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一 月
赤井未月を初めて見たのは、高校の入学式だった。
パイプ椅子の軋む音。カメラのシャッター音。体育館には、新品の匂いと、床のワックスの匂いが混ざっていた。歓迎するかのように開け放たれた扉の向こうで、やけにピンクの桜が音もなく散り続けていた。
「新入生代表、赤井未月」
壇上に立った彼は、マイクの前で一度だけ会場と目を合わせた。
それだけで、三百人分のざわめきが、誰かが刺されたみたいに、しんと静まり返った。
心地の良い声だった。手元にある原稿らしきものには、ほとんど目を落とさず、ときどき大して面白くない冗談を挟んでは、硬くなっていた同級生たちをくすりと笑わせていた。保護者席の大人たちまでが、壇上の彼に目を奪われていた。
隣の席の女子が、「やば」と言葉を漏らしていた。
僕は壇上の彼の笑顔を見ていた。
綺麗だと思った。鮮やかすぎて、どこか人間らしさを感じなかった。
そんなつまらないことを考えているうちに、周りの世界が僕を置いていってしまった。
「起立」の号令を、僕は聞き逃していた。
三百人が立つ中で、僕ひとりだけ視界が違った。
慌てて皆に追いつこうとした時にはもう「礼」が終わっていて、結局遅れてひとりだけ頭を下げた。どこかで、くすくすと笑う声がした。
顔を上げると、壇上の彼と目が合った気がした。たぶん気のせいだ。
一年四組。僕の席は、窓際のいちばん後ろだった。小学生の頃、誰もが狙っていた人気ナンバーワン席だ。そのひとつ前が、彼の席だった。
「さっきの、ひとりだけ遅れてたの君でしょ」
振り返った彼は、開口一番にそう言って笑った。なるほど、これが笑顔が眩しいということか。近くにいた何人かが、つられて笑いだす。
「うん」
「すんなり認めるんだ、少しも言い訳しないなんて、なんか逆に自信あったりする?」
彼が肩を揺らして笑うと、張り詰めていた教室の空気が、ゆるんでいった。さっきまで互いの名前も知らなかった僕たちのあいだに、最初の笑い声が生まれる。彼はそういうことを、当たり前にできる人だった。
僕には、そんな素晴らしい機能は備わっていない。
人の感情は、僕にとって政治家の答弁みたいなものだ。
笑っている顔は見える。興奮している声も震えている声も聞こえる。でもその奥で何が起きているのかには、手が届いたことなんて一度もなかった。
ときどき、僕はこの先もずっと人間になれない気がする。人の形を頑張って保っているだけの、別の生き物なのだと。
それを寂しいと自覚したことはない。寂しいという気持ちがどんな形をしているかさえわからない僕に、そんなものは芽吹かなかった。
生きるという行為にも、とくに理由はなかった。ただやめる理由が見つからないから、続けている。世界が起きろと言うから起き、寝ろと言うから眠る。それだけのことだった。
放課後になっても、僕はすぐに帰らない。
家に帰る理由がないからだ。無機物しか存在しない教室で本を開いて、下校のチャイムが鳴ったら、それを閉じる。その時間だけ僕は無機物になれている気がした。
入学式の日、チャイムが鳴り終わって昇降口へ降りていくと、下駄箱の陰に、無駄に存在感があるものが立っていた。
「宮崎青葉」
最後にフルネームで呼ばれた記憶があるのはいつだっただろうか。
彼だった。下駄箱に肩幅のある背中を預けて、外の光を眺めていた。式が終わってから、もう何時間も経っている。新入生代表がこんな時間まで何をしていたのか。そんなことは、考えもしなかった。
僕たち以外の音はこの世界には存在していなかった。
「名前……」
「前の席だし、今日も話したし、覚えてない方がおかしいでしょ」
彼はそう言って、少し不思議そうに首を傾げた。
教室で見た、お手本のような笑顔は、そこに張り付いていなかった。空っぽ、というのとも違う。ただ、身構えるのを少しだけやめた顔だった。
「青葉、お前ってほんとに鈍臭いよな」
教室で聞いた声よりもずっと無機質だった。
「人間向いてないよ」
今、ひどいことを言われているのだろう、と思った。僕が普通だったならここで腹を立てて、見向きもせずに帰ったかもしれない。もしくは、彼の胸ぐらに掴み掛かったかもしれない。
けれど、僕の中にはなんの変化も起きなかった。鳥が鳴いても、たいていの人が気にも留めないように、人の声は、人の形をしているだけの僕には響かない。だから、脳の信号を介さずにそのまま答えた。
「うん、そう思うならそうかもね」
彼は一瞬だけ、猫騙しを食らったような表情をした。こんな表情もできるらしい。
それから、息だけで笑った。壇上とも教室とも違う血の通った、少し寂しそうで、ほっとしたような笑い方だった。
「……友達になってあげる」
彼は下駄箱から背中を離すと、音がある世界に出て、空を見上げた。僕も、同じ方を見た。
暮れはじめた青い空に、こちらを覗くように白い月が浮かんでいた。
「あ、月だ」
「昼の月って、気づかない時の方が多いんだよ」
彼は、まるで月からこの世界にやってきたみたいに、目を細めた。
「あれって、自分では光ってないんだって。太陽に照らされているだけ。……それでもちゃんとそこに存在していて綺麗なの。なんかずるくない?」
ずるい……どういう意味かよくわからなかった。
月はただ、静かに、薄く、そして少し不気味さを孕みながら僕らを見ているだけだった。
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