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第1話
顔馴染みの騎士に剣を向けられ、テオ・キングスリーは声を絞り出した。
「どうして……」
わかってくれないんだ、と続く言葉を飲みこんだ。騎士の表情からテオを憎んでいるのが嫌でもわかる。
(僕は嫌われ者の神子なんだ)
改めて自分の立場を実感するのは辛いものがあるが、テオには泣いている時間はないのだ。
「テオ!」
「レジナルド様……」
テオと騎士たちの間を絶つようにレジナルドは馬を止めた。満月を背にし、堂々とした姿は魔王としての威厳がある。騎士が気圧されるように一歩引いた。
その隙にレジナルドに引っ張られテオは馬上に乗せてもらうと、ぐんと視界が高くなる。遠くの大聖堂までよく見えた。
小さいころから通い慣れた大聖堂の広場には火の手が上がり、騎士と悪魔が激しい戦いを繰り広げているのだろう。きんと剣同士がぶつかり合う音が風に乗って聞こえてきた。
地獄絵図のような光景に、恐怖で身体が震えてしまう。
でもテオは目に焼きつけなければならない。瞬きもせずにいると目が段々と乾いてきて、涙が一筋頬を伝った。
「泣いているのか」
背中の体温に重みが増す。恋人 レジナルドの声に振り返り、テオは小さく首を振った。
「これは僕が受けなければならない罰なのです」
「テオ」
悲痛さを滲ませる声音にテオの心が温まる。自分の痛みに寄り添おうとしてくれる恋人に、また愛しさが膨れた。
その様子を見た司教が顔を真っ赤にさせている。
「絶対に逃がさんぞ! 追え!!」
頬を叩かれたような怒声にテオはきゅっと瞼を閉じた。
長年虐げられてきた心が「早く戻ろう」とせっついてくる。
けれどテオの小さな身体を後ろから抱きしめてくれる恋人の存在を思い出し、踏みとどまれた。
「テオ、大丈夫か」
レジナルドの声にテオは瞼を開ける。満月を背にした美しい魔王は、尖った犬歯を覗かせた。
テオは頷き返し、大きく息を吸った。
「僕は闇落ちします!」
この世には人間界と魔界の二つが存在している。
人間界には人間や動物が住み、地下深くに住む魔界には魔王とそれに順ずる悪魔が存在していると言われていた。
魔界は日の当たる人間界を憎み、怨念のように瘴気を送る。黒い霧のような瘴気は人間や動物が吸うとたちまち弱ってしまうのだ。
瘴気に対抗する勢力として、人間界は神子を誕生させた。
生まれながらにして聖力の高いテオの一族ーーキングスリー家が神子としての役目を代々継いでいる。
そして現在、リムガール王国の神子はテオただ一人だけだ。
「これで終わりっと」
テオは雑巾をバケツに放り、顔を上げた。大広間の床はくすみひとつないほど綺麗に磨きあげた。これで突然パーティーを開くと言われても文句は言われないはずだ。
壁に飾られている絵画や壺などの調度品の数々が、陽光を浴びてその美しさを際立たせている。
テオは満足気に大広間を見渡し、捲っていた袖を戻した。バケツを持ち上げると汚れた水に映る自分の顔と目が合う。
テオの髪は、キングスリー家のみ受け継ぐ白に近い銀色をしている。アクアマリンの瞳を縁どる睫毛が密集しており、丸顔のせいで女に間違われることが多い。
髪は耳にかからない長さと教会に決められ、服は白いタバードに神子を示す天使の羽根が刺繍されたもののみ着用が許されている。
この恰好をしていれば、幼子が見ても神子だとすぐわかるのだ。
テオはバケツの水を捨てるため、庭園に向かおうと廊下に出た。先が見えないほどの廊下の長さはいつ見てもゲンナリしてしまう。
キングスリー家の屋敷は広い。
爵位はないものの、神子のという唯一の家系のため国から多額の援助を受けている。
屋敷や食事、衣服、調度品に至るまでそこらの貴族よりもうんといい暮らしをさせてもらっていた。
だが戒律に縛られているテオには、そのほとんどの恩恵を受けられていないので意味はない。
それに幼いときに母を亡くしたテオは、母の妹ーーキングスリー家の現当主であるフィルタに引き取られたが、使用人のようにコキ使われている。
