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第1話
⚪︎ 我妻椿
獅子雄と殺し合ったあの日から、まもなく二ヶ月が経とうとしていた。
あの日あったことは全て幻だったみたいに、あまりに何事もなく、平穏な暮らしをしている。求めればすぐに応えてくれる獅子雄の体温がすぐそばにあって、それだけで満ち足りているはずなのに、けれどどうしてか、夜が訪れるたび、俺は寝ている獅子雄の衣服をめくり、ケロイド状になった腹の傷跡を執拗に確かめるようになってしまった。薄く真新しい皮膚のつやつやとして柔らかな手触り、鮮やかな淡紅色のそれに、つい恍惚とした吐息が漏れる。腹の底が熱く沸騰し、喉が引きつり鼻の奥がつんとする。それを押し殺すように、脱力した獅子雄の手を持ち上げ、自らの腹に寄せた。俺の腹に刻まれた獅子雄と同じそれを、獅子雄の指先で確かめさせて、薄暗闇に青白く浮かび上がる美しい寝顔を眺め、堪らなく愛おしい気持ちが溢れて、胸が押しつぶされて苦しくなって泣きたくなって、もうどうしようもなくなってしまう。獅子雄はきっと起きているだろうに、このときだけは寝たふりを決め込むのだ。なんて愛おしい、頭から爪先まで、余さず食べてしまいたい。
獅子雄の胸に頬を寄せ、心臓の鼓動を感じながら背中に手をまわす。そしてまた、そこに存在する、獅子雄が俺のものである証を指先で撫で、脚を絡ませる。白みはじめた空を背中で感じながら、少しの隙間も許さず獅子雄に密着する。もうずっと、どこへも行かないでほしかった。
次に目覚めると、太陽は完全に真上にあった。隣にいた獅子雄はいなくなっていて(きっと出かける前に俺のひたいにキスをしたに違いない)、その寒々しさにぞくぞくと背筋が粟立った。
「エティ、マリア」
ちいさな声だったとしても、呼べば数秒とせずこちらへ向かう足音が聞こえる。どうしましたか、と花のように可愛らしいメイドたちの顔がこちらを覗き、ほんの束の間安堵に満たされ、俺は思わず破顔する。きょうは何して遊ぼうか、などと言ってしまいたいほどに。この生活を、この屋敷の住人を、深く愛している。
けれどその日、獅子雄はなかなか帰ってこなかった。夕方、遅くなる、とだけメッセージを残し、そこから音沙汰がないまま午前二時をまわった。外から、ブルル、と聞き慣れないエンジン音が聞こえ、それに呼応するように部屋の前を慌ただしく通り過ぎる控えめな足音に身を起こす。恐る恐る自室の扉を開けると、ちょうどエティが目の前を横切るところで、はっとした顔で俺を捉えた。
「起きてらっしゃったんですね」
ふとエティの隣に視線を流すと、いつものメイド服を脱ぎ捨て、全身黒のぴったりとしたレザーのボディスーツに身を包んだマリアが立っていた。不自然に俺から目を背けたその手には、布に巻かれた長い棒のようなものを携えていた。
「どこへ行くの」
狼狽したように後ずさりするマリアに、行って、とエティが促す。正面玄関の扉の外から、ブブブブとエンジンを吹かす音がする。まるでこちらに呼びかけるように。マリアは駆け足で屋敷を飛び出し、開いた扉のその隙間から、大きなバイクに跨る蛇岐の姿が見えた(フルフェイスのヘルメットを被ってはいたが、あの立派な体躯は蛇岐以外にあり得ない。なぜなら奴の身長は二メートルもあるのだ)。マリアがひらりと蛇岐の後ろに飛び乗ると、受け取ったヘルメットをかぶる間もないままバイクは風を切って駆け出した。残された俺とエティのあいだに、冷たい沈黙が漂う。息苦しい。しばらくの静けさのあと、お茶でもしましょう、とエティが呟いた。誘うというにはあまりにそっけない、俺の目も見ず、ほんとうに独り言のように、まるでそうするしかないとでもいうように。
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