1 / 3
Prologue 遠き場所での白骨遺体発見、ニューオーリンズの遠い記憶
Epilogue
2026/3/4 Sunday 10:28
ニューヨーク州 モンロー郡 ロチェスター
持っていたスマホは、俺の手から転がり落ちた。咄嗟に反対の手で取ろうとしたが、無理だった。ほぼ完全に、平行に落下。モニタ面から床にぶちあたった嫌な音が響く。
彼を起こさないでくれ、と通りがかりの神に願ったが、
「……キリル?」
──だめだった。そこまで細かなサーヴィスをしてくれる神が、その辺を歩いているわけがない。ましてや、俺のそばなんかに。
「どうした?」
グレイスはすぐに身体を起こし、寸前まで眠っていたのが嘘のようにすっきりとした顔で俺に問いかけてきた。眠気とは縁がないのだ、とでも言いそうな顔。この男も深く眠ることなどないのだろう。俺と同じく。
「……なんでもない。手が滑っただけ。起こしてごめん」
「全然。なにか驚くようなニュースでもあった?」
勘がよすぎる男に嘘をついても仕方がない。俺は一瞬で諦めた。
「まあ……そう。そんなかんじ」
アパートメントの二階。外から子供たちの楽しそうな声が聞こえる。ジェネシー川に沿う道を、家族連れが歩いているのだろう。窓を閉め切っているのに、彼らの声はここまで届く。この部屋だけまるで違う世界のように感じても、ただの錯覚だ。世界はきっちり繋がっている。窓ガラスやこの薄い壁くらいでは仕切れない。
「どこのニュース?」
「……ニューオーリンズ」
グレイスの表情が0.1インチだけ変わる。次に言う台詞はもう知っている。『その土地の話はしたくないな』だ。
「その土地の話はしたくないな」
正解。不機嫌そうな顔には見えない。そういう方法で俺を責めることはない。ただ、心だけが思い切り不機嫌になる。
「だから……なんでもないって言ったんだ」
「そうだけど。俺がニューオーリンズの話をしたくないのと、あなたがなにかのニュースを見たのとは、別のことだろう? 俺はキリルに少しでも嘘をつかれると悲しいんだ」
「……ごめん」
「違う。キリルが謝る必要はない。俺が悪い。黙っていられない」
「黙っていなくていい。言ってくれたほうが……安心する」
それは事実なのだ。できれば目覚めてほしくないとは思ったが。
「うん。ありがとう。……こっちにおいで。仲直りしよう」
「仲直りって……喧嘩したわけでもないのに」
──これから、なにをするのか
「うん。でも、来てくれ。そんな遠くにいてほしくない」
「…………」
──よく知っている。繰り返してきたことだから
「キリル」
「……ああ」
「服は、いらないね。着たばかりだったら申し訳ないが」
これっぽっちも「申し訳ない」などと思っていやしないくせに。
それも知っている。繰り返されてきたことだから。
「別に。服なんて何度でも着るし、脱ぐものだ」
「確かに。じゃあ、脱いでくれるかな?」
──それでも、慣れない。
慣れることができない。
胸のボタンを外していく。ブラックのワイシャツ。立ち止ってジーンズも脱ぐ。ジーンズもブラック。つい暗い色の服ばかり選んでしまう。下着も脱ぎ、床に投げ捨てる。これで、肌を隠すものはなにもない。三月。外は寒いが、室内はヒーターのおかげで暖かい。
それでも俺の手が震えるのは、室温のせいではない。
「あなたは……本当に綺麗だな」
「……ん……いつも褒めてくれて、ありがとう」
「ご機嫌取りに褒めてるんじゃない。本心だ。初めて抱いた日と変わらない。俺の方が年下なのに、最近はもう、そうは見えないだろうな。同じ齢か、あるいは俺が年上に見えるか。俺は昔から老けて見えるタイプだしね。……いいよ、あなたは。すごくいい」
男が言う。満足げに。
「……まさか。あれから……十四年は経つ、だろ」
声が揺れないように喋る。無駄な抵抗だが、噛りつきたいプライドがある。缶の底にへばりついたホーメル・スパムみたいに情けなくとも。
