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第3話 湿度の前触れ
劇場を出ると、夜は思ったより冷たかった。
智也は舞台に立っていたときとは違う服に着替え、コートのポケットへ手を入れて歩いている。歩き方も、声を舞台へ置いていたときとは少し違った。
それでも、さっきまで客席に残っていた拍手が、まだ身体のどこかに残っているように見えた。
二人で石畳を歩く。
川の方から湿った風が上がり、街灯の光が水面に長く揺れている。智也の呼吸はもう整い、舞台にいたときの顔も消えていた。
けれど、完全に戻ったわけではない。
暗い客席に残っていた熱が、まだどこかに滲んでいる。
「寒いな」
智也が軽く言う。
榊は横目で見た。
「舞台の上は熱かっただろ」
「客席からはそう見えた?」
智也が短く笑った。
川沿いの柵の前で、二人は足を止める。
黒い水面がゆっくり流れ、車の音や人の声が少し離れたところで薄く重なっていた。
しばらく、どちらも話さなかった。
劇場の外へ出ると、言葉は自然に少なくなる。さっきまで同じ暗さの中にいたはずなのに、外気に触れた途端、距離だけがわずかに戻った。
智也が川を見たまま言う。
「どうだった」
榊はすぐには答えなかった。
いくつか言葉は浮かんだが、どれも正確ではない。
「……持っていかれた」
智也が少しだけ目を細める。
「何を」
「分からない」
川から吹いた風が少し強くなり、智也の前髪を揺らした。
榊の視線がそこへ止まる。
智也は何かを聞き返しかけて、やめた。
榊には、それでよかった。
今聞かれても、答えられる言葉はなかった。
「また来いよ」
軽い声だった。
だからこそ、残った。
榊はすぐには返せなかった。
行く理由はない。
ないはずだった。
「……分かった」
智也は笑わず、少しだけ頷いた。
二人はまた歩き出す。
さっきより、わずかに距離が近い。
歩調が重なったところで、肩がかすかに触れた。
どちらも避けなかった。
湿った風が川から上がってくる。夜はまだ冷たいのに、その奥には劇場の暗さが残っている。
駅の前まで来ると、二人は自然に足を止めた。
どちらも引き止めない。
智也が軽く手を上げる。
「じゃあな」
榊は頷いた。
それだけで別れた。
遠ざかっていく背中を追わず、榊はその場に残る。
川から流れてきた湿った空気だけが、まだ周囲にまとわりついていた。
――
研究室へ戻った頃には、窓の外もすっかり暗くなっていた。
テムズ川の灯りが細く揺れ、室内のモニターには昼間のデータが残っている。
呼吸の波形。
声の立ち上がり。
揺れの遅れ。
榊は椅子に座り、しばらく画面を見ていた。
再生ボタンを押す。
智也の声が室内へ流れる。
英語だった。
けれど、呼吸は日本語の位置にある。研究所で見たときと同じ場所で、同じ揺れが生まれていた。
榊はわずかに眉を寄せる。
説明はできる。
呼吸の前振れも、声が落ちる位置も、身体が意味へ届く前に生まれる揺れも、データとして取り出せる。
もう一度、再生する。
静かな声が部屋へ落ちる。
押していない。
強くもない。
それでも、その声が入っただけで、室内の空気がわずかに位置を変える。
榊は再生を止めた。
音が消える。
そのはずなのに、代わりに川沿いの湿った風が戻ってきた。
黒い水面と、街灯の細い光。
歩調が重なったとき、かすかに触れた肩。
榊は椅子の背へ身体を預け、天井を見る。
研究として面白い。
そこまでは、何の問題もない。
問題は、その先だった。
小さく息を吐く。
「……厄介だな」
モニターを閉じる。
窓の外では、テムズの水面が変わらず流れていた。
データは消せる。
声も止められる。
それでも、夜の湿度だけは、まだ指先に残っていた。
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