神子の立場は権力がない。神の使いというだけで、他の修道院たちと同じくらい身分は低いのだ。
(憂いても仕方がない。祈りの時間までに全部終わらせないと)
廊下の窓から差し込む日差しはもうすぐ春になると告げていた。心地よさにテオはうっとりと目を細める。
温かくなれば水仕事も辛くない。
テオはあかぎればかりの指をそっと撫でた。
(寝る前に新薬を試してみよう)
数少ない楽しみを胸に抱いているとカツンと無機質な音にテオは視線を向けた。
「まだあなたはこんなところにいるの!」
フィルタの金切り声が廊下に響く。彼女は長い銀髪を振り乱し、羽毛の装飾がされた扇子を口元に広げた。
母と同じライラックの瞳は憎悪の炎が燃え盛っている。
「早く大広間の掃除を済ませない! 姉さんに似て本当グズなんだから」
きんと響く叫び声にテオの心が縛りつけられた。
長年フィルタに虐げられてきたせいで、テオは心を閉ざし、自分を護るようになった。いつしか感情を表に出さない癖がついたのだ。
テオは波音を立てないようにゆっくりと口を開く。
「もう終わっています」
「……なんですって?」
フィルタは片眉を上げた。テオは慎重に続ける。
「ちょうどいま大広間のお掃除を終えました。庭掃除と洗濯物も干してあります。あとアフタヌーンティーにスコーンとサンドイッチを用意していますが、どちらがよろしいでしょうか?」
テオが一息で言うとフィルタは目尻の皺が伸びるほど大きく見開いた。
(なにかまだやってない仕事あったかな)
テオは頭の中で古びたリストを引っ張り出した。
テオの日課は神子になった七歳のときから変わらない。
日が昇る前に森を見回り、洞窟の結界を張り直し、大聖堂で祀られているモーリュに祈りを捧げ、朝市で買い物を済ませてから屋敷に戻る。
庭園の掃除と洗濯、朝食の用意と昼食の準備、それから屋敷全体の掃除をして、夕方また森を見回り、モーリュに祈りを捧げて夕食の支度をして眠る。
その繰り返しだ。
(忘れたことはなにもないはず)
そもそもこの生活サイクルを十二年やっているのだ。身体に染みついてしまい、忘れたくても忘れられない。
(それとも僕が知らない間に他の仕事を申しつけられていたのかな)
キングスリー家にも使用人はいる。だが最初からテオのことを毛嫌いしている節があり、近づくだけでも睨まれてしまう。
だから仕事は盗み見て覚えたのだ。
だがどれだけ仕事をこなしても、使用人からはいい顔をされない。
わざと汚れ物の洗濯だけ残されたり、錆びた包丁で調理をさせられたりと嫌がらせを受けている。
それくらいなら大したことではない。
なによりフィルタからの言伝を伝えられないのが一番堪える。
頼まれごとの一つでも取りこぼしたら、フィルタは悪魔の首を取ったかのようにテオを詰り続けるのだ。
伺うようにフィルタを見つめていると彼女は肩を小刻みに震わせた。
「またそうやって使用人たちの仕事を奪って楽しんでるのね!」
「そんなつもりはございません」
「あなたはいつもそう。人の邪魔をして喜んで。その性格の悪さは姉さん譲りね!」
金属がぶつかり合うような声音にテオは眉一つ動かさずに耐えた。
感情を表に出したらフィルタの思うつぼだ。
母親の名前を引き合いに出してまでテオの揚げ足を取ろうと必死なのだろう。
それほど嫌われているのに屋敷に置いておくのは、神子であるテオに支給される援助金目当てだ。養子に貰われたときに言われている。
フィルタは唯一の血縁ではあるが、テオに対しての愛情は欠片もない。
フィルタはふんと鼻を鳴らせた。
「やることがないなら、さっさとわたくしの視界から消えてちょうだい!」
「……わかりました」
テオはフィルタに一礼をしてから廊下を走った。
(どうしていつもこうなんだろう)
よかれと思ってやったことがすべて裏目に出てしまう。まるでそう決められているかのようにテオの行く先は茨の棘が生えている。
だが現状に憂いていても瘴気は待ってくれない。テオはタバードの合わせ目をぎゅっと握った。
