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四 日向

二年生になって、青葉とクラスが別になった。 昇降口のクラス分けが書いてある紙の前で、新しいクラスの友達に肩を組まれた。こいつ誰だっけ? まあどうでもいい。 放課後は前と何も変わらなかった。青葉は二年一組の教室でチャイムが鳴るまで本を読んでいた。俺はその前の席に横向きに座る。少し青葉の方を向いて。変わった事と言えば、前よりも風通しが良くなったことくらいだ。 四月の終わり、青葉が教室にいなかった。 鞄は机の上に置いてある。嫌な気がした。廊下の突き当たりの図書室から、明かりが漏れていた。光に集まる蛾のように勝手に足が動いていた。 扉のガラス越しに、カウンターの中に青葉が見えた。隣に、知らない女子が座っていた。 笑顔が多い子だった。青葉が本を戻す棚を間違えるたびに横で笑ってる。青葉のほうが背が高い。二人でいる時にそんな事一回も思ったことはなかった。青葉はいつも通りだ。いつもの顔で、黙って本を棚に直している。それでも、その子は横にいるだけで十分だと言わんばかりに幸せそうだった。誰かを見ているみたいだ。 「……くんって、なんか目が離せないんだよね」 ガラス越しに、その子の声が少しだけ聞こえた。青葉が何かを答えていた。 無意識に天気を読んでいた。読みやすい子だった。笑いたいから笑っている。曇りの気配が、一切ない。恵まれて育てられた子だと思った。 いつのまにか、扉に手をかけていた。 「青葉ー、はやく一緒に帰ろ」 あれ? 誰かの前で名前を呼んだのは、初めてだった。みんなの前では「宮崎」と呼ぶ。それは、俺が自分で決めたことだった。一緒に帰ったことも一度もない。 その子が、目を丸くした。 「青葉、って呼ばれてるんだ」 「……一年の時、クラスが一緒だったから」 青葉がいつもの声で答えた。 なんだよ、それ。 青葉は、何も気にしていない顔で、また本を棚に戻している。 彼女は、笹岡日向という名前だった。青葉と同じ二年一組で、同じ図書委員らしい。日向……嫌いな言葉だった。 それから、水曜日と金曜日は図書室に行くようになった。 ひとりでいるのが暇だからだ。それ以外に、理由は多分ない。 笹岡の天気は、すぐに読めた。好きなものの話をすれば、声のトーンが晴れになる。疲れていそうな時は、少し雲がかかってる。二週間もすると、笹岡は俺に日差しを向けはじめた。 あぁ、簡単だな。人なんて、みんな一緒だ。欲しい時に欲しい言葉を、して欲しい時にして欲しいことをすれば簡単に心を許してしまう。そして、それを恋だと勘違いする。 いいんだ、そうやってこの子の興味を、少しずつ青葉から俺に奪っていけばいい。そうすれば、またいつも通りに戻れる。 ある金曜日、青葉が棚に本を戻しに行っているあいだ、笹岡がふと呟いた。 「私ね、クラスにあまり馴染めてないんだ。ねこ被ってるみたいでうざいんだって」 そう笑いながら言った。雨が降りそうだ。 「図書委員、誰もやりたがらなかったんだよね。だから、ここでやれば誰かとは仲良くなれるかなと思ってさ。そしたら宮崎くんがいて。宮崎くんって、何話しても興味なさそうでしょ。だから、すごく気が楽なの」 そう言いながら、また笑った。 雨じゃない。読めない。 この子は、読みやすい子のはずだったのに。気のせいだと思いたかった。 梅雨入り前の、湿った五月の終わり、笹岡と駅のホームで一緒になった。 帰り道が一緒になったのはこれが初めてだった。青葉は委員会の片付けが残っているらしい。 「あのね、赤井くん」 どこかの校歌みたいな到着メロディが、ホームに流れていた。 「なんか、好きになっちゃった」 いつも通り三秒あれば、正解は自然と出てくるはずだった。 