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第7話 湿度の臨界前
氷を砕く音が、低く響いた。
川沿いにある小さなバーだった。
照明は暗く、カウンターに並ぶグラスの縁だけが鈍く光っている。窓の向こうにはテムズの水面があり、街灯の光が細く揺れていた。
榊はカウンターの端に座っていた。
グラスを伝う水滴をぼんやり見ていると、背後でドアが開く。冷たい外気がわずかに流れ込み、榊は振り向いた。
智也だった。
コートを脱ぎながら店の奥へ歩いてくる。榊を見つけると、少しだけ笑った。
「待った?」
「今来た」
智也が隣の椅子へ座る。
肘が触れそうで、触れない程度の距離だった。
バーテンダーが声をかけると、智也はメニューへ視線を落とした。
「強くないやつで」
榊が横を見る。
「酔わないのか」
「明日も声出す」
「真面目だな」
「仕事だからな」
軽く返した声を、榊は聞いていた。
舞台で空間へ投げた声とも、昼のカフェで注文に詰まった声とも違う。
ホテルの部屋で「今日、悪くなかった」と言ったときに近かった。
静かで、逃げない声だった。
やがてグラスに氷が落ちる。
硬い音が、暗い店の中へ短く広がった。
榊は自分のグラスを持ち、隣を見る。
智也は指先でグラスをゆっくり回していた。
舞台で空気を変えた手。
昼の店で生活用品を選び、ホテルまで紙袋を運び、あの短いメッセージを送ってきた手。
そこまで考えて、榊は視線を外した。
二人はしばらく黙って飲んだ。
川の向こうを車の光が流れ、店の奥では誰かが低い声で笑っている。グラスがカウンターへ戻される音も、会話の切れ目へ静かに混じっていた。
智也が言う。
「俺、ロンドン慣れると思う?」
榊はグラスを回した。
「お前次第だろ」
「冷たいな」
「事実だ」
「舞台とホテルの往復だしな」
「らしい」
智也が横を見る。
「それ、どういう意味だよ」
「そのままの意味だ」
智也は少し笑って、グラスに口をつけた。
そのあとに残った沈黙は、嫌なものではなかった。
言葉が足りないのではなく、急いで埋めなくても崩れない。
榊は、そのことに少し遅れて気づいた。
智也がグラスを置く。
「この三日、考えてた」
榊は横を見る。
智也は窓の向こうの川を見ていた。
「舞台のあと、お前、難しい顔してただろ」
榊はすぐには答えず、グラスに口をつけた。
冷たい酒が喉を通る。
ゆっくりカウンターへ戻してから言う。
「自分でも分かってる」
「何を」
榊は言葉を探した。
窓の外では川の光が揺れ、ガラスが薄く曇っている。
「見ていたものが、ずれた」
智也は何も言わなかった。
「研究所で見たときは、理論の外にある身体だと思った。舞台で見たときは、声の届き方だと思った。カフェでは、言葉の通り道だと思った」
智也の指が、グラスの縁で止まる。
「それで?」
榊は横を見る。
智也は急がせなかった。
ただそこにいて、続きを待っている。
それが、いちばん厄介だった。
「どれも間違いじゃない」
榊は言った。
「でも、それだけじゃなくなった」
智也の呼吸が、わずかに遅れる。
榊は視線をグラスへ落とした。
「役割にすれば、楽だった」
「役割?」
「俳優。声。身体的実装。研究対象。通訳が必要な知人」
どれも間違ってはいない。
けれど、言葉へ置くほど薄くなる。
「そう呼べるうちは、扱えた」
智也は黙って聞いている。
榊はグラスを伝う水滴へ目を落とした。
「今は、少し違う」
「どう違う」
智也の声が低くなる。
榊はすぐには答えなかった。
言葉へすれば、今あるものの形まで変わる気がした。変われば、同じ場所には戻れない。
それでも、言わないままでは、もう以前と同じ場所へも戻れない。
「お前が、そこにいる」
智也の目が動いた。
榊は続ける。
「役割じゃなくて」
それ以上の言葉は出なかった。
足りないことは分かっている。
それでも、今の榊が出せるのはそこまでだった。
智也は笑わなかった。
茶化すこともせず、静かにグラスを置く。
「それは、困るな」
榊が横を見る。
「お前が言うのか」
「言うだろ」
智也は小さく息を吐いた。
「俺も、役にしてた方が楽だから」
榊の指が止まる。
「何を」
「お前を」
智也は川を見たまま言う。
「研究者。理論の人。通訳してくれるやつ。難しい顔で俺を見るやつ」
少しだけ笑った。
「そういうふうに置いてた方が、楽だった」
榊は何も返せなかった。
店の奥の話し声が遠くなったように感じる。
川の光だけが、グラスの中で細かく揺れていた。
智也が続ける。
「でも、ホテルの帰りにメッセージ送ったとき、ちょっと違った」
榊の喉が動く。
「何が」
「理由がなかった」
短く答えた。
「助かったって言うだけなら、その場で言ってた。飲もうって言う必要はなかった」
榊はグラスを見る。
《今日は助かった。今度ゆっくり飲もう》
あの短い文面を、何度か思い出していた。
研究の途中でも、帰り道でも、白い廊下を歩いているときでも。
理由がなかった。
それなのに残った。
智也が言う。
「だから来た」
榊は顔を上げた。
「俺もだ」
声は思ったより低く出た。
二人の間に、また沈黙が落ちる。
さっきまでより近い沈黙だった。
肘が触れた。
今度は偶然ではない。
触れたまま、どちらも避けなかった。
榊はグラスから手を離す。
智也の手もカウンターの上にある。
近い。
指先が触れそうな距離だった。
榊は動かなかった。
動かないことに、思った以上の力が要る。
智也も手を動かさない。
ただ、触れない場所へ置いたまま待っている。
それだけで、呼吸がわずかに乱れた。
榊は自分の身体に起きた反応を、いつものようには観察できなかった。
理論へ戻せない。
波形にも置き換えられない。
名前をつければ、たぶん少しは扱いやすくなる。
けれど、扱いやすくした瞬間に取り落とすものがあることを、もう知っていた。
智也が低く言う。
「今日は、まだやめとこう」
榊は横を見る。
「何を」
「名前をつけるの」
声が少し掠れていた。
榊は答えなかった。
意味は分かっている。
分かってしまうことが、また厄介だった。
肘は触れたまま。
指先は、触れないままだった。
しばらくして智也がグラスを持つ。
「次、あるだろ?」
榊は少しだけ笑った。
うまく笑えたかは分からない。
「勝手に決めるな」
「嫌なら来ないだろ?」
「そうだな」
智也が笑う。
榊もグラスを持った。
バーの灯りが、琥珀色の酒の中で揺れている。
越えていない。
けれど、戻ってもいない。
川の向こうを夜の光が流れていく。
榊はグラスに口をつけた。
触れた肘の熱だけが、まだ残っている。
テムズの水面はゆっくり揺れていた。
その揺れは名前を持たないまま、二人の間に残っていた。
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