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三 太陽

天気予報士は間違えない。 今日の天気は、なんだろう。 いつも家に入る前に扉の前で耳を澄ませる。テレビの音量、流しにコップを置く音の強さ。扉を開ければ、足元で答え合わせだ。父の靴は揃っているか。片方だけ、裏返っていないか。 晴れか、曇りか、嵐か。小学校に上がる頃には、俺は立派な天気予報士だった。テレビの天気予報より、ずっとよく当たった。 七歳の冬、夕飯の席でシチューをこぼした。 パンをシチューにつけようとしただけだ。父のスプーンが止まる。部屋の空気がすっと冷たくなった。息苦しい。 「ちっ、こっちにきなさい」 腕を掴まれた。痛い。骨の奥で、何かがずれる音がした。痛いと言えばもっとひどくなることは、もう覚えていた。だから手を握りしめて、心臓の音を数えた。 十三まで数えたとき、母がリモコンを手に取るのが見えた。 テレビの音量が、三つ大きくなった。 お笑い番組の笑い声が、鼓膜いっぱいに広がる。母は画面を見て、いつものように少し笑った。 あの笑い声は、今でもどこかで、あの頃の僕を指さしている。 ベランダに出されるのは、いつも嵐の夜だ。 鍵が閉まる金属音を背中で聞いて、冷たいコンクリートの上で膝を抱える。冬は指先が真っ赤になって、夏は蚊に刺された。窓の向こうでは、さっきの笑い声がまだ聞こえる。楽しそうだな。 月はいつも僕のことを覗き込んでくる。 でも月は何も言わない。怒らないし、痛いこともしないし、テレビの音量も上げない。 「神様、僕を月に連れていってよ」 吐いた息が白くなって、月にかかる雲みたいだった。 小学三年の春、初めてテストで満点を取った。 「赤井くんはすごいね」と、先生が何気なくみんなの前で言った。 四十人分の目線が、一斉にこっちを向いた。 その日も、家は嵐だった。でも次の朝、教室の扉を開ける時、指先が少しだけじんわりした。 それから、たくさん勉強をした。図書館に引き篭もった。いつのまにか司書さんとも仲良くなった。帰らなくて良い理由を見つけるのは意外と簡単だった。気づけば、百点は当たり前になっていた。 笑顔も覚えた。鏡の前で、口の端を何ミリ上げれば自分は無害だと思われるのか、何度も試した。家で覚えた天気予報のおかげで、教室では息がしやすかった。クラスの人たちは、予報が外れても、痛くしないから。 呼び方を僕から俺に変えた。 いつからだっただろう。たぶん、そのほうが変じゃないと思ったからだ。 中学では、誰とでも仲良くできた。相談されれば、相手がいちばん欲しい言葉を三秒で見つけられた。生きるのは思ったより簡単だった。 中二の夏、放課後に、クラスの女子に告白された。その時も、困らなかった。彼女は泣きながら、「そんな優しいところが好きでした」と言った。 優しくしないほうが良かったらしい。 帰り道、コンビニでアイスを買った。味がしなかったのは、たぶんソーダ味だったからだ。 教室の小さな窓から世界を見る時、ときどき思うことがある。 こんな世界、はやく消えてしまえばいい。 この気持ちを説明するには、自分はまだ幼すぎた。 高校の入学式で、起立の号令に遅れたやつがいた。三百人の中でひとりだけ、色が違う目線を送ってきた。 ただそれだけのことだった。でもなぜかずっと覚えている。 そいつ、宮崎青葉は、俺の後ろの席だった。 一年の六月。朝から気持ち悪い暑さの、梅雨の晴れ間だった。 放課後の教室で、袖をまくった。 青葉の目が、俺の右腕の内側で止まった。 天気予報を見た。いつもよりも慎重に。こいつは俺にどんな同情の視線や優しい言葉を投げかけるのだろう。大丈夫。今日もいつも通りだ。 「綺麗」 は? 綺麗。きれい。 青葉は、俺の腕ではなく色そのものを見ていた。窓の外で咲き残っている紫陽花を眺めるように、ただそこにある色に惹かれていた。 父の指の形をしたそれは烙印なのだと思っていた。誰にも見られてはいけないものだと。 そう思ってきた、はずだった。 誰かが勝手に話し出した。 「え? あー、これ? 昨日、ちょっとぶつけてさ」 我ながらよくできた生き物だなと思った。こんな状況でも息を吐くように嘘が出てくる。 「ぶつけただけなら、指の形にはならないと思う」 青葉は、声の軽さを一切変えずにそう言った。 天気が読めない。怖い。こわい。 秒針の音が、急に大きく聞こえた。そうだ。笑えば良い。何度も練習してきたあれを使えば良い。机に額を押しつけて、声を殺して笑った。何がおかしいのか、どんな顔ができてるのかなんてわからなかった。笑っておけば、みんな何もなかったことにしてくれる。 「僕から見たら、みんなの方が異物だから」 空気がない。 喉の奥で声が詰まった。息が上手にできない。 顔を上げると、目の奥が熱かった。 笑い涙だ。うん、そうだ。 青葉は、窓の外の紫陽花に目を向けていた。綺麗な横顔だ。世界になんの未練もないような表情。 なぜか心地良かった。 「でも、なんか……」 続きなんて出てこない。今話しているのは誰なんだろう。

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