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一日目「北へ」第二話
愛車は中古の軽自動車だ。グレーメタリックの塗装は町に馴染む。それでいて頼もしい。荷物を荷室に押し込んで、志季は助手席に、春介は運転席に乗り込んだ。キーを回してエンジンをかけ、ゆっくりと発進する。
練馬のインターチェンジから関越道に乗った。土曜日の昼前とはいえ、夏休み明け最初の週末だ。片側三車線の広い道路が無駄に思えるほど空いていた。これから先の長い旅路を予感させた。
一時間ほど走って、上里サービスエリアで最初の休憩を取った。埼玉県内最後のサービスエリアであり、川を渡ると群馬県に入る。フードコートでカレーを食べ、テイクアウトでコロッケを買って車内で食べた。
遠くへ来たとは思わない。なぜなら、故郷が目の前にあるからだ。
市街地を見下ろす赤城山、榛名山、そして妙義山。その奥に連なる、無数の険しい山々。あのうちのどこかに、十五年前、死体を埋めた。
今はもう、死体は掘り返されてしまった。ブルーシートが敷かれ、規制線でも張られているのだろうか。
そんなことを確認する術もない。故郷の町を横目に眺めて、車は北へ向かって走る。
みなかみ町へ入ると、道は少しずつ険しくなった。車線は減少し、谷間の町を見下ろしながら、山裾を掠めるように道路が走る。
やがて、長い登坂車線に入った。型落ちの軽自動車は、苦しそうにエンジンを唸らせる。春介はクラッチを踏み、シフトレバーを低速に叩き込む。車はゆっくりと、しかし確実に、坂道を上っていく。
志季は、ミラー越しに後ろを振り返った。黒々とした山々が連なっているのが見えた。
ここはもう群馬の最北。関東の果てだ。たった今走り抜けてきた故郷の町は、あの山の遥か後方にある。あの懐かしい廃温室も、男の死体も、あの黒い塊の向こうに置いていく。
美しかった過去も、おぞましい記憶も、泥の中に沈めてきた。もう決して、振り返らない。
登坂車線を上り詰めた。二人の男を乗せた小さな箱は、深く長いトンネルへと吸い込まれた。
群馬と新潟を隔てるように横たわる、標高1977メートルの谷川岳。この長く険しい山脈の真下をくり抜いて作られたのが、全長11キロメートルに及ぶ関越トンネルである。山岳道路トンネルとしては、日本最長を誇っている。
スピードを保ったまま、滑り込むようにしてトンネルに入る。ナトリウム灯に照らされて、車内は夕暮れのようなオレンジ色に染まった。
無骨なコンクリートの壁に、ナトリウム灯が等間隔で延々と並ぶ。このまま地底まで連れていかれそうだった。エンジンの回転音と、車体の風切り音が響く。路面の継ぎ目を越える度に、緩い振動が突き上げる。その揺れに、懐かしさを覚えた。
「国境の長いトンネルを抜けると……」
志季は、有名な小説の書き出しを口ずさんだ。何だっけそれ、と春介が言う。下り坂に入ったためか、春介の左手はシフトレバーに乗せられている。川端康成の雪国だ、と志季が答えた。なるほどねと、春介はぴんと来ていない様子で答える。
「その長いトンネルってのが」
「あっ分かった。今通ってるやつってことか」
「と言いたいところだが、上越線の清水トンネルらしい」
「なんだそりゃ」
「まあ、同じようなもんだろ。雪国の舞台は、越後湯沢だって話だからな」
前方に白い光が見えてくる。オレンジの照明に慣れた目には、一際眩しく映った。その光はみるみるうちに大きくなり、スピードに乗った車体ごと、光の中へと飛び込んだ。
県境のトンネルを抜けても雪国ではない。何しろ、今はまだ九月だ。いくら何でも降雪には早すぎる。しかし、窓を開けると、高原特有の水分を含んだ瑞々しい空気が流れ込んできた。
振り返れば、高い山がそびえ立っているだけだ。四方どこを見回しても、険しい山に囲まれている。
とうとう関東を脱したのだと実感した。ここは北陸、日本海側。故郷の町も、東京の下町も、あの鋭い山の裏側だ。気の遠くなるような、深く長いトンネルを抜けて、彼岸へと渡った心地がした。
長かった下り勾配が終わり、麓の町が見えてくる。次のサービスエリアで運転を代わろうかと志季が言うと、いいからそこにいろよと春介は言った。
「お前の運転、不安なんだもん」
「下手って言いたいのか」
「よくエンストすんじゃん」
「……何もしないと眠っちまいそうなんだよ」
「遠慮しないで寝とけ」
「寝たくねぇ」
「なんでだよ、眠いんだろ」
春介はカーラジオのスイッチを入れる。チューニングダイヤルを回すと、しばらくノイズが走ったのち、音楽が流れた。
ピアノとギターのイントロを聞いただけで分かる。平成中期、二人がちょうど高校に通っていた時代に大流行していたポップソングだった。街へ出れば聞かない日はなかった。愛と青春を歌った、普遍的なラブソングだ。
道路のジョイントを拾う振動が伝わる。春介のかつての愛車だった、90㏄の中古バイクの乗り心地を思い出した。
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