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第1話 再会

研究棟の廊下は、音が吸われるように静かだった。 白い床とガラスの壁がまっすぐに続き、歩くほど足音は薄くなる。人の声も機械の低い稼働音も反響せず、奥へ進むにつれて輪郭を失っていった。 エントランス奥のディスプレイには、《Human Pre-Reaction Disturbance Symposium》の文字が浮かんでいる。 その下に、一人の名前があった。 Tomoya Kirishima. 榊悠司は足を止めなかった。 そのまま通り過ぎたつもりだったが、歩幅だけがわずかに遅れていた。 受付を抜けると、若い研究員が頭を下げる。 「おはようございます。榊先生」 「おはよう」 返した声はいつもと変わらない。温度も速度も同じだった。 ただ、ポケットの中の指先が少し硬くなっている。 それを自覚した榊は、表情を動かさないまま会場へ向かった。 扉の向こうには、段差のある半円形の座席と、中央の簡素なステージがある。スタッフが機材を確認し、スクリーンには調整用の画面が映っていた。本番前の白い照明が、舞台を浅く照らしている。 その中央に、桐島智也が立っていた。 黒のジャケットに、余計な装飾はない。まだ照明にも役にも何も乗せていない、ただそこに立っている姿だった。 目が合った。 智也の目元がわずかに緩む。 榊は先に視線を外した。 それだけのことなのに、胸の奥には小さな引っかかりが残った。 やがて司会の声が会場へ広がる。 「本日は、Aurora理論における揺れと身体反応の接続を確認するため、特別実演を行います」 智也はマイクを持たず、ステージの中央で息を吸った。 その動作だけで、会場の空気が静かに変わる。 始まった声は英語だった。 発音は整いきっていない。語尾にも母語の痕跡が残っている。それでも声には迷いがなく、言語としての正確さより先に、呼吸と身体が意味を運んでいた。 榊は席に着き、腕を組む。 朗読と呼ぶには足りない。 実験と呼ぶにも違う。 どちらかへ分類した瞬間、何かを取り落とす気がした。 台詞の途中で、智也の声がわずかに切れる。 崩れたのではない。 呼吸が落ちる場所を、身体が先に選んだ。 スクリーンには波形が浮かび、呼吸へ入る前の揺れと、迷いが生まれる直前の速度が記録されていく。 榊は波形から智也へ視線を移した。 K-lineと重なる。 そう考えて、すぐに違うと気づく。 重なっているのではない。 身体が先に行っている。 理論の方が遅い。 ポケットの中で、指先を握る。 智也は崩れていない。 整いきってもいない。 揃っているように見える声の奥で、ごく小さな乱れだけが残り続けている。その揺れが、会場の白い空気の中へ薄く広がっていた。 実演が終わると、静かな拍手が起こった。 続いて質疑応答へ移る。 ステージ脇には通訳が立っていた。実演中は入らなかった声が、ここから智也と研究員たちの間を繋ぐ。 「理論を理解した上で演じているのですか?」 英語で質問が投げられる。 通訳が智也へ視線を向けたが、その前に智也は意味を拾ったらしい。少し考えてから、自分の言葉で答えた。 「理解してるって言われると……ちょっと違いますね」 言葉に詰まったところだけ、通訳が短く補う。 智也は頷いた。 「でも、揺れは分かる気がしています」 柔らかい声だった。 会場が静かになる。 「理論は、あとからついてくる気がします」 智也が小さく笑う。 榊はその姿から目を離せなかった。 否定ではない。 挑発でもない。 それでも、その声は理論より前に立っていた。 意味は分かる。 だからこそ、簡単には納得できなかった。 質疑応答が終わると、人がゆっくり動き始めた。研究員たちは波形を見ながら言葉を交わし、関係者は資料を手にステージ脇へ集まっていく。 そのざわめきの向こうで、智也がこちらを見た。 今度は榊も視線を外さなかった。 数メートルの距離を智也が歩いてくる。榊の前で足を止め、一歩分の余白を残した。 「久しぶりだ」 落ち着いた声だった。 押してこない。 近づきすぎない。 けれど、遠ざかるつもりもない。 榊は頷く。 「ああ」 その先の言葉が出てこなかった。 智也が少し首を傾ける。 「元気そうでよかった」 「お前は」 「まあ、立ってる」 先に返され、智也が小さく笑った。 榊はその笑い方を知っている気がした。 同時に、知らないものを見ているようでもあった。 「まだ揺れを研究してるのか」 「お前はまだ、揺れを止めないな」 智也の目が少し細くなる。 「止めたら、たぶん俺じゃなくなる」 軽く聞こえる声だった。 けれど、さっき見た波形を知ったあとでは、その言葉まで軽くは聞こえない。 声が切れた場所。 呼吸が落ちた場所。 乱れても、崩れなかった場所。 智也は、それを榊に見られたことに気づいている。 気づいたうえで、隠そうとしていなかった。 榊には、その態度が少し厄介だった。 まだ整理できない。 智也が言う。 「夜、時間あるか」 榊はすぐには答えなかった。 「公演あるんだけど」 強く誘う声ではない。 ただ、選べるように置かれた言葉だった。 研究でもいい。 観測でもいい。 身体的実装の確認でもいい。 理由なら、あとからいくらでもつけられる。 けれど榊は、その理由を探すより先に、自分の中へまださっきの波形が残っていることに気づいていた。 スクリーンはもう消えている。 それでも、声の切れ目だけは残っている。 「何時だ」 「二十時」 「行く」 智也はそれ以上踏み込まなかった。 「じゃあ、あとで」 二人はそこで別れた。 白い廊下を歩きながら、榊はポケットの中で指先を握る。 理由はまだ言葉にならない。 ただ、理論より先に立った声だけが、音を吸うはずの研究棟の奥で、まだ静かに残っていた。

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