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柚子side2
何もなかったかのようにしていたのに、こうして突然距離を縮められてしまうと、それにまた動揺してしまう。
洗い終えた後、冷たくなった手で両頬を冷まし、それから橘くんの元へと戻った。
俺に「ありがとう、ごめんね」と言いながら両手を広げた橘くんのところへ、吸い込まれるにして近づけばくるりと反対を向かされ、背中のほうから抱きしめられる。
けれど特にそれ以上の触れ合いはないから、俺も逃げようとすることもできず、その姿勢のままテレビを見たり雑談を続けた。
しばらくして、そろそろ帰る時間だからと言って、彼から離れようとすると、橘くんに引き止められた。
いつもなら「送って行くよ」と言って、スムーズに準備してくれるのに。とはいえ、いつもはこんな触れ合いはないから、今日は最初からいつもの橘くんとは違ったのだけれど。
「橘くん……?」
「ねぇ、柚子さん」
「ん?」
首筋に顔を埋められるのがくすぐったくなり身を捩ると、俺を覗き込む彼と目が合った。それなのにすぐに逸らされてしまう。
「橘くん……、どうしたの?」
「あのさ、」
「うん?」
「明日、映画……見に行こうよ」
「映画?」
「うん。俺さ、明日もあんたと一緒にいたい」
「……っ、」
「別に映画じゃなくても良いからさ。買い物とかゲームとか、勉強でも何でも。映画はただの口実。とにかく、俺は明日も柚子さんといたいんだ」
ああ、どうしてこんなにドキドキさせられるのだろう。
今日の夕飯の誘いだって余裕そうにしていたくせに、さっきだって何の動揺もしていなさそうだったくせに。
今は何も取り繕わずに、こんなふうに可愛く誘い、ときめかせてくるなんてズルすぎる。
断れるはずがない。「うん」と小さく返事をするだけで精一杯だ。
俺が頷いたことを確認すると、橘くんは大きく息を吐き、それから抱きしめる力を強めた。
「じゃあさ、明日も会うなら、今日はもう帰らないでよ」
彼の鼓動が、背中から伝わるようだった。自分の音も爆発してしまいそうなくらい身体中に響いているから、きっと彼にも気づかれているだろう。
お互い、いつもより何倍も体温が高い気もしてくる。
「ね、柚子さん」
「……、」
「抱きしめたまま、眠りたい。……帰らないでよ」
「……う、ん」
彼の声の輪郭が、震えているように聞こえた。
俺は何もせずにただ受け身で過ごしているのに、彼はいつもこうして気持ちを伝えてくれる。
たまに強引なところもあるけれど、俺が本当に嫌がるようなことはしないし、大切にしてもらっていると思う。
俺は結局自分が可愛いだけで傷つくのが怖くて、俺を好きだと示してくれる彼の気持ちを考えた行動はできないし、彼のために動けたこともない。自分ばかりが、してもらう側になっている。
橘くんは出会った時からずっと、変わらない優しさをくれているし、ひとりになりたくない時に必ず傍にいてくれて、俺の気持ちを救ってくれる。
こんなに素敵な人、絶対他にはいない。しっかりと向き合わないといけない。
回されている彼の手をやんわりと退けると、拒否されたと思ったのか、彼がすんなりと解放してくれた。
背中越しだったけれど、正面を向き直し、しっかりと視線を合わせると、珍しく頬から耳までが真っ赤になっていた。
それを見てさらに愛おしさが溢れ、俺の口元が緩む。
「橘くん……、」
好きだと、心が叫んでいる。立ち止まったままじゃあいられない。
心から彼の胸に飛び込んでみたい。前に進みたい。
たとえ、“いつか”が来たとしても、それでもこの選択は間違っていなかったと思えるくらいに、愛してもらおう。そして俺も、彼を愛したい。
終わりが来るまでで良いから、彼のものにしてほしい。……彼を、俺だけのものにしたい。
この気持ちを伝えなければ。
「橘、くん……」
そう思いながら、俺から彼の背に手を回した。今までの分も込めて、力強く。
橘くんは「えっ?」と声を漏らした後、「まじかー」と言いながら、俺以上の力で抱きしめ返してくれた。
服越しではあるけれど、彼の体温がいつもの何倍も伝わってくる。
これが決意した分の温もりだと、心が満たされた。
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