもん、いらねぇって……!」
あっという間にベルトを外され、下着に手を突っ込まれた。ペニスに触れた志季の手は、冷たく強張っていた。それは初めて知る感触だった。春介は一切の抵抗をやめた。全てを打ち明ける覚悟が、今になってようやく、できた。
ペニスを擦ったりしゃぶったりと、志季はあの手この手で刺激を与える。しかし、どれだけ刺激を与えても、そこが熱を持つことはない。だらりとしたまま、ぴくりとも動かなかった。まるで、羽化する前に死んでしまったサナギのような、蝉の抜け殻のようでもあった。
「……おい、なんで」
「うん」
「なんで、勃たねぇ」
春介はゆっくりと体を起こす。自分の手でも刺激を与えてみたが、うんともすんとも応えなかった。
「ま、見ての通りインポってやつだな」
「……なんで……」
「こう見えて、俺って繊細なとこあるし」
全てを包み隠さず打ち明けた。あの事件の後、酷い夢を見て夢精をしたこと。それが精通になったが、それ以降は不能になったこと。罪悪感から、ずっと言えずにいたことも。
「あの時、俺は男として死んだんだ」
春介はあえて笑った。志季の黒い瞳が微かに揺らいだ。そうかと一言呟いて、裸のまま布団に包まった。
「寝んの」
「泊まる」
「俺は?」
志季は部屋の隅を指した。洗面所と浴室があった。
「いいの」
「好きにしろ」
好きにした。シャワーを浴びて汗を流すと、どれだけガソリンのにおいが染み付いていたのか自覚する。
バスローブなんて初めて使った。部屋に戻ると、志季は先程と同じ姿勢のまま、布団に包まっていた。
照明を消すためにスイッチをあちこち探し回った結果、ベッドヘッドのコントロールパネルを使うらしいと気づいた。ちょうどよく薄暗くしたかったのだが、ピンクやブルーで変に眩しかったり、仕舞いにはディスコクラブのストロボライトのようにフラッシュを焚き始めるものだから、諦めて全消灯にした。
手探りで布団を捲り、そっと体を滑り込ませる。寝ているとばかり思っていたのに、志季が不意に口を開いた。春介、と囁く声が暗闇に溶ける。
「おま、起きてんなら言えよ。電気消すのに手間取ったろ」
「はは、結構笑えたぜ」
春介に背中を向けたまま、志季は微かに肩を揺らした。
「なぁ、春介」
「なに」
「おれは、な。好きでやってるだけなんだ」
「……」
「だから、二度とくだらねぇこと言うんじゃねぇぞ」
春介は何も言わなかった。頷けるわけがなかった。声を震わせて、それでもまだ耐えようとしているこいつに向かって、言えることなんて何もなかった。どんな言葉も、上滑りするだけに思えた。これ以上、こいつのために何をしてあげられるのだろう。
「なぁ、志季」
「なんだよ」
「くっついていい?」
「……好きにしろ」
抱きしめた志季の体は温かかった。もうだいぶ薄まってはいたが、春介が今使ったのと同じ、安物のシャンプーのにおいがした。
「……なぁ、」
志季が何か言いかけて、やめた。それでも、志季が何を言おうとしたのか、春介には分かった。
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