(そろそろ夕方の祈りの時間だし、モーリュに祈りを捧げていれば気持ちが落ち着くよね)
テオはバケツを片付け、夕食までに戻れるよう大聖堂へと急いだ。
リムガール王国の城下町は近隣国の中でも随一を誇る賑わいだ。
それもこれも瘴気の影響が少なく、作物が育ちやすいためである。
各国にいる神子の力は年々弱まり、瘴気を抑え込むことができずに国が滅亡していると聞く。
その場は治めることができても、半日もすれば瘴気に覆われてしまうのだ。その頻度は日に日に増えていき、テオは一日に二度モーリュに祈りを捧げている。
テオが大聖堂へ向かって城下町を歩いていると白い髭をたくわえた老人に声をかけられた。
「テオ様、孫の熱が下がりません」
「それでしたらこちらの薬草を飲ませてください」
テオがポシェットから薬草を一つ取り出すと、老人は驚くほどの速さでポシェットごと奪った。追いかける気力もなく、テオは小さくなる背中を見送る。
(また盗られちゃった)
テオが再び歩き出すと今度は商店の女将に声をかけられた。
「テオ様、ここ三日ほど雨が少なく作物が枯れてきています」
「それでしたら今朝雨の儀式を済ませました。明日には雨が降ると思いますよ」
「明日じゃ困ります! 今日にでも降ってもらわないと」
「……すいません」
「まったく使えない神子様だわ!」
女将は顔を真っ赤にさせて、店に戻って行った。
その後ろ姿を見送り、テオは小さく息を吐く。
テオが城下町を歩けば国民から頼まれることが多い。薬の製薬から作物の育ち具合い、喧嘩の仲裁など様々だ。
正直なところ神子の領分を越えている。
神子はモーリュに祈りを捧げ、瘴気を払うために存在しているのだ。
製薬は薬師が、雨降りの儀式は祈祷師の仕事である。喧嘩の仲裁など騎士団に任せればいい。
ではなぜテオに頼んでくるのか。理由は簡単。金がかからない、それだけだ。
薬草は相当な技術と知識が求められるため高額になり、一般国民では気軽に手を出せない。
祈祷師もまた長年の修行をしなければならず、頼むにも金がかかる。
騎士団を呼ぼうものなら謝礼として金貨を払うのが礼儀とされていた。
神子は神の使いのため、金は受け取れない。
だから国民は厄介ごとを全部テオに押しつけてくるのだ。
国民のためならばとテオは母親が遺した製薬の本を読み漁り、祈祷師としての修行を積んできた。
だがテオの努力は虚しく、使うだけ使われて感謝の言葉などかけてもらった試しもない。
それもこれも歴代の神子の中で一番聖力が低いからだ。
テオが歩き出すとヒソヒソとした話し声が聞こえてくる。
「ほら、神子様よ。また大聖堂に向かうんだわ」
「あんなに何回も通いつめて……自分の能力がないと言ってるようなものじゃない」
「まったくだわ」
心無い言葉はいつだって容易くテオの心に深い傷をつくる。
テオはみんなが暮らしやすいようにしたいだけだ。身を粉にして尽くしているのに、どうして後ろ指を刺されないといけないのだろう。
視界がくらりと歪み、テオは壁に手をついた。
(母様……)
歴代最強と言われた母を持つテオは、亡き母を思い浮かべて自分を慰めた。泣きでもしたらまたなにを言われるかわからない。
感情を殺し、表情をなくした。そうすれば痛みも悲しみも薄れていくような気がする。
テオが振り返ると噂をしていた男女はすぐにそっぽを向いて雑踏の中に紛れてしまった。周りを見るとテオと国民たちの間は見えない壁に阻まれているように距離がある。
(まだ努力が足りないのかもしれない)
もっとみんなのために知識を増やして、役に立ちたい。
そうすればみんなが認めてくれるはずだ。
テオが大聖堂に着いたときにはアフタヌーンティーの時間になっていた。
(フィルタ様はきちんと食べてくれたかな)
テオは屋敷の方角に視線を向けた。高台の大聖堂からは街全体を見渡すことができ、テオが愛している風景だ。
さっき通った城下町から活気あふれる声が届く。さらに視線を北側に向けると森が見え、薄っすらと黒い靄に覆われていた。
