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8話「欠席」side高月
教室に入ってみると、いつもの風景から何かが欠けている。
あるべきはずの存在がない。それは即座に違和感として認識される。
俺は引っ掛かりを覚えつつも、自分の椅子に腰を下ろした。
そしていつも通り、視界に入る斜め前の席……。あ。
「あれ。伊原休みか?」
不思議に思い、前の席の男子……香里(こうり)に訊いてみた。モサモサ髪にデコ出しスタイルの、無気力な雰囲気の男だ。
そいつはいったん振り返って、俺と同じように伊原の席のほうを見る。
「んー、来てないなら休みじゃないんすかねー」
そう言って香里はキョロキョロと辺りを見回す。
おーい、情報が増えてないぞ。
伊原に興味ないんだろうなあ、と呆れつつ、俺は鞄を横のフックに掛ける。
仕方ない。伊原の出欠についてはホームルームで明らかになるだろうし、暇潰しに本でも読むか。
そこで俺は、図書室からずっと借りっぱなしのラノベを机から取り出した。……いい加減これ読まないとな。
図書室の本は基本的に机の中に入れっぱなしにしている。持って帰ると間違いなく読まないからだ。
これをハムに言ったら、「普通逆じゃない?」と半目で突っ込まれた。
いやいや。家というプライベートな空間では、読書や勉強はびっくりするぐらい身が入らないものだ。スマホやPC、ゲームなど、周囲に誘惑物が多すぎるのがいけないとみている。
そう反論したら、ハムは「環境の影響受けやすいんだねー」なんて呑気な口調で言う。
……ハムはどこでも勉強できるタイプ? と訊いたら、「うん、体調によるけど」と返してきた。
対して俺の集中できる環境とは、ある程度人目があって、気が引き締まる場所なんだろうな。
こればっかりは個性だから仕方ないが、どこでも生産的なことができるハムが羨ましい。
俺は黙って活字を追う。ふむふむ。
今読んでいるのは、初登場した美少女と主人公の馴れ初めの場面だ。これがメインヒロインだな。
無愛想で、口が悪いツンデレ。
そしていつも孤独な深窓の令嬢。
そんな少女に鈍感系主人公がアプローチする……というベタな出だしだった。
でも、ある意味ベタだからこそスラスラ読める。
読みやすさもあって、ページをめくる手が止まらない。
俺にしては珍しい感触だ。
だが、そんな俺を茶化すように、前のやつがまたなんか言ってきた。
「なにそれ高月ー。エロいの読んでるんすか?」
ニヤついた表情を浮かべ、俺の読んでいる本の表紙を覗き込もうとする香里。
「は? エロくねえし!」
ムカついて反射的に否定する。そして証明するように、あえて表紙を見せつける。
まあ、確かにラノベの表紙って際どい雰囲気のものも多いし、そういうイメージを持たれるのも仕方ないか。だけど決めつけられていい気分はしないな。
……待て! まだ読んでないけど、本編でエロいシーンとか出てこないだろうな……。メインヒロインと主人公がこう……。期待していいのか、これ。いや何考えてんだ!
香里は気が済んだのか、「はえー」とだけ言って前を向いた。なんなんだ。
まあいい、続行だ。
そう仕切り直して、再び本を開く。
えーと、どこまで読んだっけか。
■
さっきまでの晴天などなかったことにする勢いで、分厚い雲が空を流れていく。それと同時に、冷たい風が肌を撫でる。
危うげな空に急かされ、俺はキリキリと音を立てながら、早歩きで自転車を押していた。
普段なら絶対に通らないであろう、入り組んだ住宅街に足を運んではや十分。ここは俺の下校ルートから完全に外れているので、勝手がわからない。
なぜここにいるのか。
それは、体調不良で欠席した伊原のお見舞いのためだ。
お見舞いといっても、そんな甲斐甲斐しいもんじゃない。ちょっと顔を見られたらいいか、ぐらいの考えだった。
朝のホームルームで伊原の欠席を聞かされたときは、少し驚いたものだ。今まで一回も休んだことがなかったから。伊原、皆勤賞逃したりして。
珍しい出来事だったから、俺はあとで先生に訊いてみた。
まあ、結局プライバシーだからって細かい状況は教えてくれなかった。うつるような病気ではないらしいが……。
そこで俺はふと、ライヌ(チャットアプリ)のクラスグループの存在を思い出す。
……確かに、あの画面から伊原のアカウントは辿れる。
連絡先を交換さえできれば安否確認も容易いし、今後何かと便利になるはずだ。
だけど勝手に友達追加なんて、気色悪がられるだろうなあ。詮索すんなって怒られそうだ。
しばらく悩んだ末、俺は放課後に直接訪問することにした。
ハムにそれを言ったら、「僕も行こうかな」なんて言ってニコニコしてた。部活はどうしたよ、ってジト目で返せば、「ああ、そうだね」と笑ってた。
ハムも行きたいんだな……伊原ん家に。
だが友達とはいえ、二人も家に押しかけたら、伊原はきっとビビると思うんだよな。二人同時じゃなくても、新規の訪問者なんて負担が無駄に増えるだけだろうし。
