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第二章「傷痕」第一話
おれ達は、同じ傷を抱えている。同じ痛みを負っている。そして、同じ秘密を共有している。
今日は予定通り海に出かけた。あんなニュースが流れた後なのに、町はあまりにもいつも通りだった。二人の都合などお構いなしに、世界は変わらず回り続ける。
海水浴なんて悠長なことをしている場合ではない。警察はすぐにでも自分達に辿り着くだろう。春介と二人で死体を埋めた、あの夏の日から十五年が過ぎているとはいえ、警察の捜査能力を甘く見ることはできない。呑気に海で遊んでいる場合ではないのだ。
「なぁ見て、ナマコ」
波打ち際にしゃがみ込み、何かを熱心に探していた春介が顔を上げた。手に持っていたのは、濡れて黒光りする不気味な物体。いや、あれでも一応生き物だ。
「そんなもん探してたのか」
「うん。お前も持ってみ」
「いや……普通にキモいから嫌だ」
見るからに粘液を纏っている。実際に触らなくても、感触は容易に想像できた。ペットにするわけでもないんだから放してやれと志季が言うと、春介はナマコを海に放り投げた。
夏の終わりの海水浴場は、予想に反して大混雑だった。盆が明け、土用波で海は荒れやすく、クラゲも発生しやすいため、ピークは過ぎているだろうと高を括っていた。何より、夏休みがもう終わるのだ。学生は終わらない宿題に追われているだろうと思っていたのに、とんだ見込み違いであった。
波打ち際は芋洗い状態で、海には無数の浮き輪が浮かぶ。広い砂浜を埋め尽くすようにパラソルが立てられて、赤や緑のビニールが日差しを浴びて光っている。海に来たのか、人を見に来たのか分からなくなる混雑ぶりに辟易し、志季はほとんどの時間を砂浜で過ごした。
海水浴は早々に切り上げ、江ノ島に渡った。名物の生シラス丼で昼食にし、タコを丸ごと一匹プレスして作るたこせんべいを食べた。
弁財天の仲見世通りは、海水浴場に負けず劣らずの混雑ぶりで、歩くだけでもどっと疲れた。浜焼きの店が目に入り、吸い寄せられるように暖簾をくぐったのも、いわば当然の流れであった。
海を臨む座敷席に通された。もうそれほど腹は減っていなかったのに、サザエの壺焼きと焼きハマグリを注文した。食欲をそそる香ばしい香りが、店内に充満していた。窓から見える海が青かった。
「あーっお前、自分だけ」
トイレから戻った春介は、志季を見咎めた。彼の離席したタイミングでこっそり注文した生ビールが、今ちょうど届いたのだった。志季はジョッキに口をつける。春介の視線を感じながら、喉を鳴らしてビールを飲んだ。キンキンに冷えていた。
「うまっ」
「おまえ~、ずりぃぞ自分だけ」
申し訳ないとは思った。車で来てしまったせいで、春介は飲めない。というより、志季が今ここでアルコールを入れてしまったせいで、春介は何が何でも飲むわけにはいかなくなった。
「……喉が渇いたんだ」
「俺だって渇いてますう! くっそ、あえて見ないふりしてたのに」
「おれのサザエやる」
「いいって、お前食えよ。絶対ビールと食うのがうまいやつじゃん」
その通りだった。貝の旨みと醤油の甘みが、冷えたビールにこの上なくマッチした。天才的な組み合わせだった。貝殻の奥に残った汁まで飲み干して、中ジョッキも空になった。
「うまかった?」
春介が、少し意地悪な顔で言った。もう満腹だと思っていたのに、ビールが進むとなぜか食欲も湧いてきて、ホタテのバター焼きを追加注文した。さすがに少し気まずさを覚え、志季は俯きがちに頷いた。
「よかったねえ?」
「なぁ、悪かったよ」
「別に怒ってねぇよ。その代わり、俺のわがまま聞いてくれる?」
頂上の高台まで登った。有料のエスカレーターがあるとはいえ、江ノ島は起伏に富んだ地形だ。階段や坂道を上り、頂上の展望灯台に辿り着いた時には、ちょっとした登山を終えた気分になっていた。
展望台からは、島全体を一望できた。昼間泳いだビーチも見え、緩やかに弧を描いているのがよく分かった。それから、穏やかな相模湾へと目を向ける。青く光る海の向こうに、富士山の頭が覗いていた。
展望台を降り、パラソルのついたテラス席でソフトクリームを食べた。湘南ゴールドという、地元ブランドのオレンジを使ったソフトクリームがイチ押しのようだった。春介はそれにして、志季はミルクとのミックスを選んだ。濃厚なミルクと爽やかなオレンジが、渇いた喉を潤した。
エスカレーターは上りしかないため、帰りは自力で歩くしかない。島の西側のルートを選び、高台を下った。細く曲がりくねった坂道が続き、それこそ登山道のようだった。草木が生い茂り、木陰に入れば幾分涼しいが、それでもすっかり汗だくになった。かいた汗が、首筋や胸元に落ちて滴った。
時折、岩と岩の間から海が見えた。湘南のビーチと、片瀬浜の漁港が見えた。つい足を止めて眺めた。相模湾なんて小さいものだという先入観があったが、こうして海に突き出た小島から眺めてみると、確かに広大な海の一部なのだということを実感した。
てっきり帰るつもりでいたが、春介が水族館に行きたいと言う。
クラゲの水槽を見た。クラゲの専用展示室を設けたのは、江ノ島水族館が世界初らしい。閉館まで時間があまりないせいか、混雑は回避できた。
青く薄暗い照明が、水槽を照らしていた。壁には大きな水槽がいくつも埋め込まれ、円柱型の水槽や、球体の水槽もあった。透き通った体のクラゲが、ふわふわと傘を動かし、長い触手を靡かせて、水中を漂っている。
宇宙に投げ込まれたかのような、神秘的な空間だった。光るクラゲというのがいて、暗闇の中で体を点滅させるのだった。その小さな瞬きは、電気信号のようでもあり、星の瞬きにも似ていた。こんな生き物が、深海にはうようよ生息しているのかと思うと、途方もない気分になった。
水族館を出ると、ちょうど日没が迫っていた。水族館の目の前は海だ。昼間は海水浴客がひしめき合い、足の踏み場もないほどに賑わっていたビーチだが、今の時間はサーファーくらいしか残っていない。
今日は一日晴れていた。夏ももう終わりだというのに、未練がましく蝉が鳴いて、鋭い日差しが肌を焦がした。溶けたガラス玉のような太陽が、赤くギラギラ輝いて、遠い山並みの稜線をくっきりと浮かび上がらせている。
あんなに青かった海が、今は赤黒く沈んでいる。寄せる波が、夕日に照らされ鈍く光る。波の音だけが、規則正しく繰り返す。
いよいよ、太陽は山の向こうに沈む。隣に座った春介の輪郭が、薄闇の中にくっきりと浮かぶ。潮風が頬を撫でる。砂の上に置いた手に、春介の手が重なった。
心配するな、と春介が言う。西の空で、雲が渦を巻いている。残照によって、赤黒く色を変えていた。
どうして、人を殺そうなんて、考えてしまったんだろう。十五年前のあの夏の日、夜の雑踏の中で、あの男を見つけさえしなければ、その後の人生は違ったものになっただろうか。それとも、今でもあの泥沼から、這い出せずにいただろうか。
それとも、二十年前のあの夏の日。志季がもっと賢く、力があれば、人生は全く変わったものになっただろうか。いくら悔やんだところで、過去は変えられない。時計は決して巻き戻らない。
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