瘴気は森の洞窟から流れてくる。わずかだが瘴気が街に迫ってきている気配がしていた。
(急がなくちゃ)
テオは駆け足で階段をのぼった。
大聖堂は聖職者しか入れない内陣と信徒が集まる外廊の二つに分かれている。テオは迷わず奥の内陣へと向かう。
ステントグランスから漏れる日差しが床に伸び、海の中にいるような澄んだ青色に満たされている。
日差しの角度によって現れるほんのひと時しか見られない幻想的な風景だ。白を基調とした内装のお陰でより青さが引き立っている。
内陣の一番奥には神の石像が置かれ、それを取り囲むように聖具が並べられている。石像の前には洗礼盤があり、その上にモーリュが鎮座していた。
モーリュは聖石だ。神子が祈ることで力を解放し、瘴気が襲ってこないよう街に結界を張ってくれている。
いわばテオの相棒と言ったところだ。
だがモーリュは熊ほどの大きさがあり、持ち運ぶことはできない。
だからこうして一日に二度、大聖堂に来て祈りを捧げなければならないのだ。
テオはモーリュの前に跪き、手を組んで祈りを捧げた。するとテオの身体は淡い光を放ち、陽だまりのような温かさに包まれる。
呼応するようにモーリュは眩い光りを放った。街に覆われている結界がさらに強まり、こした水のように空気が澄んでいく。
テオは頭上にあるモーリュに視線を向けた。
後ろにある神の石像が透けて見えるほどくすみのないモーリュは、役目を達成できて凛と胸を張っていた。
「今日もありがとうございます」
テオが感謝の言葉を述べるが、もちろんモーリュは答えてはくれない。それでもモーリュがあるからこそ、聖力の弱いテオでもリムガールの民を瘴気から護ることができる。
どれだけ感謝しても足りないくらいだ。
けれどモーリュの力をもってしても完全に瘴気をなくすことはできない。
瘴気は魔界からくる。魔界を滅亡させないことには、人間界に平和は訪れないのだ。
悪魔がリムガールを襲ってくる頻度が多いのだ。
ほとんどテオ一人で対処できるので司教には報告していないが、向こうが勢力をつけてきたらどうなるかわからない。
いまはまだテオの方がやや優勢であるため、内密にしている。
テオの視界がまた歪んだ。額から大粒の汗が流れ、顎に伝った。
長年の封印でテオの身体は悲鳴をあげている。
(それとも僕の聖力が弱まっているのかな)
ずっと懸念していたことがテオの頭を過る。再び修行を積むべきか。
けれどテオ以外の神子はこの国にはいない。自分が一時でもここを離れたらたちまち瘴気に溢れ、リムガールが滅亡する未来を容易く想像できてしまう。
「気が抜けているぞ!」
頰を叩かれたような怒声にテオの背筋ピンと伸びる。
「司教様」
「いつもより遅いではないか。街が瘴気で汚されていたではないか」
「申し訳ございません」
テオは頭を下げた。いつもより多く用事を押しつけられてしまったせいだ。だがもちろん言い訳などはしない。
テオは無表情を貫き、ゆっくりと顔を上げた。
司教はどしどしと足音を鳴らしながらこちらに近寄ってくる。つんとするアルコールの匂いが鼻をついても、眉一つ動かしてはならない。
「おまえは本当に力が弱いな。半日空いただけですぐ瘴気が溢れる」
「それは瘴気がーー」
「言い訳をするな! 先代の方がまだマシだったぞ」
そう言われてしまっては言い返せない。
ジェシカは、毎日モーリュに祈りを捧げなくても瘴気に脅かされることなく、平穏に暮らせていたらしい。
ジェシカはテオを産んですぐに亡くなってしまった。テオが力を顕現させる七歳までは金で雇った他国の神子に護ってもらっていた。
だがいまは他国も手一杯なので、どんなに金を積まれても神子を渡すわけはないだろう。
(母様は本当にすごい神子だったんだ)
肩を落とすテオを見た司教は太った腹を揺らし、奥へと引っ込んで行った。大方これからまた酒でも飲むのだろう。
司教を始めとした修道士たちは厳しい戒律に縛られている。神に清貧、貞潔、服従を誓う修道誓願を立て、俗世との関わりと一切絶つというものだ。
それは神子であるテオも同じである。
