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一日目「北へ」第三話
あの男に犯されたのは、小学校最後の夏休みだった。それから数年間は、生きているのか死んでいるのか分からない日々が続いた。もしかしたら、もうとっくに死んでいるのかもしれなかった。魂はどこか別のところにあって、肉体は抜け殻になってしまっているのではないかと。
それでも、怪我をすれば赤い血が出た。寒くすると風邪を引いた。祖母の作るお粥は熱くて、すりおろしたリンゴの甘さを感じる味覚も残っていた。
中学三年の冬に、祖母が死んだ。涙は一滴も出なかった。やっぱり、この体はどこか壊れてしまっているのだと思った。
たった二人の家族だった。物心つく前に母が死に、祖母に育てられた。血縁だけの父親は遠方にいて、生活費だけを送ってくるのだった。
祖母との暮らしは穏やかで、それなりに幸せだったと思う。それなのに、祖母が死んで涙も出ない。自分はもう、人間ですらないのかもしれない。
極限で張り詰めていたものが、一気に崩壊した。もう無理をして笑う必要もない。明日からどうやって生きればいいのか。出口のないトンネルに放り込まれたようだった。
家にいたくなくて、夜の街を彷徨い歩いた。最終列車を逃し、裏通りでうずくまっていたところを、行きずりの男に拾われた。体を売ったのは、それが最初だった。
そんなところにいると風邪を引くよ、とその男は優しく言った。志季が黙って俯いていると、いくら?と聞いてきた。よく分からずにきょとんとしていると、ホテルでいいかと言う。
一万円札を渡された。受け取ると、腕を引かれた。裏通りからもう一本裏道に入ったところに、煌びやかなホテルがあった。連れ込まれ、そして犯された。
二度目のセックスは、大したことがなかった。体は多少痛かったが、元から抜け殻なのだから、痛かろうが穢されようが、どうでもいいことのように思われた。自ら奉仕するわけでもなく、反応も鈍い志季の中で、男は二度も果てた。
追加でもう一枚、一万円札をもらった。寝ているだけで儲かった。
男に抱かれている間は、難しいことを考えずに済むと気がついた。空っぽの心、抜け殻の肉体、取り返しのつかない何もかも。男に抱かれている間は、それら全てを忘れられた。
こうして、自ら泥沼に足を踏み入れたのだった。泥沼で喘ぐことで、生きていることを実感した。刹那の泡沫であっても、空の器は満たされた。もう無理をして笑う必要もなかった。
初めて春介のバイクに乗ったのは、高校に上がって少し経った頃だった。その頃には、男と寝たり体を売ったりすることは、志季にとって日常の一部になっていた。春介は、そんな志季を追いかけて、捕まえて、バイクに乗せて連れ帰ったのだ。
90㏄の中古バイクの乗り心地は、お世辞にもいいとは言えなかった。少しの振動で体が跳ねるし、スチールが剥き出しの荷台はすぐに尻が痛くなった。それでも、志季は春介の背中に身を預けた。夜風を切って、往来のない国道を走る。彼の温もりに触れている間だけは、昔のように息ができた。
春介がなぜ志季のそばに居続けようとしてくれるのか、志季にはよく分からなかった。ただ、彼の存在が志季を現実に繋ぎ止めていたことは確かだった。その細い糸に縋って、志季はようやく息をしていた。
春介に無茶な要求をぶつけては、それでも志季を迎えに来てくれる、夜の街から現実へと連れ戻しに来てくれる、そんな春介の姿に安堵していた。まだ見捨てられていないことを確かめては、安堵していた。
心の空洞を埋めるため、抜け殻の体を泥に沈める。己の醜く爛れた姿を、春介に知ってほしくはない。それは弱さの象徴であり、傷を晒す行為でもあった。しかし同時に、赦してほしいと願ってもいた。
肉体という牢獄を破壊することでしか生きられなかった。そんな志季にとって、それでもそばにいることを選んでくれた春介の存在は、最後に残されたたった一つのよすがだった。
起きろよ、と優しく肩を揺すられる。目を開ければ、知らない町にいた。国道345号の標識が立っている。寝たくないなんて言っていたのに、いつの間にか眠っていた。久しぶりにぐっすり眠った。
どこだよここ、と志季が言えば、春介はもうすぐだからとはぐらかす。瀬波温泉の看板が見えた。一軒の古びた旅館に、春介は車を停めた。
「いつの間に予約したんだ」
「寝てたから、勝手にな。温泉行きたがってたろ」
「いつの話だよ」
「冬とかだっけ? まぁいいじゃん。俺も温泉入りたいし」
旅館の看板が出ていたが、雰囲気としては民宿に近かった。男二人、滑り込みの予約だったにも関わらず、丁寧に応対してくれた。部屋は八畳の和室で、色褪せた畳や建具、古い木造家屋のにおいが懐かしかった。
浴場はそれほど広くはない。昔ながらのタイル張りで、レトロな雰囲気の浴室だった。無色透明で癖のない熱いお湯が、こびり付いた泥を洗い流してくれる気がした。風呂上がりに浴衣に着替えると、気持ちまでゆったりと落ち着いた。
素泊まりでの予約だったため、夕食は近くの居酒屋で食べた。名物の塩引き鮭と、海鮮料理を何品か頼んだ。あまり長居はせず、すぐに宿に戻った。寝る前にもう一度温泉に入り、冷蔵庫に入っていたビールで軽く晩酌をした。
食事に出ていた間に、布団が敷かれていた。隙間を開けて敷かれていた布団をくっつけて横になった。志季は自分の布団をはみ出して、春介の布団に潜り込んだ。彼の手を探り当てて握りしめると、春介が目を開けた。
「しないんじゃなかったの」
「しない」
「くっつきたいだけ?」
「……違う」
「じゃあなんだよ。俺も同じことしていい?」
晩酌中、そういう雰囲気になりかけた。キスをして、ビールくさい舌を触れようとした時、隣の部屋から物音が響いた。ドアの開閉音、廊下を歩く足音が、いやにはっきりと聞こえた。古い木造家屋ゆえか、床は軋むし壁も薄い。
それで、今夜はしないと志季が言ったのだった。春介はすぐに手を引いて、再びグラスに口をつけた。志季が触れるはずだった唇に泡がついた。
それでも、たとえセックスはしないにしても、ただ黙って隣で眠っているだけなんて、もったいなくてできなかった。春介と過ごす時間は、一分一秒だって惜しい。終わりの時は、刻一刻と迫っている。この旅は、当てのない逃避行なんかじゃない。確実な終わりへと向かう、死出の旅路なのだ。
春介が指を絡めてくる。腰に手を回され、抱き寄せられた。志季が身を捩ると、何もしないから、と言う。聞いただけで安心する声で言う。
本当に何もしなかった。二組敷かれた布団のうち、一つの布団だけを使い、二人で身を寄せ合って眠った。その温もりを手放すのが惜しくて、朝風呂は行けなかった。
素泊まりでの予約だったのに、宿の女将さんがおにぎりを用意してくれていた。ありがたくいただいて、車に乗り込んだ。日本海の朝は、東京とは空気が違う。秋の気配が濃くなっていた。
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