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第1話 繰り返しの毎日
春の朝は、まだ少し肌寒い。
窓の外では、桜の花びらが風に乗って舞っていた。
新しい学年が始まる朝。
世間の高校生たちは、クラス替えの話や新しい友達の話で盛り上がっているのだろうか。
俺には、関係のない話だった。
鏡の前に立ち、制服のネクタイを締める。
白いシャツに、紺色のブレザー。胸元には、今年から二年生になったことを示す新しい校章がついていた。
高校二年生。
十七歳になる年。
そんな当たり前のことさえ、俺、及川隼おいかわ しゅんにはどこか遠い世界の出来事のように思えた。
ネクタイの結び目を整えようと、少し顔を上げた。
そのときだった。
鏡の中に、自分の手首が映った。
「……っ」
息が止まる。
シャツの袖口から覗く手首には、赤紫色の痣がいくつも浮かんでいた。
昨日、相良さがらに縛られた跡だった。
細い手首に食い込んだ布の感触が、嫌でも蘇る。
逃げようとしても、腕を動かすことすらできなかった。
何を言っても、何度謝っても、相良はやめてくれなかった。
殴られた。
蹴られた。
身体のあちこちが痛んだ。
けれど、今朝になって一番はっきり残っていたのは、手首の痣だった。
そこだけが、昨日のことを忘れるなとでも言うように、皮膚の上に残っている。
慌ててシャツの袖を引っ張った。
手首がすっぽりと隠れるまで、何度も袖口を引き下げる。
学校で誰かに見られたら、どうしよう。
どうしてそんな痣があるのかと聞かれたら。
もし先生に知られたら。
考えただけで、心臓が嫌な音を立てた。
誰にも知られたくない。
知られてはいけない。
俺が何かを話せば、きっと面倒なことになる。
それに――。
「おい」
「っ!」
突然、背後から低い声がした。
肩が大きく跳ねる。
振り返ると、開いた扉の向こうに相良が立っていた。
腕を組み、いかにも不機嫌そうな顔で俺を見下ろしている。
「おせぇんだよ。行くぞ」
「ご、ごめん……今行く」
俺は慌てて鞄を手に取った。
相良は返事もしなかった。
俺は彼の後ろを歩き始めた。
廊下に響く足音を聞きながら、無意識に手首を握りしめる。
痛みは、まだ消えていなかった。
けれど、それを口にすることはできない。
だって、彼は――。
堤 相良つつみ さがら。俺のご主人様だから。
*
四年前。
俺が十二歳だったとき、人生は大きく変わった。
原因は、親の借金だった。
父が何に金を使ったのか、母がどこまで事情を知っていたのか、今となってはよく覚えていない。
ただ、家の中で大人たちが言い争う声が増えたこと。
知らない男たちが何度も家を訪ねてくるようになったこと。
そして、ある日突然、俺が堤家に連れてこられたこと。
その三つだけは、今でもはっきり覚えている。
『しばらくの間、こちらで働いてもらうことになる』
そう説明されたとき、俺は何も言えなかった。
親の借金を返すため。
自分が働けば、少しでも家の負担が減るのだと聞かされた。
当時の俺は、十二歳だった。
大人の事情なんてわからなかったし、嫌だと口にする勇気もなかった。
だから、頷いた。
それが、自分の人生をどこまで変えてしまうのかも知らずに。
堤家は、俺がそれまで暮らしていた家とは比べものにならないほど大きかった。
磨き上げられた床。
高い天井。
季節の花が飾られた廊下。
使用人たちは皆、きちんとした制服を着て、無駄のない動きで働いていた。
俺はそこで、掃除や洗濯、食事の準備などを手伝うことになった。
最初は、それだけのはずだった。
けれど。
『そいつ、俺につけといて』
初めて相良に会った日のことを、俺は今でも忘れられない。
相良は当時、俺より少し背が高いくらいの少年だった。
綺麗な黒髪から覗く顔は誰が見ても惚れ惚れしてしまうほど整っていて、子どもながらに人目を引く容姿をしていた。
けれど、その目は少しも優しくなかった。
俺を見る目は、まるで道端に落ちているゴミでも眺めているようだった。
『こいつ、ですか?』
使用人のひとりが確認すると、相良は面倒くさそうに頷いた。