だが司教は戒律を破り、酒や女に賭博とあらゆる悪行に手を染めている。叩けば出てくる埃のように探ればもっとあるかもしれない。
けれどそんな司教の悪行を国王は許している。
司教は国王と同等の権力がある方だ。国王が容認していることを、ただの神子であるテオが口答えできる立場ではない。
ふとモーリュに視線を戻すと黒い翳りがちらりと見えた。だがテオが瞬きをしている間に消えてしまい、元の光輝く聖石に戻っている。瘴気の気配もない。
「気のせいだったかな」
テオは足取りが覚束ないまま、大聖堂を後にした。
陽は傾き始め、肌寒い風がテオの頰を撫でていく。春の足音が遠ざかり、冬に逆戻りだ。
夕刻になってもテオの日課は終わらない。
次は森の見回りだ。瘴気の発生源である洞窟を封印し直さなければならない。
テオが森へ続く街道を歩いていると、祈りを捧げているアンガー夫妻を見かけた。向こうもテオに気づき、二人は揃って頭を下げてくれる。
「テオ様、ミネは……」
「すいません。まだ」
「……そうですか」
アンガー夫人は肩を落としてしまい、主人が背中を撫でて慰めていた。
痛ましい二人の姿にテオは自分の無力さに奥歯を噛んだ。
アンガー夫妻の子はミネという女の子だ。目のぱっちりした可愛らしい少女で、テオも何度か見かけたことがある。
だが十二年前、五歳だったミネは突然姿を消した。死体が出てこないことから魔界に連れて行かれたのではないか、と大人たちは疑っているらしい。
森の洞窟は魔界へ続いている。
だから最後にミネを見かけた森の入口でアンガー夫妻は、娘が帰って来るのをずっと待っているのだ。
森を見回るたびにテオはミネの痕跡を探すが、手がかり一つ見つけられていない。
(僕が母様のような立派な神子だったら、違ったのかもしれない)
テオはぎゅっとこぶしを握った。
「必ずミネさんを探してみせます」
「お願いします」
一縷の希望にかけるように夫妻はテオに頭を下げてくれた。
アンガー夫妻と別れ、テオは森に足を踏み入れた。
森の地形は完璧に頭の中に入っている。洞窟の場所もすべて把握しているが、新たにできることもあるため森の隅々まで見回らなければならない。
慣れた道を奥へと進んでいくと獣の匂いが濃くなる。
テオは周囲をぐるりと見渡し、人の気配がないことを確認してから手を空に向けた。
「みんな、おいで!」
テオの呼び声に隠れていた熊や狼、猪、兎やリスが一斉に出てきて駆け寄って来る。頬を舐められ、手を甘噛みしてくるが、一匹残らず丁寧に頭を撫でた。
「悪魔は来ていない?」
テオが問いかけると狼が大きく頷いた。この森のリーダーで人間の言葉を理解できる賢い雄の狼だ。グレイと呼んでいる。
グレイの毛色はチャコールグレーで口周りだけ白い。きりっとした目の色は琥珀色で、光の角度によっては金色にも見える。
テオは鼻先を撫でてやるとグレイはうっとりと目尻を下げた。
普段は凛としているが、テオの前では子犬同然になるのだ。
「じゃあ一緒に見回ろうか」
グレイはウーと吠えるとテオの後ろに動物たちが整列した。兎やリスはテオが抱っこをして、グレイや猪、熊がのしのしとついてくる。
修行を始めた五歳のとき、森を見回っていたら自然とグレイたちが近寄ってきて仲良くなれたのだ。
人の言葉を話さないが、心は通じ合えている。テオにとって家族のように大切な存在だ。
グレイたちと森を見回るのは、テオの数少ない心休まる時間でもある。
しばらく歩いていると小さな洞窟を見つけた。そこから黒い霧が薄っすらと空に伸びている。だが煙の先はまるで空気を切ったかのように不自然な形で途切れていた。
瘴気の特性だろう。
「また結界が解けてる」
昨日結界を施したばかりだが、瘴気が漏れていた。このまま放っておくと結界は破れ、大量の瘴気がこちらにきて、人々の命を奪ってしまう。
「グレイたちと待っててね」
兎とリスをグレイの背中に乗せ、テオは祈りを捧げた。結界の魔法陣が淡い光りを放つと裂け目から漏れていた瘴気がぴたりと止む。
「うっ……」
膝に力が入らなくなり、テオはその場で跪いた。目を瞑っても頭がグラグラする。
