2 / 7
第2話ㅤ暗転 ― 客席の温度
劇場は、低い天井の建物だった。
黒い梁と黒い壁が奥まで続き、床も客席も、光を吸うように沈んでいる。客席は百もなく、可動式の椅子が等間隔に並び、舞台との境界も曖昧だった。
派手なポスターはない。
ロビーに貼られた小さな紙にだけ、文字がある。
Untranslatable Voice
Tomoya Kirishima
榊は最後列に座った。
背もたれに深く寄りかからず、前のめりにもならない。重心だけを真ん中に置く。
研究所とは違う空気だった。
ここにはスクリーンも、波形も、記録用の機材もない。数式の代わりに、暗さと呼吸がある。
照明が落ちると、客席の空気も静かに沈んだ。
その沈み方で分かる。
今日の客席は深い。
舞台に足音が落ちる。
智也が立っていた。
黒い衣装。装置もマイクもない。何も足されていない身体だけが、暗さの中央に置かれている。
最初の呼吸が客席へ届いた。
それだけで、空気の輪郭が変わる。
榊の背筋がわずかに伸びた。
壁際に字幕が浮かび、英語訳が少し遅れて追っていく。だが榊は見なかった。言葉の意味を拾うより先に、声がどこへ置かれるのかを聞いていた。
低い声だった。
揺れていないように聞こえる。
けれど、固定されているわけではない。
細い揺らぎが残っている。乱れでも、制御でもない。声の底に残された、人の呼吸の幅だった。
研究所で聞いた声とは違う。
あの場では、智也は実験の中に立っていた。理論の横に置かれ、観測される身体として声を出していた。
ここでは違う。
智也は観測されるために立っていない。
ただ、舞台にいる。
台詞が進む。
意味のすべてが榊へ届くわけではない。いくつかの言葉は取りこぼす。それでも、声が運ぶ震えだけは確かに届いた。
観客の呼吸が、少しずつ揃っていく。
榊はK-lineを当てはめかけ、途中でやめた。
波形へ置き換えれば、見えるものはある。呼吸の前振れも、揺れの発生点も、測定できるものは残る。
けれど、それだけでは足りない。
足りないと分かってしまうことが、少し嫌だった。
智也の視線が客席を横切る。
誰かを探しているわけではない。特定の一人へ向けられたものでもない。
それなのに、榊は自分を見られたように感じた。
胸の奥が静かに強く打つ。
声が空間を押し広げていく。
狭いはずの劇場が、少しずつ奥行きを変えていく。壁の位置も天井の低さも変わらないのに、舞台の周囲だけが別の距離を持ち始めていた。
智也がそこに立つだけで、場所の意味が変わる。
榊の指先がゆっくり握られた。
嫉妬ではない。
羨ましさとも違う。
悔しさなら、もっと扱いやすかった。
自分の中にないものを見ているのだと、榊は思う。
だが、本当にそうなのかは分からない。
ないと思っていた場所へ声が触れ、その場所が遅れて熱を持つ。
その感覚が、いちばん扱いにくかった。
舞台の上で、智也が止まる。
沈黙が長く続いた。
客席が息を止める。
榊も同じように止めていた。
智也は守られずに立っている。
照明にも、音響にも、説明にも寄りかからない。ただ一人で、暗さの中に立っていた。
強い。
そう思った瞬間、その強さが少しだけ怖かった。
最後の台詞が落ちる。
声はすぐには消えず、舞台の上に残ってから、客席の暗さへ溶けていった。
拍手が起こる。
静かで、深い拍手だった。
熱狂ではない。押し寄せるものでもない。観客がそれぞれの場所で受け取ったものを、少しずつ返しているような音だった。
榊は立たなかった。
最後まで座ったまま、その音を聞く。
智也が礼をし、顔を上げる。
その視線が、客席の奥へ向けられた。
榊は、目を逸らさなかった。
拍手が収まり、観客がゆっくり流れ出していく。席が空になってから、榊は立ち上がった。
ロビーは石造りだった。
小さなバーからワインの匂いが流れ、低い話し声が重なっている。舞台を見終えた人々の体温が、狭い空間にまだ残っていた。
その流れの向こうに、黒い衣装の背中が見える。
桐島智也だった。
まだ完全には、素の顔へ戻っていない。
智也が振り向き、榊を見る。
今度は、どちらも逸らさなかった。
智也が小さく息を吐く。
「……来てたんだな」
舞台の声ではなかった。
榊は頷いた。
「行くと言った」
智也が少し笑う。
「律儀だな」
言葉が途切れた。
どちらも舞台の話はしなかった。
話せば、何かが固まる。
まだ名前をつけるには早かった。
智也が顎で外を示す。
「外、出るか」
榊は頷いた。
智也が着替えて戻るまで、榊はロビーで待っていた。
二人は劇場を出た。
外の空気は冷たかった。
歩き始めてから、榊は気づく。
智也は半歩先へ行かない。
榊も、半歩後ろへ下がらない。
白い研究棟では測れなかった距離が、黒い劇場の外で、ただ並んでいた。
ともだちにシェアしよう!

