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柚子side2

 行きの電車とは違い、帰りはガラリと空いていた。その中でも一番人の少ない車両を選び、端の席に並んで座った。    「ねぇ、柚子さん」 「……ん?」    座ると同時に橘くんが俺の肩にもたれかかり、映画館から一度も口を開かずにいたけれど、ようやく名前を呼んでくれた。 「ごめんね。あまりにもイラつきすぎて、勝手なことしちゃった」 「……ううん、ありがと」  橘くんの顔を覗き込むことはせず、正面を向いたままでそう返事をする。顔を見なくても落ち込んでいることは想像できた。落ち込んでいるというか、後悔しているというか。  やるべきだとそう思った気持ちのままに動いてくれたのだろうけれど、橘くんと俺とじゃあ考え方が違うから、これで良かったのかと不安もあるのかもしれない。  珍しく弱々しい声に聞こえた。  正直に言えば、見たことのない橘くんに驚いたし、怖い気持ちもあった。橘くんが、というより森岡に何かされたらどうしようだとか、周りの視線に彼を巻き込んでしまったことだとか、何より俺の過去の嫌な経験を彼にまで背負わせてしまったような気がして、それが一番つらかった。  それに、俺と一緒にいることを彼が選択すれば、俺だけじゃあなくてこうして橘くんも差別的に見られてしまうことがあると、改めて感じた。  それが、あまりにも怖かった。それなのに、橘くんから一切の恐怖心も感じなかった。自分が周りからどう思われているかなんて、彼に何も関係ないように思えた。  俺が何を感じるかを一番に考え、俺を傷つける全てのものを許さないと、そういう圧が感じらて、これはかなり自惚れていると自覚はあるけれど、橘くんにとったら、彼自身よりも俺のことが大切なんじゃないかと、それほど俺は想われているのかと、たまらなく嬉しかった。  恐怖心とか、これからの不安だとか、彼への申し訳なさだとさ、自分の不甲斐なさだとか、色んな感情が湧き出てくる。  けれど、その何十倍、何百倍も嬉しかった。勝手だし、そんなことを思う自分にもうんざりしてしまうけれど、それでも、本当に本当に嬉しかったんだ。 「……でもね、俺、すごい緊張したの。声震えていたの、分かった?」 「全然……。橘くん、かっこよかった」  俺、かっこよかった? と橘くんが笑った。毎日いつでもかっこいいと、そう返したい気持ちを堪えて、俺は無言で頷いた。  俺にもたれているからか、言葉で返事をしなくてもそれが伝わったようで、そうか、と彼がまた笑う。 「実際は録音とかしてなかったしね。親戚に警官なんていないし、柚子さんだってこれまでされたことメモしてないでしょ? でも、びっくりするくらい頭の回転が早かった。どこからか嘘が飛び出してきたんだ」 「橘くん、ちっとも動揺していないように見えた。俺は自分のことなのに何もできなくて、橘くんに任せてしまった。ごめんね」  少しだけ彼のほうへと顔を向ければ、こちらを見上げた彼と視線がぶつかった。何も気にすることはないよと、そう言ってくれているかのように彼が微笑む。   「俺が柚子さんの立場だったら同じだよ。これまでたくさん嫌な言葉を浴びせられていたら、それを思い出すだけでもしんどいはずでしょ? 何か言い返そうなんて、そんな気力すら奪われてきたんだろうし」 「……うん」  ん、と彼が俺の膝に手を出した。俺はその手に自分のを重ね、少しだけ握ってみると、彼は俺よりも強く、握り返してくる。相変わらず温かい。   「俺は咄嗟に出てきたことを、あたかも本当かのように言っただけ。ああいう人って、自分が追い詰められることは想定できないから、言い返せないほどに詰めれば何もできないんだよ。弱いからさ」 「……うん。俺が知っている森岡とは違った。俺が言い返したこと、一度もないから。あんな森岡は初めて見たよ」 「警察の番号だって、押しながら手が震えてた。ダサいのは俺だね。好きな人の守り方も分からない。これが正しかったのかだって、何も分からないや。大人しくやり過ごせなくてごめんね」

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