そんなテオにグレイが鼻先で突いた。
「クゥン」
「ごめん、もう大丈夫だよ。あと半分頑張ろうね」
他の動物たちもテオに身体を寄せてくれるので、また撫でてあげた。
温かくて木の実の甘い匂いがするとほっと心が解れていく。
テオが立ち上がるとグレイの三角耳がぴくりと反応した。辺りを警戒し、低く唸っている。熊や猪たちも同じように牙を剥き出し、兎とリスは縮こまってしまっている。
「どうしたの?」
グレイに訊ねると彼は森の奥を睨みつけた。
テオが意識を集中させると強い瘴気を感じ取れる。これほどの強さはただの瘴気ではない。もしかして悪魔が人間界に足を踏み入れたのだろう。
時々大きく空いた洞窟の裂け目から悪魔がやってくることがある。
悪魔は全身真っ黒で頭はボールのように丸い。目も耳も口もどこにあるのかわからず、かなり不気味だ。
その悪魔が人間界に足を踏み入れてきたなら、倒すのが神子の務めだ。
だが今回ばかりは瘴気が強すぎる。悪魔一人ではないのだろう。もしかして多くの悪魔が一斉にこちらに来たのだろうか。
(まさか戦争を仕掛けに来たのかな)
人間界と魔界は一度も争ったことがないのだ。
薄皮一枚を隔てた地下は得体が知れないので、むやみやたらに煽りたくない、というのが国王と司教の考えらしい。
けれど瘴気という毒を送り続けることから、魔界は人間界に相当な恨みを持っているだろう。
騎士団に連絡をするか悩んだが、現状を確認しなければ報告もできない。
気配を消しながらテオたちは歩を進めると木々が生い茂り、陽の光が届かなくなってくる。視界が悪いためグレイたちの嗅覚が頼りだ。
テオが慎重に進んでいると少し開けた場所に新たな洞窟ができていた。黒い靄が風に乗って大きく左右に揺れている。
「また裂け目が……ん?」
洞窟の前で男が倒れていた。
男に気がついたグレイは歯茎が見えるほど白い牙を剥きだしている。いまにでも噛みつかんばかりの彼を宥めなければ、と思うのにテオの心は男の容姿に奪われてしまった。
鴉のような黒髪は腰に届くほど長く、一つに結われている。顎が細く、鼻梁がすっきりとした顔立ちのかなりの美男子だ。閉じられている瞳は何色なのだろう。髪と同じで黒曜石のような色をしているのだろうか。
あまりにも美しい男の姿にテオはある人物の顔が浮かんだ。
「エドバック騎士様……」
男の容姿は、テオが愛してやまないロマンス小説「令嬢と騎士の恋物語」に出てくる騎士にそっくりだ。
エドバック騎士は金髪碧眼ではあるものの、聡明な顔立ちと筋肉隆々な身体つきは彼を彷彿とさせる。
(確か二人の出会いもこんな感じだったよね)
テオは本の内容を思い出した。
公爵家令嬢であるサティは、森を散策していると偶然傷ついた騎士を見つけた。隠れて介抱していたが、実は敵国の騎士だと知る。
娘の行動を怪しんだサティ令嬢の父は、二人を引き離してしまう。
だが二人は戦争の真実を暴き、悪の組織を一網打尽にし、最後は結婚するハッピーエンドだ。
そのときの濡れ場のエロティックさも思い出してしまい、テオの頭がぽんと熱くなった。
「グルルル」
グレイの唸り声にテオははっと我に返った。呑気に物思いに耽っている場合ではない。
テオはグレイの首をやさしく撫でた。
「待ってグレイ。この人、怪我をしている」
よく見ると男の頬や身体に切り傷がある。真っ黒い軍服なので血の量までは把握できないが、袖や裾を切り裂かれた箇所は多い。隙間から見える肌から赤い鮮血が滲んでいる。
しかも男は気を失っている。規則的な寝息が聞こえるが、時折くぐもった声を漏らしていた。他にもどこか怪我をして、かなり痛むのかもしれない。
テオは男の身体から顔を上げた。
「手当てをしよう。グレイ、そこのセーフティハウスまで運んでくれる?」
グレイは嫌そうに顔を歪めたがすぐに頷いてくれた。瘴気が漏れている洞窟をすぐ封印し、テオたちはセーフティハウスへ移動した。
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