「奇跡のようだ。あなたは、俺の世界の、奇跡」
「…………」
この詐欺師に愛されることは
俺自身が願ったことであり、願い続けていることだから
──だから、どんなに時が過ぎても、慣れない。忘れられない。人間が空気に慣れ、忘れられるのは、空気を願っているわけではないから。空気を乞い続けているわけではないからだ。
グレイスがいるベッドまでは、ほんの数歩。なのに、ひどく時間がかかる。息が乱れ、鼓動が激しくなる。うるさい。鎮まってくれ。頼むから静かにしてくれ。
だが、無理だ。頼んだって駄目だ。
その手に触れられると、もっと。舐めるように見られると、もっと、もっと。
「キリル……勃起してる。興奮した? 脱いだだけなのにね」
「……」
「違うか、失礼。脱いだんじゃないな。脱がされたんだ、俺に」
「──グレイス……」
「ああ、もう欲しいんだね……可哀想に。そんなふうに我慢させるのは俺もキツい。いいよ。たくさん弄ってあげる。俺に尻を向けて。あなたは俺のをしゃぶってくれる?」
眉の端を下げ、心から同情しているように言う。
勃起に同情? ……でもそうなのだ、欲情して震える俺に同情し、たぶん、本当に可哀想だと思っている。その一方で、口元は笑っている。たっぷりとした唇が少しばかり引き上がり、楽しさや好奇心を隠せない。
こんなふうに、恋人の表情にはいつも、幾つもの感情が存在している。それぞれが巧いこと折り合いをつけているらしく、どれが本物か、どれが偽物か、どんなに近くで見ても見分けがつかない。わからない。俺の視力が片方しかないせいか。全部本物で、全部偽物なのかもしれない。この男が生まれながらの詐欺師と知っていても不思議だ。俺には絶対に真似できない。
愉楽とぶつかった哀情はどうなる?
悲哀とぶつかった悦楽はどうなる?
溶けて混じって、それでいて感情の持ち主は狂わないのだろうか。
どんなに考えても答えのない問い。これ以上こだわっても仕方がないから、言われた通りベッドに乗る。このランクの部屋には似合わない、上質なベッドマットレスのスプリングが、音もなく俺を迎えてくれた。ブランケットを捲り上げ、男の顔に尻を向けて身体を跨ぐ。彼は全裸だ。俺の目の前には、春を夢見てぐっすり眠る大蛇のようなペニスがある。
いつもの通り、ここまではなんの反応も見せない。
両手で握り込み、ペニスの先に口付けする。それが合図であるかのように、俺の手のなかのものは急激に芯を持ちはじめた。口のなかに唾液を溜め込み、ペニスに垂らす。グレイスが喜ぶやりかただ。グレイス自身にも水滴が触れて垂れていくのがわかるくらい、たっぷりと落としてやった。
俺の尻を摩っていた手が、ぴたりと止まる。肉を鷲掴みにし、じっとしている。再び、動く。ひどく愉快なようだ。表情よりよっぽど饒舌な指先。
「……キリルは焦らすのが巧いね……すごく、いい。今日はどうした?」
それには答えず、また唾液を落とす。ペニスの先に舌をあてる。ねっとりとしつこく同じ場所だけで動かし、先走りが滲み出てくるのを待つ。
この手のなかのものは、まだまだ大きくなる。まだまだ硬くなる。突っ込まれるその瞬間を思い出すと、眩暈がするほどの悦びに包まれる。身体のなかから抱かれる悦びだ。ほかの男では決して味わえなかった。
物静かな恋人が持つ凶暴さ。彼の影の部分の具現化。この身を深く貫き、我を失わせ、心を裂くもの。それを、俺は自分自身で育てている。
三日前。三月一日。
ルイジアナ州ニューオーリンズの南部の湿地帯で、白骨化した死体が発見された。DNA鑑定の結果、合衆国内における登録済みのデータと照合できるものはなかった。つまりこの人物は、少なくとも国家レベルのデータベースに残るようなトラブルには関わってこなかったということだ。
死体の身体的特徴と装身具から、十四年前に行方不明となった青年と推測される。装飾品はなし。土壌と共に流れた可能性も大きい。衣類とベルトについては一部が残存。歯の治療痕は確認できず。死体発見現場は湖や河川に囲まれており土壌水分量が多いため、死体の損傷が進みやすかったと考えられる。
