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二 痣

六月の終わり、梅雨に脇役を押し付けられていた太陽が、久しぶりに主役に戻った日。 その日も僕は、放課後の教室に残って、いつものように本を開いていた。窓の外から、運動部のかけ声と、生き急いでいる蝉の声がする。黒板の上の時計の針が、やけに大きな音で時間を刻んでいた。 無機物だけの教室に未月が侵入してきた。 「青葉ー」 入学式から二か月が経ち、僕は彼のことを、心の中でだけ「未月」と呼ぶようになっていた。声に出したことは一度もない。ただ、その音だけは、なぜか僕の中で小さく響いた。彼の方は、教室では僕を「宮崎」と呼び、誰もいない場所でだけ「青葉」と呼んだ。 その呼び分けを意識したことはなかった。 「あ、やっぱりいた」 「別にいつものことでしょ」 未月は自分の机を覗き込んで、教科書を一冊取り出した。地学の教科書だった。鼻歌まじりにそれを鞄にしまって、そのあとも帰ろうとはしなかった。 自分の席に横向きに腰を下ろして、まだ少し慣れない手つきでネクタイを緩め、シャツの袖をめくる。あっつ、と独り言のように言った。一瞬、自分の声かと思った。 痣があった。彼の右腕の内側に。 青と紫をバケツで混ぜたような色だった。窓の外で咲き残っている紫陽花と、似ていた。痣はひとつではなかった。褪せかけた黄色と、まだ色の濃い新しい紫が、重なりあうように並んでいた。 指の形をしていた。 「綺麗」 何も考えずに、僕は言った。 未月の手が、止まった。 窓から吹きこんだ風が、今の言葉を隠すように、カーテンを一度だけ大きく膨らませて、またしぼませた。 彼はゆっくりと袖を下ろした。それから顔を上げて、笑った。教室でみんなに向けている、あの、取り繕った笑顔だった。 「え? あー、これ? 昨日、ちょっとぶつけてさ」 淀みのない声だった。何度も使ってきたかのような滑らかな言い訳だった。 「ぶつけただけなら、指の形にはならないと思う」 その笑顔が、一時停止した動画みたいに、困った形のまま止まった。 時計の音が聞こえなくなった。 僕が普通だったら、ここで何かを言えたのだろうか。大丈夫? とか。誰にやられたの、とか。なんかあったら話してね、とか。そういう言葉が必要な場面だということは、知識としては知っていた。 けれど僕は、人間にはなれていない。 だから、黙っていた。 未月は窓の外を見ていた。傾きはじめた日差しの中で、彼の顔の半分は真っ黒に塗りつぶされて、何も見えなかった。 「……誰にも言うなよ」 「僕が誰に言うの」 未月がこっちを向いた。 何かを確かめるように、じっと僕の顔を見つめる。瞬きもせずにずっとだ。目に見える情報を何一つ逃さないように、瞳の動きも、眉のかすかな揺れも些細な仕草も全てだ。標本にされた虫は、こんな気持ちなのだろうか。 やがて彼は、少し息を漏らした。 「お前さ、ほんとうになんとも思わないの?」 口調が少し荒い。 「うーん、痛そう?」 「……それだけ?」 「それだけ」 未月の目が、少し歪んだ。 涙腺を刺激してしまったかと思った。けれど彼は、机に額を押しつけて、声を殺して笑っていた。泣いてなくてよかった。泣かれたら面倒だ。 「はー……最悪。お前ほんと、人間向いてないわ」 「なれてた時なんかあったのかな」 「しんどくねぇの?」 「うーん、僕から見たら、みんなの方が異物だから」 未月の笑い声が止んだ。 遠くから秒針の音が聞こえてきそうだった。 僕は窓の外の紫陽花を見ていた。視界の端で、顔を上げた彼の目尻が少し赤くなっているのがわかった。泣いていたのか、別の理由なのか。それは、人間にしかわからない。 その時だけは、少しだけ人間になりたいと思った。 「でも、なんか……」 暑さでぼんやりしていた僕の頭に、彼の響きはノイズのようにこびりついた。 その日から、未月は放課後になると、教室にやってくるようになった。 でも何か話すわけではない。未月は前の席に横向きに座って、袖をまくったまま、ただ時間が過ぎていくのを待つかのようにそこにいるだけだ。僕は本を読んでいる。ページをめくる音と、秒針の音。それだけが教室を支配していた。 一度だけ、チャイムが鳴る前に本を読み終わった。そのまま立ち上がり、家に帰ろうとした僕の袖を、未月がつまんだことがある。 掴むつもりなんてなかったような、彼の細く白い指先が、何かに導かれるみたいに、そこを捕まえていた。振り払うのは、流しそうめんで、箸を出さずに素麺を見送るくらい簡単だったはずなのに。 「……あと五分」 目は合わない。どこを向いているのだろう。僕は黙って、椅子に座り直した。 なぜ? なんて聞かれても、答えることはできなかった。ただ、つままれた袖のあたりにだけ、僕を引き留める小さな熱が残っていた。 あとになって、気づいたことがある。 未月は、下校のチャイムが鳴り終わるまで、一度も先に帰ろうとしなかった。 ずっとそこにいた。 入学式の日もそうだった。 僕は、帰らなくてもよかった。 彼には、帰りたくない理由があるらしかった。 放課後以外では、彼は相変わらず太陽だった。誰からも好かれていて、どこにいても光っていた。 未月の光が届かないのは、いつもこの時間だけだった。 そこにいる未月は、少しだけ光が弱くて、何かを我慢しているようで、それでも、なぜか綺麗だった。 窓の外、今日も白い月が浮かんでいる。 あの頃の僕は、まだ何もわかってなかった。 彼がずっと、どこへ行きたがっていたのかも。 「青葉。俺さ――」 僕が彼の本当の願いを聞くのは、それから二年後の、変に涼しい夏の夜だった。

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