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第6話 ホテルの湿度

通りの空気は、午後の湿り気を含んでいた。 ドラッグストアの袋に加えて、紙袋が二つ増えている。服と薄いニット、それに小さな箱へ入ったスキンケア用品。買うつもりのなかったものまで、歩いているうちに智也の手元へ増えていた。 「買いすぎたな」 智也が笑う。 榊は持っている袋を少し持ち直した。 「お前だろ」 「俺だな」 二人とも両手が塞がっている。 そのまま通りを歩いた。 赤い二階建てのバスがゆっくり横を通り、窓から漏れる光が濡れた石畳を低く流れていく。 智也は少し前を歩いていた。 肩の力は抜けているのに、歩き方は崩れない。舞台を降りても、身体のどこかに人前へ出るための線が残っている。 作った姿勢というより、もう癖に近い。 呼吸と同じ場所にあるものなのだろうと、榊は思った。 やがて智也が一軒の建物の前で足を止めた。 古いホテルだった。 ガラスの回転扉の奥には、暗めに落とされたロビーの灯りが見える。 「ここ」 榊は建物を見上げた。 「悪くない」 「だろ」 二人で中へ入る。 厚いカーペットが足音を吸い、革張りのソファには低い照明が落ちている。外の湿った街の音が、回転扉を抜けたところで薄く遠のいた。 智也はフロントへ軽く会釈し、そのままエレベーターへ向かった。 狭い箱の中で、二人は買い物袋を抱えたまま並ぶ。 距離は近い。 けれど、話すことはなかった。 壁の鈍い鏡面に二人の姿が映っている。智也の横顔は、劇場の暗さとも、ドラッグストアの白い照明とも違って見えた。 生活の途中にいる顔だった。 エレベーターが止まり、扉が開く。 廊下はさらに静かだった。 厚い絨毯の上を進み、智也がカードキーをかざす。短い電子音のあと、ドアが開いた。 部屋は広くない。 ベッドと小さなデスクがあり、窓の外から曇った午後の光が低く差し込んでいる。ホテル特有の乾いた空気が、廊下よりも少し強く感じられた。 智也がデスクへ袋を置き、榊もその横へ荷物を下ろす。 「助かった」 榊が肩を回すと、智也が笑った。 「荷物持ち、優秀だった」 買ってきたシャンプーを袋から取り出し、ラベルを確認する。 「研究者のおすすめ」 「観察だ」 「まだ言うか」 「事実だろ」 智也は笑いながらボトルをデスクへ置き、窓の外へ視線を向けた。 買い物袋と、まだ新しいボトル。 舞台の熱はもうない。 ここにあるのは、誰かに見せるためではない生活のものばかりだった。 「榊」 「何だ」 「ここまで送るとは思わなかった」 榊も窓の外を見る。 「俺もだ」 それ以上は続かなかった。 智也がコートを脱ぎ、椅子の背へ掛ける。 その何気ない動きを、榊は見ていた。 肩の線。 首の後ろ。 少し乱れた髪。 舞台に立っていたときの顔ではない。 それでも、人前へ出るための何かは完全には消えていなかった。 劇場でも、カフェでも、店でも、この部屋でも。 智也は場所ごとに別の人間になるのではなく、同じ身体の中で、声の置き方だけを変えている。 そのことが妙に残った。 「今日は助かった」 榊は小さく頷く。 「困ったときの通訳、また頼む」 「本当に困ったときだけだろ」 「そう」 智也も頷いた。 榊はドアの近くまで歩き、ノブへ手を掛ける。 背後から声がした。 「榊」 振り向くと、智也は少し考えてから言った。 「今日、悪くなかった」 榊はすぐには答えなかった。 デスクに置かれた紙袋。 シャンプーのボトル。 窓の外の曇った光。 その中に自分がいることが、少しだけ奇妙だった。 研究所でも、劇場でも、カフェでもない。 誰かのホテルの部屋まで生活用品を運んだだけの時間。 ただそれだけなのに、距離の測り方が少し変わっている。 「俺もだ」 短く返した。 それ以上何かを足せば、別のものになる気がした。 榊がドアを開けると、廊下の空気が入ってくる。 智也は追ってこなかった。 「じゃあな」 「ああ」 ドアが閉まる。 厚い絨毯の廊下には、榊の足音がほとんど残らなかった。 エレベーターでロビーまで降り、回転扉を抜ける。 午後の湿った空気が戻ってきた。 外は冷たい。 それでも、さっきの部屋より乾いていない。 榊は通りに出て、少しだけ息を吸った。 買い物袋を持っていた手のひらには、まだ紙の感触が残っている。 スマートフォンが震えた。 画面を見る。 智也からだった。 《今日は助かった。今度ゆっくり飲もう》 榊はしばらくその文面を見ていた。 短い。 だからこそ、すぐには返せなかった。 通りの向こうを赤いバスが過ぎていく。窓の光が濡れた石畳へ流れ、すぐに消えた。 榊は親指を動かす。 《時間が合えば》 そこまで打って、止まった。 削除する。 もう一度、文字を入れる。 《分かった》 送信した。 画面が暗くなる。 榊はスマートフォンをポケットへ戻した。 理由なら、いくつもつけられる。 通訳。 研究。 舞台の確認。 ロンドンで困っている知人への手助け。 どれも間違ってはいない。 それでも、どれも正確ではなかった。 榊は歩き出した。 川の方から湿った風が上がってくる。 研究棟の白い廊下で見た声も、黒い劇場で受けた熱も、昼のカフェで止まった言葉も、ホテルの乾いた部屋へ置いたボトルも、同じ場所へ少しずつ溜まっている。 まだ名前はない。 名前をつけるには早い。 それでも、消えない。 榊はポケットの中で、指先をゆっくり握った。 通りの先には、午後の淡い光が濡れた石畳へ残っている。 その中に、智也の短いメッセージだけが、湿度のように残っていた。

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