36 / 101

柚子side2

 何もなかったかのようにしていたのに、こうして突然距離を縮められてしまうと、それにまた動揺してしまう。  洗い終えた後、冷たくなった手で両頬を冷まし、それから橘くんの元へと戻った。  俺に「ありがとう、ごめんね」と言いながら両手を広げた橘くんのところへ、吸い込まれるにして近づけばくるりと反対を向かされ、背中のほうから抱きしめられる。  けれど特にそれ以上の触れ合いはないから、俺も逃げようとすることもできず、その姿勢のままテレビを見たり雑談を続けた。  しばらくして、そろそろ帰る時間だからと言って、彼から離れようとすると、橘くんに引き止められた。  いつもなら「送って行くよ」と言って、スムーズに準備してくれるのに。とはいえ、いつもはこんな触れ合いはないから、今日は最初からいつもの橘くんとは違ったのだけれど。 「橘くん……?」 「ねぇ、柚子さん」 「ん?」  首筋に顔を埋められるのがくすぐったくなり身を捩ると、俺を覗き込む彼と目が合った。それなのにすぐに逸らされてしまう。 「橘くん……、どうしたの?」 「あのさ、」 「うん?」 「明日、映画……見に行こうよ」 「映画?」 「うん。俺さ、明日もあんたと一緒にいたい」 「……っ、」 「別に映画じゃなくても良いからさ。買い物とかゲームとか、勉強でも何でも。映画はただの口実。とにかく、俺は明日も柚子さんといたいんだ」  ああ、どうしてこんなにドキドキさせられるのだろう。  今日の夕飯の誘いだって余裕そうにしていたくせに、さっきだって何の動揺もしていなさそうだったくせに。  今は何も取り繕わずに、こんなふうに可愛く誘い、ときめかせてくるなんてズルすぎる。  断れるはずがない。「うん」と小さく返事をするだけで精一杯だ。  俺が頷いたことを確認すると、橘くんは大きく息を吐き、それから抱きしめる力を強めた。 「じゃあさ、明日も会うなら、今日はもう帰らないでよ」  彼の鼓動が、背中から伝わるようだった。自分の音も爆発してしまいそうなくらい身体中に響いているから、きっと彼にも気づかれているだろう。  お互い、いつもより何倍も体温が高い気もしてくる。 「ね、柚子さん」 「……、」 「抱きしめたまま、眠りたい。……帰らないでよ」 「……う、ん」  彼の声の輪郭が、震えているように聞こえた。  俺は何もせずにただ受け身で過ごしているのに、彼はいつもこうして気持ちを伝えてくれる。  たまに強引なところもあるけれど、俺が本当に嫌がるようなことはしないし、大切にしてもらっていると思う。  俺は結局自分が可愛いだけで傷つくのが怖くて、俺を好きだと示してくれる彼の気持ちを考えた行動はできないし、彼のために動けたこともない。自分ばかりが、してもらう側になっている。  橘くんは出会った時からずっと、変わらない優しさをくれているし、ひとりになりたくない時に必ず傍にいてくれて、俺の気持ちを救ってくれる。  こんなに素敵な人、絶対他にはいない。しっかりと向き合わないといけない。  回されている彼の手をやんわりと退けると、拒否されたと思ったのか、彼がすんなりと解放してくれた。  背中越しだったけれど、正面を向き直し、しっかりと視線を合わせると、珍しく頬から耳までが真っ赤になっていた。  それを見てさらに愛おしさが溢れ、俺の口元が緩む。 「橘くん……、」  好きだと、心が叫んでいる。立ち止まったままじゃあいられない。  心から彼の胸に飛び込んでみたい。前に進みたい。  たとえ、“いつか”が来たとしても、それでもこの選択は間違っていなかったと思えるくらいに、愛してもらおう。そして俺も、彼を愛したい。  終わりが来るまでで良いから、彼のものにしてほしい。……彼を、俺だけのものにしたい。  この気持ちを伝えなければ。 「橘、くん……」  そう思いながら、俺から彼の背に手を回した。今までの分も込めて、力強く。  橘くんは「えっ?」と声を漏らした後、「まじかー」と言いながら、俺以上の力で抱きしめ返してくれた。  服越しではあるけれど、彼の体温がいつもの何倍も伝わってくる。  これが決意した分の温もりだと、心が満たされた。

ともだちにシェアしよう!