3 / 7

第3話 湿度の前触れ

劇場を出ると、夜は思ったより冷たかった。 智也は舞台に立っていたときとは違う服に着替え、コートのポケットへ手を入れて歩いている。歩き方も、声を舞台へ置いていたときとは少し違った。 それでも、さっきまで客席に残っていた拍手が、まだ身体のどこかに残っているように見えた。 二人で石畳を歩く。 川の方から湿った風が上がり、街灯の光が水面に長く揺れている。智也の呼吸はもう整い、舞台にいたときの顔も消えていた。 けれど、完全に戻ったわけではない。 暗い客席に残っていた熱が、まだどこかに滲んでいる。 「寒いな」 智也が軽く言う。 榊は横目で見た。 「舞台の上は熱かっただろ」 「客席からはそう見えた?」 智也が短く笑った。 川沿いの柵の前で、二人は足を止める。 黒い水面がゆっくり流れ、車の音や人の声が少し離れたところで薄く重なっていた。 しばらく、どちらも話さなかった。 劇場の外へ出ると、言葉は自然に少なくなる。さっきまで同じ暗さの中にいたはずなのに、外気に触れた途端、距離だけがわずかに戻った。 智也が川を見たまま言う。 「どうだった」 榊はすぐには答えなかった。 いくつか言葉は浮かんだが、どれも正確ではない。 「……持っていかれた」 智也が少しだけ目を細める。 「何を」 「分からない」 川から吹いた風が少し強くなり、智也の前髪を揺らした。 榊の視線がそこへ止まる。 智也は何かを聞き返しかけて、やめた。 榊には、それでよかった。 今聞かれても、答えられる言葉はなかった。 「また来いよ」 軽い声だった。 だからこそ、残った。 榊はすぐには返せなかった。 行く理由はない。 ないはずだった。 「……分かった」 智也は笑わず、少しだけ頷いた。 二人はまた歩き出す。 さっきより、わずかに距離が近い。 歩調が重なったところで、肩がかすかに触れた。 どちらも避けなかった。 湿った風が川から上がってくる。夜はまだ冷たいのに、その奥には劇場の暗さが残っている。 駅の前まで来ると、二人は自然に足を止めた。 どちらも引き止めない。 智也が軽く手を上げる。 「じゃあな」 榊は頷いた。 それだけで別れた。 遠ざかっていく背中を追わず、榊はその場に残る。 川から流れてきた湿った空気だけが、まだ周囲にまとわりついていた。 ―― 研究室へ戻った頃には、窓の外もすっかり暗くなっていた。 テムズ川の灯りが細く揺れ、室内のモニターには昼間のデータが残っている。 呼吸の波形。 声の立ち上がり。 揺れの遅れ。 榊は椅子に座り、しばらく画面を見ていた。 再生ボタンを押す。 智也の声が室内へ流れる。 英語だった。 けれど、呼吸は日本語の位置にある。研究所で見たときと同じ場所で、同じ揺れが生まれていた。 榊はわずかに眉を寄せる。 説明はできる。 呼吸の前振れも、声が落ちる位置も、身体が意味へ届く前に生まれる揺れも、データとして取り出せる。 もう一度、再生する。 静かな声が部屋へ落ちる。 押していない。 強くもない。 それでも、その声が入っただけで、室内の空気がわずかに位置を変える。 榊は再生を止めた。 音が消える。 そのはずなのに、代わりに川沿いの湿った風が戻ってきた。 黒い水面と、街灯の細い光。 歩調が重なったとき、かすかに触れた肩。 榊は椅子の背へ身体を預け、天井を見る。 研究として面白い。 そこまでは、何の問題もない。 問題は、その先だった。 小さく息を吐く。 「……厄介だな」 モニターを閉じる。 窓の外では、テムズの水面が変わらず流れていた。 データは消せる。 声も止められる。 それでも、夜の湿度だけは、まだ指先に残っていた。

ともだちにシェアしよう!