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第二章「傷痕」第二話
死体発見のニュースから数日が過ぎた。あれから、新しい情報は一つも入ってこない。テレビをつければ、やたらとハイテンションな占いコーナーと、視聴者のペット紹介のコーナーがやっている。
「早いね」
あくびを噛み殺して、春介が言った。このところ、志季は目覚ましよりも早く目が覚めていた。
昨晩も、夢を見た。今夜もきっと見るだろう。あの男に犯された時の夢。記憶の奥底に封じ込めていた過去が、鮮明な実感を伴って、足元から這い上がってくる。それはやがて、現実を侵蝕する。現実のこの体までもが、過去の記憶に犯される。
あの日、駄菓子屋で春介と別れた後、あのよそ者の男は言った。この辺りに、放置された温室があるよね、と。そこの持ち主に頼まれて、今度温室を潰して更地にする予定なんだ、と男は続けた。
そんなのだめだ、と思った。あそこは二人の秘密基地だ。二人の手で作り上げた聖域なのだから、と。動揺が顔に出ていたのだろうか。もしかして、大事なものでも隠してるのかな、と男は言った。やたらと冗長な口調だった。
志季は、秘密基地を案内することにした。自分達にとって大切な場所だから、どうか壊さないでほしいと、お願いしてみるつもりだった。このおじさんだって、鬼ではあるまい。一生懸命頼みこめば、せめて中学に上がる前までは、更地にするのを待ってくれるかもしれない。
しかし、それがどれほど楽観的で子供じみた考えだったか、直後に思い知ることになる。
二人の秘密基地に見知らぬ男を連れてくるのは、春介に対して後ろめたい気持ちがあった。入口のカーテンを捲り上げて、中の様子を外から見てもらうだけのつもりだった。男は我が物顔で入り込んだ。
段ボールと毛布を重ねて作った居住スペースは、寝転がっても平気なように、特に綺麗に使っていた。男は土足で踏み荒らした。靴の泥で毛布が汚れた。やめてください、と志季は慌てて駆け寄った。それが運の尽きだった。
ぐるりと視界が反転した。緑に覆われた天井が見えた。木漏れ日が優しく頬を撫でた。男の影が光を遮った。
ここが誰かの持ち物だってこと、分かってるよね。と男は言った。勝手にこんな風にして、本当の持ち主に悪いと思わないの、と続けた。ごめんなさい、と志季は言った。黙っていてほしいなら、分かるよね。と、そう言った男の手は、志季の首筋に触れていた。
男がズボンを脱ぎ捨ててペニスを取り出し、これを舐めろと言った時、志季にはその意味が分からなかった。目の前に突き出されたペニスを見つめてぼんやりしていると、頭を掴まれた。唇を、ぬるりとしたものが掠めた。反射的に、志季はかぶりを振った。いやっ、と男の手を振り払おうとした。パンッ、と横っ面に鋭い衝撃が走った。
視界がぶれて、耳鳴りがした。殴られたと気づいたのは、男のものを口内に受け入れてからだった。汗と垢と小便のにおいがして、今すぐ吐き出したくてたまらなかったが、頭を両手で押さえ付けられていた。
男が腰を振ると、喉が潰れて苦しく、嘔気が増した。それでも、これに耐えれば許されるのだと思って、ひたすら耐えた。ぐっぐっと喉を押され、そしてやがて、青臭く苦い汁が噴き出した。
食道を伝い、胃袋まで真っ直ぐ落ちていく。男の体液が己の体内に入ったのだと、はっきり分かった。
途端に嘔気が込み上げた。地の底からマグマが噴き上げるのに似ていた。胃の奥から胃液が噴き出し、食道を逆流した。
ただでさえ、口の中は男のものに塞がれている。その上、青臭いにおいでいっぱいだ。胃の奥から噴き出したものを、口腔内で収めることなどできるはずもない。口の端からどろりと溢れ、顎まで汚した。
男のものが、喉の奥から抜けていく。志季は這いつくばって嘔吐した。二人で大切に使っていた、春介が母親に内緒でこっそり持ち出した花柄の毛布が、反吐にまみれた。おやつに食べたドーナツと、ソーダアイスの残骸が見えた。
塩辛い反吐と、青苦い精液とに唇を濡らして、それでもまだ、胃の奥が気持ち悪い。這いつくばって息を切らしていると、男の手が体に触れた。
履いていた半ズボンを、下着ごと脱がされた。どうにか這って逃げようとするが、腰が抜けているのか、力が入らなかった。
