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第2話ㅤ暗転 ― 客席の温度

劇場は、低い天井の建物だった。 黒い梁と黒い壁が奥まで続き、床も客席も、光を吸うように沈んでいる。客席は百もなく、可動式の椅子が等間隔に並び、舞台との境界も曖昧だった。 派手なポスターはない。 ロビーに貼られた小さな紙にだけ、文字がある。 Untranslatable Voice Tomoya Kirishima 榊は最後列に座った。 背もたれに深く寄りかからず、前のめりにもならない。重心だけを真ん中に置く。 研究所とは違う空気だった。 ここにはスクリーンも、波形も、記録用の機材もない。数式の代わりに、暗さと呼吸がある。 照明が落ちると、客席の空気も静かに沈んだ。 その沈み方で分かる。 今日の客席は深い。 舞台に足音が落ちる。 智也が立っていた。 黒い衣装。装置もマイクもない。何も足されていない身体だけが、暗さの中央に置かれている。 最初の呼吸が客席へ届いた。 それだけで、空気の輪郭が変わる。 榊の背筋がわずかに伸びた。 壁際に字幕が浮かび、英語訳が少し遅れて追っていく。だが榊は見なかった。言葉の意味を拾うより先に、声がどこへ置かれるのかを聞いていた。 低い声だった。 揺れていないように聞こえる。 けれど、固定されているわけではない。 細い揺らぎが残っている。乱れでも、制御でもない。声の底に残された、人の呼吸の幅だった。 研究所で聞いた声とは違う。 あの場では、智也は実験の中に立っていた。理論の横に置かれ、観測される身体として声を出していた。 ここでは違う。 智也は観測されるために立っていない。 ただ、舞台にいる。 台詞が進む。 意味のすべてが榊へ届くわけではない。いくつかの言葉は取りこぼす。それでも、声が運ぶ震えだけは確かに届いた。 観客の呼吸が、少しずつ揃っていく。 榊はK-lineを当てはめかけ、途中でやめた。 波形へ置き換えれば、見えるものはある。呼吸の前振れも、揺れの発生点も、測定できるものは残る。 けれど、それだけでは足りない。 足りないと分かってしまうことが、少し嫌だった。 智也の視線が客席を横切る。 誰かを探しているわけではない。特定の一人へ向けられたものでもない。 それなのに、榊は自分を見られたように感じた。 胸の奥が静かに強く打つ。 声が空間を押し広げていく。 狭いはずの劇場が、少しずつ奥行きを変えていく。壁の位置も天井の低さも変わらないのに、舞台の周囲だけが別の距離を持ち始めていた。 智也がそこに立つだけで、場所の意味が変わる。 榊の指先がゆっくり握られた。 嫉妬ではない。 羨ましさとも違う。 悔しさなら、もっと扱いやすかった。 自分の中にないものを見ているのだと、榊は思う。 だが、本当にそうなのかは分からない。 ないと思っていた場所へ声が触れ、その場所が遅れて熱を持つ。 その感覚が、いちばん扱いにくかった。 舞台の上で、智也が止まる。 沈黙が長く続いた。 客席が息を止める。 榊も同じように止めていた。 智也は守られずに立っている。 照明にも、音響にも、説明にも寄りかからない。ただ一人で、暗さの中に立っていた。 強い。 そう思った瞬間、その強さが少しだけ怖かった。 最後の台詞が落ちる。 声はすぐには消えず、舞台の上に残ってから、客席の暗さへ溶けていった。 拍手が起こる。 静かで、深い拍手だった。 熱狂ではない。押し寄せるものでもない。観客がそれぞれの場所で受け取ったものを、少しずつ返しているような音だった。 榊は立たなかった。 最後まで座ったまま、その音を聞く。 智也が礼をし、顔を上げる。 その視線が、客席の奥へ向けられた。 榊は、目を逸らさなかった。 拍手が収まり、観客がゆっくり流れ出していく。席が空になってから、榊は立ち上がった。 ロビーは石造りだった。 小さなバーからワインの匂いが流れ、低い話し声が重なっている。舞台を見終えた人々の体温が、狭い空間にまだ残っていた。 その流れの向こうに、黒い衣装の背中が見える。 桐島智也だった。 まだ完全には、素の顔へ戻っていない。 智也が振り向き、榊を見る。 今度は、どちらも逸らさなかった。 智也が小さく息を吐く。 「……来てたんだな」 舞台の声ではなかった。 榊は頷いた。 「行くと言った」 智也が少し笑う。 「律儀だな」 言葉が途切れた。 どちらも舞台の話はしなかった。 話せば、何かが固まる。 まだ名前をつけるには早かった。 智也が顎で外を示す。 「外、出るか」 榊は頷いた。 智也が着替えて戻るまで、榊はロビーで待っていた。 二人は劇場を出た。 外の空気は冷たかった。 歩き始めてから、榊は気づく。 智也は半歩先へ行かない。 榊も、半歩後ろへ下がらない。 白い研究棟では測れなかった距離が、黒い劇場の外で、ただ並んでいた。

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