『そう。俺の世話をさせる』
『ですが、彼には屋敷全体の仕事を――』
『俺がそう言ってんだけど』
その一言で、話は終わった。
こうして俺は、堤家の下働きから、相良専属の召使いになった。
それがどんな意味を持つのか、当時の俺はまだ知らなかった。
*
相良は、最初から俺を嫌っていた訳ではなかったと思う。
相良と、名前で呼ぶように言ってくれて
敬語もなしで話そうと、今よりは親しみを感じれた。
態度こそは横暴だったけど
自分の持っている本を貸してくれたことも、
お気に入りの場所につれていってくれたことある。
でも俺が屋敷に来て1年経つ頃には…
理由はわからない。
俺が特段なにかをしたわけでもない。
ただ、相良は俺がそばにいることを当然のように受け入れながら、
俺という人間そのものをひどく嫌ってしまったようだった。
『水』
『はい』
『遅い』
『ごめん…』
『謝る暇があるなら動けよ』
そんなやり取りは、毎日のことだった。
頼まれたものを用意すれば、違うと言われる。
指示された場所を掃除すれば、そこじゃないと怒鳴られる。
完璧にこなしたつもりでも、
相良が気に入らなければ、全て無意味。
相良の命令には、正解がない。
あるのは、相良が満足するかどうかだけ。
そして、相良が退屈しているとき、
俺は、格好の暇つぶしになった。
俺は何も答えられず、
命令に従うしかなかった。
逆らえばどんな仕打ちが待ってるか想像するだけで身震いする。
だったら、少しでも相良の機嫌が良くなる方を選ぶしかなかった。
やがて俺はいつからか、相良の足音を聞き分けられるようになった。
廊下を歩く速さ。
扉を開ける音。
俺を呼ぶ声の高さ。
それだけで、今の相良が機嫌のいい日なのか、悪い日なのかがだいたい分かるようになった。
相良の顔色を窺うことは、いつしか呼吸と同じくらい当たり前になっていた。
*
俺が十五歳になった、去年のことだった。
その日を境に、相良との関係は決定的に変わった。
きっかけは、今でもうまく説明できない。
いつものように相良の部屋に呼ばれた。
いつものように、機嫌の悪そうな顔で俺を見ていた。
そして、突然、唇を塞がれた。
何が起きたのかわからなかった。
身体が固まった。
押し返そうとしても、相良は離してくれなかった。
嫌だと言うことさえできないまま、俺は彼に無理やりベッドに投げつけられ、後ろ手に縛られた。
そしてそのまま、身体を奪われた。
痛くて、恥ずかしくて、怖くて、自分がなんとも惨めで仕方なかった。
その日、俺の中で何かが壊れた。
それまでだって、相良は怖かった。
怒鳴られるのも、嫌がらせをされるのも、命令に従わされるのも嫌だった。
けれど、あの日からは、相良と二人きりになることそのものが怖くなった。
部屋に呼ばれるたびに、身体が強張る。
背後に立たれるだけで、逃げ道を探してしまう。
相良の手が伸びてくると、反射的に目を閉じるようになった。
それでも、俺は屋敷を出られなかった。
ここで働かなければ、親の借金はどうなるのか。
自分が逃げたら、誰に迷惑がかかるのか。
そんなことばかり考えていた。
そして相良は、あの日を境に、俺への態度をさらに変えていった。
言葉は前よりも鋭くなった。
気に入らないことがあれば、頬を叩かれるようになった。
床に倒れれば、蹴られることもあった。
俺が怯えれば怯えるほど、相良は苛立ったような顔をするようになった。
『何だよ、その顔』
『……ごめんなさい』
『謝れなんて言ってねえだろ』
どうすればいいのか、わからなかった。
何をしても間違いになる。
何を言っても、怒らせてしまう。
そんな日々の中で、相良は何度も同じことを口にするようになった。
『お前のことなんか愛してくれるやつなんかいない』
俺が黙っていると、相良は俺の顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。
『俺だけだ』
冷たい目が、俺を見下ろしていた。
『お前をここに置いてやってんのも、学校に行かせてやってんのも、誰のおかげだと思ってんだよ』