尻の割れ目に、ぬるついたものが宛がわれる。何をされようとしているのか、理解した時にはもう遅い。めりめり、と肉が裂け、骨が軋み、男のペニスを挿入された。
その先の記憶は、痛いと怖い。それだけだ。恐怖と痛みが、志季を支配していた。男のものが、腹を突き破って内臓を掻き回す。粘膜が切り裂かれる。体が粉々に砕け散る。尻が壊れて、自分のものではないみたいに動いた。
突き上げられる度、嘔気が込み上げた。腹の奥に精液をぶち撒けられ、地面に齧り付いて嘔吐した。それでもまだ、男の手は離れていかない。
ズボンだけでなく、上に着ていたTシャツも脱がされた。引き裂くように引ん剥かれた。男が体を離した一瞬、志季はその場を這い出した。腰が立たなくて、地面を這った。そしてすぐに捕まった。泥の上にねじ伏せられた。
何発か殴打された。志季が痛みに呻いていると、再びペニスを挿入された。もう吐くものもない。少量の胃液と唾液が口の端を伝い、地面に落ちた。
すりガラスの向こうに影が動いた。春介と目が合った──気がした。その瞬間、視界が歪む。熱いものが瞼を押し上げる。男のものが、体の奥で再び弾けた。
無知で無力だったがために、あんな男に犯された。それ自体よりも、春介に見られてしまったという事実が、志季を深く絶望させた。この体が、取り返しのつかないレベルで穢されたことを、春介に知られてしまったこと。それが何よりショックだった。頭を鈍器で殴られたような、頭の奥が揺らいでいるような感覚だった。
あの日、強制的に大人になった。子供時代の志季は死んだ。そして、男としても死んだのだ。あんな男に穢された体で、誰を愛することができるだろう。こんな体を愛してほしいなんて、誰に求めることができるだろう。春介は、全てを知ってしまっているのに。
誰にも言わないで、と志季は春介に縋り付いた。底の方に僅かに残った尊厳を、そうすることでしか守れなかった。この傷を、過去のものにすること。この傷を、二人だけの秘密にすること。そうでなければ、生きられなかった。
自分の声で飛び起きた。滝のような汗をかいていた。全身がびっしょり濡れて、指先まで冷え切っていた。ベッドの隣には、春介がぐっすり眠っている。気持ちよさそうな寝顔を眺め、その頬を指先でなぞってから、志季はベッドを下りた。
今朝の夢は、いつにも増して現実感があった。そんなことあるはずがないのに、あの白濁した液体が、全身に纏わり付いているように感じられた。志季は自らの肩を抱く。自分の体が今ここにあることを確認する。
昨日、帰り道でパトカーを見たからだろうか。マンションの前に停まっていた。思わず引き返したくなるのを堪え、志季はパトカーの脇を通り過ぎた。少しして、ベランダから覗いてみると、パトカーはいなくなっていた。
ニュースにならないだけで、警察はもう自分達に辿り着いているのかもしれない。所詮は高校生の浅知恵で凌いだ犯罪だ。十五年も隠し通せたことが奇跡に近い。
もしも男の身元が割れ、その死に志季と春介が関わっていることが知られたら。警察はすぐに逮捕状を取るだろう。そうなればもう、逃げられない。
何を犠牲にしても隠し通したかった過去が、詳らかにされてしまう。男の身で男に犯されたことが、白日の下に晒される。二人だけの秘密にしようと、あの日固く誓ったのに。再び、二人の秘密が暴かれてしまう。
そうなってしまっても生きていけるほど、志季は強くはない。全てを暴かれるくらいなら、潔く終わりにしよう。そうすることで、僅かに残った尊厳は保たれる。あの男の罪を告白し、そして全ての罪は自分にあると、警察に手紙を書こう。そうしてひっそりと消えるつもりだった。
「どこ行くの」
春介に宛てた手紙をリビングに残し、最低限の荷物だけ持って、靴を履いた。音を立てないよう慎重に鍵を回した時、ぱっと廊下の明かりがついた。春介が立っていた。
「こんなもんで終わりにするつもりかよ」
彼の手には、たった今書き終えたばかりの手紙が握られていた。便箋なんて気の利いたものはなく、メモ帳に書き殴っただけのものだ。春介は、それを丁寧に折り畳み、志季の上着のポケットに入れた。
「俺ってそんなに頼りない?」
「……だって、もうどうしようもねぇだろ」
「道はあるぜ」
春介は、玄関の壁に掛けていた車のキーを取る。
「逃げるなら、二人一緒にだ」
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