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第5話 生活の調律
カフェを出てしばらくしても、ロンドンの午後は雲が低かった。
研究所の前へ続く通りを、二人で歩く。赤い二階建てのバスがゆっくり通り過ぎ、濡れた石畳に水の跡を残していった。
智也が言う。
「ちょっと付き合ってほしい」
榊は横を見る。
「研究か」
「違う。生活」
智也はコートの襟元へ指を入れ、少しだけ首を動かした。
「ホテルの空調で喉やられる。あと、今日使うやつが欲しい」
角を曲がると、小さなドラッグストアがあった。
ガラスの扉を開けると、白い照明の下に棚がまっすぐ並んでいる。シャンプーやコンディショナー、スキンケア用品の瓶が整然と置かれ、外の曇り空とは違う均一な明るさが店内を満たしていた。
智也はヘアケア用品の棚で足を止めた。
ボトルを手に取り、横の札を見る。
TESTER.
「助かった」
テスターを手首へ少し落とし、指でなじませて香りを確かめる。
榊はその様子を見ていた。
智也の指が、手首の皮膚を静かになぞる。
舞台の手ではなかった。
生活の中にある手だった。
髪には外の湿気が少し残っている。額へ落ちかけた前髪を、智也が無意識に指で払った。
その動きは、声よりも近く感じられた。
「ホテルの備え付け、無理なんだよな」
智也がボトルを軽く振る。
「何が」
「匂い。強すぎる」
キャップを戻して棚へ置く。
「髪も合わないし」
榊は別のボトルへ視線を移した。
「舞台があるなら、変えた方がいいな」
「だろ」
智也は次の棚へ移る。
そこには喉用のスプレーやトローチ、乾燥対策の商品が並んでいた。
「こっちの方が問題」
智也が喉元へ触れる。
「ホテル、夜になると乾くんだよ」
「空調を切ればいい」
「寒い」
「加湿は」
「弱い」
「面倒な部屋だな」
智也が笑った。
「俺もそう思う」
棚を見比べている智也の横から、榊が一つを取る。
ラベルを読む。
「これなら香りも強くない」
智也が覗き込んだ。
距離が近づく。
肩が触れそうになったが、どちらも動かなかった。
榊は成分表示を指で示す。
「刺激も弱い」
智也がボトルを受け取る。
一度、榊を見た。
「ほんと研究者だな」
「観察だ」
「俺の?」
榊は少しだけ視線を外す。
「物の」
智也が小さく笑い、そのまま商品をカゴへ入れた。
次はスキンケアの棚だった。
小さな瓶が照明を受けて並んでいる。
智也はそのうちの一つを手に取り、ラベルを読みながら言った。
「俳優ってさ」
榊が横を見る。
「肌も仕事なんだよ」
瓶を指先で回す。
「ライト当たると全部出る」
榊は何も言わず、智也の手元を見る。
「日本で使ってるやつが一番合うんだけどな」
「送ってもらえばいい」
「すぐに欲しいから」
別の瓶を取り、ラベルへ眉を寄せる。
「これ、どういう意味」
榊が横から読み、そのまま日本語にする。
智也が笑った。
「通訳助かる」
「本当に困ったときだけだろ」
「うん」
智也は頷く。
「やばいときだけ」
瓶がカゴへ入った。
レジへ向かう途中、店内の白い照明が智也の横顔に落ちる。
舞台の光より近く、研究所の光より生活に寄った明るさだった。
榊はしばらくその横顔を見ていた。
見ていることへ気づき、少し遅れて視線を外す。
「榊」
呼ばれて、戻した。
「何だ」
智也はカゴの中を見る。
「さっきの、声の話」
榊は黙って続きを待った。
「喉も、肌も、呼吸も、結局全部繋がってるんだよな」
会計前のカゴの中で、生活用品が歩くたびに小さく揺れている。
「ひとつ崩れると、声に出る」
榊は小さく頷いた。
「研究も同じだ」
智也が見る。
「見えている部分だけ測っても、原因がそこにあるとは限らない」
智也は少し笑った。
「それ、分かる」
そこで会話は途切れた。
会計を終え、智也が紙袋を持つ。
外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。白い店内にいたせいか、通りの湿度がさっきよりはっきり分かる。
川の方から風が抜け、智也の前髪を揺らした。
二人はそのまま通りを歩いた。
紙袋が、智也の指先で静かに揺れている。
途中で智也が言った。
「こういうの、助かる」
榊は横を見る。
智也は前を向いたままだった。
「舞台とか研究とかじゃなくて、普通に困るやつ」
軽い言い方だった。
それでも、軽く受け流すには少しだけ近かった。
榊はすぐには答えない。
通りの向こうでバスが停まり、人が何人か降りてくる。濡れた石畳の上を、靴音と話し声が絶えず流れていた。
「困ったら言え」
智也がこちらを見る。
「いいのか」
「やばいときだけだろ」
智也は少し笑った。
「うん」
紙袋がまた指先で揺れる。
それ以上、何かを足す必要はなかった。
ロンドンの雲はまだ低い。
榊の隣では、舞台なら迷わず声を出せる男が、生活の小さなものを選びながら歩いている。
その距離を研究の言葉へ置き換えるには、まだ少し早かった。
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