中二の夏も、その前も、その後も、ずっとそうしてきた。相手が傷つかず、自分に害も及ばず、何もなかったみたいに明日も同じ顔でいられる言葉。俺はそれを、いつも迷わず選べた。いや、選んできた。 出ない。選ぶことすらできない。 笹岡は、早口でそのまま続けた。目は合わない。 「ごめんね、急にこんな事言われても困るよね。私何してるんだろう。宮崎くんにね、ずっと赤井くんの事聞いてたの。何が好きかとかどんな人かとかさ。でも結局宮崎くん何聞いても自分で聞けばってばっかりで何もわかんなかったんだけどね」 図書室の前で聞こえた声を、思い出した。 ……くんって、なんか目が離せないんだよね あれは、俺のことだった。 笹岡は、そこまで言って、ようやく笑った。 思考を邪魔するかのように電車が入り込んできて、二人の間を少し湿った風が通り抜けた。 何も当たってなかった。最初から全部。何が天気予報士だ。 「……ありがとう。少し考えてもいいかな」 やっと出てきたのは、誰でも言えるそんなつまらない言葉だった。 帰りの電車の中で、何度も予報を繰り返した。 付き合えば、笹岡から青葉を取り返せる。断れば、笹岡はこれからも、水曜日と金曜日に青葉の隣に座る。諦めが悪そうだから。 そこまで考えて、ふと思った。 なんで青葉が出てくるんだろう。青葉にはなんの関係もないのに。 窓の外では、知らない街の明かりが流れていた。いつまで経っても動けなかった。 次の水曜日、図書室に行く気にはなれなかった。 二年一組の教室で、ひとりで、青葉の席に座っていた。こんな景色なのか。誰もいない教室は、少し広かった。今日も雨の匂いがする。 扉が開いて、委員会が早く終わった青葉が入ってきた。俺は何もなかったように前の席に座る。青葉はいつもの顔で、自分の席に座って、本を開く。 「笹岡、お前に俺のこと聞いてたんだ」 「うん」 「……なんで俺にそのことをなんも言わないんだよ」 「別に聞かれなかったし、興味もないから」 相変わらずの答えだった。胸がひんやりとした。 青葉は本に目を落としたまま、少しだけ黙った。それから、顔を上げた。 「未月は、笹岡さんのことどう思ってるの? 仲良さそうには見えるけど」 名前を呼ばれた。 青葉の声で、名前を呼ばれたのは初めてだった。 なんで今のタイミングなんだろう。もっと違う時があったかもしれないのに。 「……なんだよ、それ。俺にもわかんねぇよ」 何もわからなかった。告白のことも。青葉がなんでこんな事聞いたのかも。なんで俺の名前を呼んだのかも。俺が今どんな顔してるのかも。何もかも。 人の顔なんて簡単に読めたはずなのに。 「そっか」 青葉は短く言って、また本に目を落とした。 チャイムが鳴るまで、ずっと同じところを読んでいた。 その夜も、ベランダに出された。 十六にもなって、と思いながら、いつものコンクリートに座る。掴まれた腕が、まだ熱を持っていた。窓の向こうで、テレビの笑い声がしていた。 空には、今日も月があった。今日は三日月だ。 明日、笹岡に何て言えばいいのか。なんで青葉はページをめくらなかったのか。答えが出ないのは、きっと少し蒸し暑いせいだ。 「……誰か、僕を助けてよ」 この声が誰かに届くことはない。そう思うと手の甲に雨が降った。なんだこれ。 次の日の放課後、駅のホームで、笹岡に言った。 「いいよ」 笹岡は一瞬泣きそうな顔をして、それから、いつものように笑った。 断ったら、笹岡が傷つく。それだけの理由だった。 今度は三秒もかからなかった。 俺はちゃんと正解を選べた。選んだ。 帰りの電車で、青葉にメッセージを送ろうとして、やめた。何を送ってしまうのか、自分でも怖かったから。

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