……そして今に至る。
さて。問題の伊原の家なんだが、大体の位置は把握しているのに、まだ辿り着けていない。
前に一緒に帰ったとき、「家がこの辺で……」と伊原の口から情報が出たんだ。一軒家とも言っていた。
そして別れるとき、開けた国道から住宅街へ潜っていった背中を見届けている。
俺はそこから歩いていける範囲で「伊原」の表札を見つければいいと思っていた。
だが、見通しが甘すぎた。
歩いても歩いても見つからない。
「伊原」という文字が。
違う表札を見るたびに、いらねえよ今そういうのは! って文句を言って、勝手に萎えまくってる。
くそ、疲れてきたぞ……。天気悪いし。
今日がジムの日じゃなくてよかった。
そこで、自転車のタイヤが段差の溝らしきものに引っ掛かる。そのままバランスを失った自転車は、あえなく道端に倒れてしまった。ガシャン、と不快な音が耳につく。サドルをしっかり握っていなかったのが仇になった。
そんな俺に追い打ちをかけるように、腕にポツポツと水滴が落ちてきた。雨の始まりだ。
舌打ちしたい気分だった。
自転車を起こさないと。前カゴから飛び出た鞄は、幸いにも中身をぶちまけずにいてくれた。その鞄も拾わないとな。
しゃがみ込み、まず鞄を確保する。次に、倒れた自転車のハンドルとサドルも掴む。
その間にも雨脚は強まり、俺を容赦なく濡らしていく。
ああもう、空が憎い。
そう思って、仰ぎ見ようと顔を上げた瞬間。
薄黄色の何かが視界を遮った。バラバラと、雨粒が打ち付ける音がする。
傘……?
「何してんの」
薄黄色の傘の下に、伊原の顔があった。その顔はドン引きしたようにこわばり、目を細めている。
伊原はパジャマのまま、傘を俺の頭上に差し出しているようだ。
「なっ、いっ、伊原! どっから来た、お前ぇ!?」
「来たも何も……ここ、俺の家の前」
そう言って、すぐ近くの住宅を顎で指す。二階建ての小さめの家。表札は……いや、文字小せえよ……。気づかねえよ。
「家の近くで何してんの」
もう目が、不審者を見るソレだ……。
「い、いや、あの……あっ、自転車……」
何かを弁解したいが、まず自転車だ!
俺はハンドルを引っ掴み、自転車を一気に起こす。
その際、俺の体は傘からはみ出したが、伊原は追従するように傘を動かしてくれた。
その行動に、先ほどまで冷えていた胸の内が、ほんのり温かくなった。ような気がする。
だが内側が温まったせいか、今度は体の外側の冷えが急に感じられるようになる。
俺はそんなことを悟られまいと、伊原にへらっと笑った。
「はは、さんきゅーな」
伊原は眉間に指を当て、考え込むように目を閉じる。
やがて、呆れたように提案してきた。
「雨だし、一旦上がっていったら」
■
「馬鹿なの」
……はい、俺は馬鹿です。
家に上がらせてもらってからの第一声がこれ。だが反論できない。あまりに格好がつかなさすぎるぞ、俺。
「ごめん伊原……ちょっと、その、見舞いということで来ちまって……途中で迷ったというか……」
俯いてモゴモゴと言い訳をする。情けない。
引き続き伊原に謝り続ける。
彼はまず病人だ。雨の中、外に出させて無理をさせたかもしれない。
伊原の負担を軽くしようと考えていたのに、いつの間にか自分が負担になってどうする、と内心、自分を殴りたくなった。
そんなわけで、申し訳なさのあまり、俺は伊原宅のリビングで正座を崩せずにいる。床に直で、だ。
うなだれる俺に、伊原が何かを持ってきてくれた。
「これ」
「ん?」
その声に顔を上げる。
差し出されたのは、バスタオルだ。少し柄はあせているが、なんかのキャラものっぽい。
「あのー」
「拭いて。まだ頭濡れてるでしょ」
「い、いや、でも」
「早く」
慌てて受け取る俺。玄関先である程度の水滴は自前のタオルで拭ったのだが、髪はまだ水分が抜けきっていない。
「ごめん。ありがとう」
そう言って恭しく受け取り、俺はそれで頭を覆う。
洗剤のいい匂いが僅かにする。
というか、このバスタオル、伊原が使ってるやつだったりするかな。
「別にいい。父さんのだから遠慮なく使っていい」
なんだよ、父親のかよ。
いや、父親のものでも遠慮はするだろ。
なんかモヤついた俺は、ゴシゴシと髪を拭いていく。
やがて伊原は、リビングのソファに腰掛けた。床で正座している俺はというと、正直、足が痺れてきた。
それもまた察した伊原が言う。
「いつまで正座してるの」
正座する俺の真横で、淡々とツッコミを入れる。
「す、座っていいかな……」
伊原の隣に目をやりながらねだる。
「座れば」
そう言って、肘掛けに肘をつく伊原。
俺はゆっくりとした動作で遠慮がちに立ち上がり、隣に腰掛けた。
そしてようやく体の力が抜けてきたのか、俺は息を吐いた。
遠くで、ゴロゴロと雷の音がする。
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