2 / 3
第1話 図書館にて -①.逃亡者との出会い/グリーン・アイの青年
2013/3/6 Tuesday 17:55
ルイジアナ州 ニューオーリンズ西部
アメリカ大学協会付属モーガン大学(私立) 大学管理図書館
「じゃあ、戸締りを頼むね、リヒト。ここのところ任せっぱなしで申し訳ないんだけど」
自分のデスクを片付け終わったエヴァが立ち上がった。妊娠八か月。ふっくらとしたドレスを着ているが、それでも腹だけが特に飛び出ているのがわかる。医師が言うには男児で、平均よりだいぶ大きめだそうだ。
彼女は俺と同じ、日系。髪の色と肌の色が似ている。背が低いのも。
図書館は十八時までだが、もう利用者はほとんどいない。残っている仕事といえば、僅かな事務仕事と、建物全体の見回りと戸締り、その程度。彼女が申し訳ないと思う必要はない。
「平気。俺はそのために雇われたわけだから。妊婦は自分の身体を労わるのが仕事だよ」
「……私のためだけじゃないけどね。リヒトは私よりもたくさんの仕事をしているし。奥の倉庫、昨日までにみんな整理しちゃったでしょ? 第二次世界大戦後からそのままって噂だったのに」
戦後は大袈裟だ。笑ってしまった。
「戦後からそのままってことはなさそうだよ。なぜか賞味期限内のイワシの缶詰があって、マークたちと分けた。エヴァも欲しかった?」
「いらないよ……別にイワシは好きじゃないし、なんだか怪しいじゃん」
「そう? 俺は普通に食べるけど」と言うと、エヴァは楽しそうに「やだ」と笑った。
図書館のスタッフなど、暇なときは暇だ。そのわりに、仕事は探せば幾らでもある。
「俺、エヴァに感謝してるんだ」
唐突にも感じられるが、言う。悪いことでないなら、思ったことはできるだけ素直に伝えたほうがいい。
「ん? なにを?」
「俺がここに入り込めたのは、エヴァのおかげに違いないから。エヴァが推薦してくれなければ、この顔の傷じゃあ……なかなか厳しい」
俺は仕事中だけ眼鏡をかけている。度は入っていない。この傷の印象を弱めるためにしているだけだ。右目の瞼から頬を切り裂いたナイフの跡。右目の視力は殆どなく、眼鏡で矯正できるレベルではない。ただ、完全に死んでいるわけでもない。物の輪郭さえ十分には捉えられないレベルだが、左目の助けにはなっているのだろうと思う。他にも傷はあるが、この傷ほど目立たない。というか、この傷があるせいで他が目立たない。
エヴァは自分の推薦など関係なかったと言うが、おおいに関係したことは館長からも聞いている。見かけでひとを判断したくはないが、限られた情報のなかで見かけが重要であることは事実だからね、と。十分理解できる。
「実はね」と、エヴァ。
「なに」
「初めてリヒトに会ったとき、その傷がすごくかっこいいと思ったの。元ボクサーって知って、余計。あ、こういう言い方、傷付く?」
「……いや。全然」
俺は否定したが、エヴァは少しばかり不安そうな顔をしている。つい勢いで言ってしまったものの、というところだろう。
「全然。すごく嬉しいよ」
数秒考えてからそう付け加えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。こういったひとことが、人と人の壁をなくしてくれる。たったひとことでいい。ここに来てからエヴァに教わったことだ。彼女にそのつもりはないだろうけど。
「リヒトの現役時代、見たかった。絶対かっこよかったはずよ。いまもいいけど」
「それは言われたことがないな……」
「ええ? 一度もってことはないよね」
「ないかも」
「うそだ。さすがにそれは信じられない。ファンにも?」
「……たぶん」
ファンと交流することは避けていた。得意じゃなかったから。たまに絡んでくるボクサーたちに言われていたのは「女みたいなボクサーだ」ということ。そこまでいかなくとも、体格に恵まれていないとか、鍛え方を間違っているだとか。いずれにせよ、見かけの感想でいい気持ちになったことなんかなかった。
しかしだからこそ、俺が連勝することに人々は驚いた。大きなギャップだった。俺は「ただ普通に勝ち続けるだけ」で話題になったのだ。人々は俺の中身などなにも知らず、眼に見えるものだけで勝手にいろんな気持ちになって、勝手に発言する。
この傷を残した怪我は、引退のきっかけになった。彼女がかっこいいと言ってくれた傷。実は、俺もこの傷が嫌いではない。どうしてか本当に、この傷が憎めないのだ。
『グローブに仕込まれていたナイフの刃渡りがあと数インチあったら、視力どころか……』
医師はそう言った。命を奪いかねない怪我だったのだ。でも、それでも。この顔に馴染み、この人生に馴染んでいるような気がした。
少なくとも、この「リヒト」という名よりは。
