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第二幕「逃亡」一日目「北へ」第一話
ダイニングテーブルに、細かい傷がいくつも残っている。中央には丸い焦げ跡がある。昔、熱した鍋を直接置いて、机を焦がした。
「そろそろ行けるぜ」
春介が扉の向こうから言った。志季はダイニングテーブルに腰掛けたまま、生返事をした。
ダイニングルームのカーペットは、ここへ引っ越す前から使っていたものだ。色褪せて、へたっていた。縫い目がほつれて毛羽立っている。
カーテンは、ここへ越してきて買い替えた。初めは、前のボロアパートから持ってきたのをそのまま使っていたが、丈が足りないのが気になって、買い替えた。
レースカーテンをつけたいと春介が言った。ドレープカーテンだけで十分だと志季は言ったが、あれこれと理由をつけて説得された。視線を遮りつつ日光を取り入れられるし、断熱効果もあってUVカットもできて、何より見た目が綺麗だと。
窓を開けると、そよ風にレースが舞い上がる。春介には言わないが、その柔らかな空間に青空が覗く光景を、志季は密かに気に入っていた。昼寝から目覚めた時にそんな景色が目に入ると、優しい気持ちになるのだった。
今、カーテンは閉め切られている。そして、おそらく二度と開くことはない。全ての部屋の窓を閉め、カーテンを引いて、今日この家を捨てるのだ。
ついこの間まで、二人で並んで映画を見ていた、三人掛けのシンプルなソファ。春介は、時折ソファに横になり、志季に膝枕をねだってくるのだった。映画中でも読書中でも、コーヒーを飲んでいる時でも。
長い足を折り畳んで横になり、志季の膝に頭をもたれてくる。頭を撫でてやると、満足そうに笑う。手が疲れて撫でるのをやめると、もっとやれとせがんでくる。力が強いとか場所が違うとかうるさいので、鼻を摘まんで黙らせる。そのうち大人しくなって、目を瞑ってしまう。静かになった春介を撫でながら、志季もソファにもたれて目を閉じるのだ。
寝室のほぼ半分を占めている、二人で汗だくになって組み立てた、クイーンサイズのベッドも。あらかた組み立て終わってから部屋のレイアウトを考えたので、完成したベッドフレームを二人で四苦八苦して運んだのだった。
引っ越してきた当初は、前のアパートと同様、カーペットに布団を敷いて寝ていた。ダブルベッドにするかクイーンサイズにするか、決めかねていたのだった。
毎週末インテリアショップに通い詰めて吟味した。試しに二人で寝てみて、寝返りを打ってみたりして、男二人ならクイーンサイズがベターだろうということに落ち着いた。マットレスも枕も、なるべく体に合うものを選んだ。
あれから十年だ。乱暴な使い方をしたこともあったが、ベッドはいまだ壊れることなく、毎晩快適な眠りを提供してくれた。ベッドもソファも、まだまだ現役で使えるのに、今日、全てを手放すのだ。
「志季?」
春介が扉を開ける。ダイニングテーブルに座り、焦げ跡をなぞっている志季を見て言った。
「今日じゃなくてもいいんだぜ」
「……いや、いいんだ」
今日じゃなくてもいい。でも、いつかはこうしなくてはならない。いつかこんな日が来ることは、この生活を始めた時から分かっていたことだ。それが、たまたま今日だったというだけ。だから、今日でいいのだ。
志季は立ち上がり、荷物を詰めたボストンバッグを肩に掛ける。必要最低限のものしか入れなかったはずなのに、カバンは驚くほど重かった。
いつかこんな日が来ると分かっていたから、極力、持ち物は増やさないようにしてきたつもりだった。それなのに、この家には至って普通の生活感がある。
食器棚には、ペアのグラスやマグカップが並ぶ。初めてペアで買った湯呑み茶碗は、一度割ってしまったが、金継ぎをして大切に使っていた。
キッチンには一通りの調味料が並び、壁にはお玉やフライ返しが掛かっている。朝晩使う電気ケトルは最新式の大容量のものを、オーブンレンジはデザインに惹かれてバルミューダを買ったのだった。
小物を仕舞った引き出しの上には、いつかのクリスマスに春介が買ってきた、スノードームが光っている。それから、これもおそらく春介が何かのイベントで買ってきた、多肉植物の小さな鉢植えが置いてある。紫を帯びた薔薇のようで美しく、志季の方が熱心に世話をしていた。
その隣には、卓上カレンダーが置いてある。先週の土曜日には貝殻のシールが貼ってあった。今日の日付に印はない。
車のキーを手に取って、春介は玄関を開ける。志季も靴を履き、最後にもう一度、家の中を振り返った。十年を暮らした、懐かしいものしかない、愛しい我が家だ。今日が見納めになる。
鈍い音を立てて、扉が閉まる。冷たい音を立てて、錠が掛かる。春介は、郵便受けの隙間に家の鍵を滑り込ませた。鍵の落ちる硬い音が響いた。
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