「……相良、です」
『だったら、俺の言うことくらい聞けよ』
その言葉に、俺は頷くしかなかった。
相良の言うことが、本当なのかどうか。
そんなことを考える余裕すら、いつの間にかなくなっていた。
*
相良と俺の間には、いくつもの決まりがあった。
一つ。
自分以外の人間とは、必要最低限のことしか話さない。
学校で話しかけられても、用事がなければ返事をしない。
誰かと親しくすることなど、もちろん許されなかった。
二つ。
毎晩、相良への奉仕をすること。
それが何を意味するのか、俺はもう知っていた。
相良の機嫌が悪ければ、朝まで犯され続け、何時間も部屋から出してもらえないこともあった。
三つ。
高校以外への外出は禁止。
どうしても出かけなければならないときは、事前に相良に申告する。
誰と会うのか。
どこへ行くのか。
何時に帰るのか。
何のために行くのか。
細かく説明しなければならなかった。
四つ。
相良の許可なく、俺自身のために金を使わない。
五つ。
相良に隠し事をしない。
六つ。
相良の命令には、すぐに返事をする。
ほかにも、細かい決まりはいくつもあった。
全部を覚えているわけではない。
けれど、覚えていなくても、身体が覚えていた。
決まりを破れば、罰がある。
返事が遅れれば、怒鳴られる。
誰かと長く話していれば、問い詰められる。
相良の機嫌を損ねれば、何をされるかわからない。
だから俺は、何も望まないようにした。
何も欲しがらない。
誰かと仲良くなろうとしない。
余計なことを言わない。
自分の気持ちを、なるべく考えない。
そうすれば、少しは楽に生きられると思った。
けれど、そんなふうに毎日を過ごしているうちに、俺は自分が何を好きだったのかさえ、うまく思い出せなくなっていた。
*
車に乗り込むと、相良は後部座席でスマートフォンを眺めていた。
俺はその隣に座り、運転手が静かに車を発進させる。
窓の外には、春の景色が流れていった。
通学路を歩く生徒たち。
コンビニの前で笑い合う同年代の子たち。
俺と同じ、高校生。
彼らはきっと、自分がどこへ行くのかを自分で決められる。
放課後に友達と遊ぶことも。
好きな人と話すことも。
行きたい場所に寄り道することも。
そんな当たり前のことを、俺は一つも持っていなかった。
「……何見てんだよ」
隣から声がした。
慌てて視線を戻す。
「何でもない」
「何でもないって顔じゃねえだろ」
「ごめん……」
「謝んな。ほんとお前は気持ち悪ぃな」
相良は吐き捨てるように言って、再びスマートフォンに目を落とした。
俺は唇を噛んだ。
何も言っていないのに。
何もしていないのに。
それでも、相良の機嫌を損ねてしまう。
俺は膝の上で、そっと手を握りしめた。
袖の下で、手首の痣が疼いた。
「なあ、隼」
「……はい」
「学校でも俺との決まり事は守れよ」
相良は俺を一瞥した。
「返事」
「……はい」
「余計なことすんなよ」
「しないよ…」
「お前は黙って俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ」
その声には、疑いようのない確信があった。
俺には逆らうことなんてできない。
俺には自分で何かを決める力なんてない。
相良は、そう信じている。
そして俺も、いつからか、それを信じかけていた。
車が学校の正門前に停まった。
相良が先に降り、慌てて俺も後を追った。
春の風が頬を撫でる。
高校二年生になった。
新しいクラス。
新しい教科書。
新しい出会い。
そんなものが、俺にもあるのだろうか。
……いや。
期待するのは、やめよう。
期待すれば、失ったときに苦しくなる。
俺には、何も望む資格なんてないのだから。
そう自分に言い聞かせて、俺は俯いた。
このときの俺は、まだ知らなかった。
明日もきっと、同じ朝が来る。
相良の機嫌を窺い、命令に従い、怒らせないように息を潜める。
そんな毎日が、これからも続いていく。
――そう、信じていた。
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