「エヴァ、そろそろ帰らないといけないんじゃない?」
「──ほんとだ。じゃあね、リヒト。また明日」
「ん。無理なくね。休みたければ休んで。みんな協力するって言ってる。引き継ぎならこのまえ貰ったノートでも十分だよ。もしわからないことがあれば、電話かメールでいい」
「体調が悪ければそうさせてもらう。そういう厚意って、甘えさせてもらったほうがいいと思うし。だけど、ぎりぎりまで稼ぎたいから」
「そりゃあそうだ。カネはいくらあっても困らない」
司書助手、大学管理図書館内部スタッフとして雇われたのは半年前のことだった。数か月後の欠員を見込んでの募集。管理者ではないから資格がなくても構わないということだった。経験も問わない。
ただし、業務範囲が広いため(つまり、力仕事を含めた雑用なども含まれるということだ。実際に働いてみてわかったが、倉庫の整理や棚の移動などの肉体労働も多い)、その辺りの覚悟ができている者……といったことが遠回しに伝えられていた張り紙を、この建物の前にある掲示板で見つけた。
エヴァに初めて会った日。彼女は貧血を起こして道路の隅にしゃがみ込んでおり、それを見つけた俺が彼女を図書館に送り届けた。その帰りのことだ。自動車免許が必要ないのも助かった。俺の視力では運転ができない。
ボクシングから離れて一年半。カネには不自由していなかった。俺は稼ぐだけ稼いだツケとして多くの敵をつくり、その代償としてこの傷を負ったのだ。自分が賭けに使われていることなど知らず、爽やかな汗を流しているのだと思っていた。それが泥と変わらないものだと知った、その数日後にこの傷は生まれた。引退以外の道はなかった。
張り紙を見て、図書館で働くことに興味を持った。本に触れる機会など碌に持たない人生を送ってきたが、それでも本を読むのは好きだったから。所有する本は少ないが、ミステリーは何冊か持っていた。既に結末を知っている物語も、何度も読む。アガサ・クリスティーは特に好きだ。
この仕事に応募してきたのは、俺を含めて男女五人。なかには別の図書館に勤めた経験がある者もいたらしいが、館長はエヴァの言葉を受けて俺に決めた。館長がエヴァを信頼しているからに違いない。短い期間でも一緒に働けばわかる。
「……誰」
エヴァの声。彼女は受付のカウンタと図書室のドアとの中間地点で立ち止っていた。彼女の声からして、一般人が迷い込んできたといった平和な状況ではない。
肩で息をした白人がひとり。若い。ここの学生なのかもしれない。身長は6フィート(※約182センチ)以上あるようだ。あまりこのあたりでは見ないグリーン・アイ。ブラウンの髪が肩まで伸びている。頬に赤い擦り傷と青いアザ。誰かに殴られたことによりできるもの。よく知っている。
「追われている」
青年は目の前にいたエヴァでなく、受付カウンタの内側にいた俺に向かって言った。アイスブルーの瞳。長く伸びた前髪が、左目と表情の核心を隠している。顔色はよくないが、整った顔をした男だ。薄手のトレンチコートを着ている。
あれこれ考えている間に、見覚えはある気がしてきた。微かに。
「警察を呼ぶか?」
それがいちばん手っ取り早いはずだが。
「ダメだ。それは避けたい」男はそう即答した。「少しだけでいい、この場さえ凌げれば」
「…………」
なぜだろう。マズいことはわかる。どう考えたって危険な匂いしかしない。
それなのに、なにかの引っ掛かりが俺を動かした。なにかの。
「わかった。こっちに来い」
「──待って、リヒト」
エヴァが首を振る。その眼が、「この男はダメだ」と言っている。
それはそうだろう。わかる。俺もそう思う。
けれど、口は反対のことを言う。
「大丈夫。俺に任せて。こう見えてそのへんの男よりは強いよ。エヴァは裏口から出ろ。まだ守衛がいるから連絡しておく。心配しなくていい。あとで電話する」
「違う、そういうことじゃない。リヒト、このひとは、」
「……エヴァ、ゆっくり話している時間はない。君まで危険な目に遭う。それは、俺がすごく困る」
彼女は話そうとするのをやめ、青年を一瞥してから「必ず電話して」と俺に言い、彼が来たのとは逆の方向へ走っていった。ウエイブした肩までの髪がふわふわと揺れる。妊婦を走らせるのもよくないだろうが、いまはのんびりしている方が危険だ。転ばなければいい。
「奥に入れ」青年に早口で言う。「休憩室のドアがある。なかに入ってドアの鍵を閉めろ」
ジャケットは脱いだ。俺の名がバレないほうがいいかもしれないからだ。ジャケットにはフルネームが書かれたプレートがついている。
「しかし、あなたは?」
「……おまえを追っているのは何人だ? 銃は?」
「三人。銃は持っていない。たぶんだが」
「なら、問題ない。行け」
