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柚子side
津森さんは、最後に「さっきは、すまなかった」と橘くんに軽く頭を下げ、それから俺を数秒見つめた後、振り返らずに車に乗り込んだ。
エンジンのかかる音を聞きながら、ようやく終わったという気持ちと、これから橘くんに向き合わなければならないという恐怖で胸が苦しくなる。
「柚子さん」
「……橘くん、ごめんなさい」
顔は上げられないから俯いたままで、彼に一言謝罪した。この状況で言い訳を考えられるほど器用ではないし、何かを言ったところで彼には無意味だろう。
この場面と、出会った日からの様子を見ていれば、ある程度のことは想像できるはずだ。
「ごめん、ね」
言葉がつっかえて出てこない上に、かすれているから、もしかするとこの声は聞こえていないのかもしれない。
橘くんが名前を一度呼んだだけで、それ以上何も言わないのは、俺の声が聞こえていないからなのか、軽蔑したからなのか、分からない。
口をききたくないのか、かける言葉がないのか、何から言えば良いかと迷っているのか……。色々考えたところで、結局はネガティブなものでしかないのだろうけれど。
いつかは知られるかもしれないと思っていたものの、こうして何も準備できていないタイミングだったし、橘くんもまさか泣いている理由が恋愛に関することで、しかも相手が男性だったとは考えていなかったはずだ。
これまで俺を苦しめてきた人たちと変わらない目を、彼に向けられてしまうのだろうか。
そんな人ではないとの期待と、そうされても仕方がない、それが自然だという気持ちとでいっぱいになり、彼に対して言うべきことが何も浮かばない。
「ごめ、んね。ごめん、なさ、い……」
これだけは言えるからと、ひたすらに謝った。
橘くん、本当にごめんなさい。
あなたがあの時にわざわざ傘を持って声をかけてくれ、寄り添ってくれ、失礼なことをしたのにも関わらず探してくれ、そうして今、楽しい関係を築いてくれたのに、あなたが見ていた俺は、本当はこういう人間だったんだよ。
さっきの男のために、何度も涙を流していたの。
そんなことも知らないで、慰めていたことが馬鹿らしくなったでしょう?
「ごめん、ごめ……ん、」
あの日、俺を見つけたことを後悔している?
こんなことになってしまうのなら、正体がこんな奴だったのなら、わざわざ後日に探さなければ良かったって、そう思っている?
恋愛対象が男性であることは、橘くんにとって気持ち悪いこと? 自分がその対象になったらゾッとする?
今までの時間を返してほしいと、そう思う? 大学の友人の前で、俺と仲良く過ごしたことも後悔しているのだろうか。
「ごめ、ん、なさ……い、」
俺が、橘くんの優しさに甘えてたから。欲張ってしまったから。正直に伝えることに慣れていないから。恐怖心があるから。
関係が崩れて、橘くんから離れることは簡単だけれど、離れなければならないということは、俺だけじゃあなくて橘くんも傷ついたことになる。
「今まで、ありがとう……!」
「柚子さ……」
彼が、俺の名前を呼び切る前に、深く深く頭を下げ、それから走って家の中に入った。
ドアを閉めるとすぐに扉にもたれかかり、滑るように玄関に座り込む。扉の冷たさが背中越しに伝わる。
最後に彼が何を言おうとしたのかは分からないけれど、聞かなくて良かった。彼の口から嫌な言葉が出てきたら耐えられない。
俺が、彼を傷つけた。裏切った。それで終わらせよう。彼とのことは、良い思い出で終わりたい。
「ふ、ぅ……。あーあ……」
これまでの経験が全て橘くんとの今に繋がっているのだとしたら、過去のどんな酷い出来事であっても感謝したいくらいだと、そう思っていたのに。
やっぱり、俺が俺のままで良いと心から思える日は来ないし、笑顔で過ごせる日も続かないんだ。
橘くんと一緒にいられて、楽しかったのにな。もう二度と話すことはないのだろう。
「……こんなことばっかり。きつい、なぁ……」
今日はあまりにも色々ありすぎて疲れた。このまま消えていなくなりたい。
俺ばかりがどうしてこんなことに、と思っても、俺が選択してきたことの積み重ねの結果でもあるから。
立ち上がるほどの気力もなく、しばらくの間そのまま座りこんで過ごした。
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