死因については今後も調査を要する。事件、事故、双方の可能性あり。遺族については消息不明。関係者のみに被害者及び遺族の名を公開し、一般からの情報を求めている。
このまま消えても、誰も困らない事件だ。白骨化した死体よりは、血肉が残った死体を調べたいし、救いたいだろう。魂の距離が違う気がする。
ぐちゅ、と腹の奥が掻き混ぜられる音がした。いままでよりも一層大きな音だ。そのぶん、身体にも強く響いた。力が抜ける。喉まで押し込んでいた巨大なペニスがぬるりと逃げた。
「……あっ、う」
「ねえ、キリル……なにを考えている?」
「……なにも……──んぁ!」
「本当かな」
「……コレのことしか、考えてない……、もう……はやく」
「ディルド、使おうか。入れながらフェラしてあげるよ。好きだろ?」
「しなくていい、おまえのがいい……どうせそうやって俺をイかしまくって、拷問みたいな真似するんだろ? しつこい男は好みじゃない」
──俺たちを取り巻く空気の質が変わる。
ひょいと持ち上げられて、正面から男に向き合う。彼は、親の機嫌を見る子供のような顔をしていた。
「落ち込むなよ、グレイス」
「……だって、キリルの好みじゃないって」
しょんぼりした恋人の頬を撫でてやる。ちくちくと小さな髭が手のひらを刺す。
「あのな、質問がしつこくなきゃいいんだよ。気が狂うようなセックスはむしろ好みだから」
「本当に?」
「ああ。おまえは俺が俺好みに育てた、世界でただひとりの男……だから」
ドラマで出てくるような、わざとらしく、クサい台詞。
けれど、そんなもので──
「……よかった」
打って変わって、男の眼が輝き出す。この男が老けて見えるタイプ? まあ、そうかもしれない。俺に比べれば。
けれど、これだけ生命力に溢れた眼の輝きは誤魔化せない。
「なあ、そんなことより……グレイス……俺にいれてくれ……いれて」
「そんなふうに言われたら断れない。俺はあなたに甘いからね」
「……これ、……いれて」
どろどろに濡れたペニスを握り、上下に擦る。自分がうっとりとした顔つきになっているのがわかる。この口で、この舌で、この唾液で、ここまで大きくなったものを。
三月のニューオーリンズを思い出す。
メキシコ湾に接したルイジアナ州南部の都市だ。俺たちが暮らしていた街。
この時季のニューオーリンズは、ニューヨークのように寒くない。天気がいい日が少ないから薄いコートは必要だが、常に春の気配を近くに感じることができた。さまざまな花と緑と煙草の香りがする暖かな空気に満たされている。人々は海辺で散歩を楽しみ、ミシシッピ川を見ながらジャズミュージックを聴き、ぬるいビールを紙コップで飲む。そしていつも、昼の空は灰色の雲で覆われている。夜の街だから、昼の天気のことなどどうでもいい。頭にあるのは次の祭りのこと。手持ちの楽器で創れるだけの曲を創り続けるのだ。
人種もめちゃくちゃ、言語もめちゃくちゃ、肌の色もめちゃくちゃ。建物の色にも統一感はない。植民地時代のスペインとフランスの文化が根付き、また新しいものと融合している。
違いを気にする者などいない。入り混じるさまざまな香りだけで酔い、忘れ、踊る。
男は俺を貫く。
「ゆっくりだ……そうだ、そのまま腰を落として……急いだら駄目だ、あなたの穴は小さいから、少しずつ。そうすると、お互いに辛い思いをすることなくひとつになれる。あなたが教えてくれたんだ、俺に」
男は深く、深く俺を貫く。
「あ、う、──ああ……」
「男を抱くのは初めてだったんだ。教えてくれたよな、いろいろ」
「──っ、あ……あ……」
「……ああ……いいな……俺もすぐイきそうだ」
そうだ、俺は
自分を殺す者を、
自分自身で育てている
SECOND
次の名、次の世界、
2013年ニューオーリンズ死体遺棄事件の真相
ともだちにシェアしよう!