向かうべき方向を顎で示すと、彼は俺の横をするりと通り抜け、そちらに歩を進めた。隙のない歩き方。怪我をして体力も消耗しているはずだが、決して揺らいでいない。あの青年は、たいしたダメージを受けていない。つまり、ダメージを受けたふりをしていたのだ。
息をするように演じる男。信頼してはいけないタイプでしかない。
男たちが入ってきた。周囲を見渡しながら。
「閉館の時間だ。出て行ってくれないか」と、彼らに言ってみる。おとなしく従うとは思えなかったが、とりあえず。
「あ? ……誰だ、てめえ」
先頭を切ってドアから入ってきた大男が、俺を見下ろして不機嫌そうな声を上げた。
「ここのスタッフだ」
「へえ? ご苦労。あのさ、さっきここにロングヘアの若い男が入ってきただろ?」と、肩のあたりに手をやりながら。「そいつを連れていきたいだけだ。それ以外の用事はない」
「知らない。帰れ」
俺を無視して動こうとする男の前に立つ。
「あァ?」
「帰れと言った」
男が俺の胸倉を掴む。俺の身体を持ち上げる勢いだったようだが、動かすことさえできず動揺したようだ。俺がこれしきのアタックでどうにかなるわけがないし、この身体は見かけほど軽くない。
俺は眼鏡を外してポケットに収め、男を見上げた。
「クソ……」
それだけで男が動揺する。もうひとりの男もなにかを察したのか、足を止めた。
「……てめえら、司書さんには手を出すなよ」
別の男がひとり、大男たちの背後から。静かな足音。
「すまないね。どうにも言うことを聞かない子がいて。追いかけっこになったんだ」
大男はふたりとも白人だが、この男だけは肌が浅黒い。髪も黒い。身長は俺と変わらない。顔付きはアジア系だ。
大男は俺から手を離し、小男に場所を譲るように動いた。あとのひとりも。彼らの挙動からしても、ボスはこの小男だ(小男、とはいえ俺とあまり変わらないが)。
「──なんだ? あんた、俺に似てるな?」
小男は、俺が思ったのと同じことを言った。顔を見て即座にそう思ったのだから、相当似ている。顎の形が似ているからか、声まで似ている。
男は「肌と瞳の色以外は」と付け足し、まじまじと俺を見た。多少でもボクシングを知っていれば俺のこともわかるだろうが、それはないようだ。ただ単に自分に似ているということで興味を持っているのだろう。
「で? 本当に知らないんだな?」と、男。
「知らない」
「ならいい。知らないというのなら知らないんだろうからね。失礼した、司書さん」
「……俺は司書じゃない。ただのスタッフだ」
「図書館で働いているのだから司書でいいさ。俺には細かい違いがわからない。ざっくりでいこう。別にあんたの仕事を邪魔しに来たんじゃないんでね。いつまでもカネを返してくれない人間に、今後どうするか訊きたかっただけ」
「借金取りか」
「取れたら取るけどね。あの坊やからは無理だろうから、ただお話をしたかっただけなんだけど。どうにも巧くいかないよな、いつも」
大男たちに向けて首を傾げる。な? あれは本当に困った坊やだ。
男は滑らかな英語で喋った。人差し指を自分の唇にあて、また俺の顔をじっと見る。
「……でもまあ、今日は気分がいいからやめる。司書さんは、日系?」
「ああ」
「だから俺たちは似ているのかな。ちょっと嬉しいよ。こんなことって滅多にないから。俺の名前はキリル・クエンティン。自己紹介の必要はなさそうだが、そうしないとあんたの名前を教えてもらえないと思って。教えてくれる?」
キリル。
頭のなかで繰り返す。キリル。
「……リヒト・ザートナー」
「リヒト・ザートナー? どこかで聞いたことがある気がするな……なんかかっこいいね」
確かに、男の顔と俺の顔は似ている。だがおそらく、どう生きてきたかはまるで違う。
クエンティン、と大男のひとりがその名を呼んだ。腕時計を気にしている。小男はわざとらしくはっとした表情をし、それからにこりと笑顔をつくった。
「ああ、すまない。あまりゆっくりしてる暇はないんだった。リヒトの時間も奪ったな。申し訳ない。もし街で面倒なトラブルに巻き込まれたら、俺の名を出すといい。ちょっとしたお詫びだ。多少の手助けはできると思うよ」
「そんなの、いらない」
「まあ、そう言わず。名前だけでも覚えておけば? ああ、キリルよりはクエンティンのほうが気に入っているから、そっちで。クエンティンってなんか上品な感じだろ?」
クエンティンは俺の襟を両手で整え、ぽんと肩に手を置いた。ブラウンの瞳が一瞬だけ事務所の奥を見た。こいつらが追っていた青年がいる場所だ。それで俺の反応を確かめたようだが、その種のトラップを見抜くのは得意だ。引っかからない。俺は奴の眼を睨みつけたまま、表情を変えないでいた。
クエンティンは薄く微笑み、「じゃあな、リヒト。また、いつか」と言って俺に背を向けた。
ともだちにシェアしよう!

