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第5話 どうして俺なの
その日の夕方。
堤家に戻った俺は、部屋で制服を脱ぎながら、朝のことを思い出していた。
『隼のこと、知れて嬉しいし』
海都の笑顔が浮かぶ。思わず、頬が緩んだ。
自分でも気づかないほど、自然な笑みだった。
けれど。
「なにニヤついてんだよ」
背後から聞こえた声に、つい身体が強張った。
振り返ると、相良が部屋の入口に立っていた。
「……っ、相良」
「なに笑ってんのかって聞いてんだけど」
「そんな、つもりじゃ……ごめん」
俺は慌てて表情を引き締めた。
どうして笑っていたのか。
何を思い出していたのか。
そんなことを知られたくなかった。
けれど、相良は俺の顔をじっと見つめていた。
やがて、その目がすっと細くなる。
「……また、あいつかよ」
心臓が跳ねた。
「え……?」
「橘海都」
相良は吐き捨てるように、その名前を口にした。
「今日も一緒だったんだろ」
「図書委員の仕事があったから……」
「それで?」
「……それだけ、だよ」
「それだけで、そんな顔になるわけ?」
隼は答えられなかった。
海都と話していたことを思い出すだけで、嬉しくなってしまった。
ただ、それだけだった。
けれど、その気持ちを相良に知られることが、どうしてこんなにも恐ろしいのだろう。
「俺の前では、そんな顔したこともねえくせに」
相良の声が低くなった次の瞬間。
バシッ。
乾いた音が、部屋に響いた。頬に鋭い痛みが走る。
俺はよろめき、反射的に手で頬を押さえた。
「……っ」
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
相良に叩かれた。ただ、それだけのことなのに。
身体が勝手に震え始める。
「なんで俺の言いつけが守れないの?」
相良が、一歩近づいた。
俺は反射的に後ずさろうとした。けれど、すぐに背中が壁にぶつかる。
逃げ場がない。
「お前、誰のおかげでここにいられると思ってんの?」
「……ごめんなさい」
「誰と話していいって言った?」
「……」
答えられずにいると、髪を乱暴に鷲掴みにされ、無理やり顔を上げさせられる。
「答えろよ」
「……相良、だけ……」
「じゃあ、なんで橘と楽しそうに話してんだよ」
相良の手に、さらに力がこもった。
「痛い……っ、やめ……相良……!」
痛みに顔を歪めた瞬間、腹部に相良の膝が深く食い込んだ。
「がっ……!!!」
自分でも聞いたことのないような呻き声が漏れた。
息が詰まり、身体がくの字に折れる。そのまま足元がふらつき、俺は床に倒れ込んだ。
けれど、相良はやめなかった。
床にうずくまる俺に、容赦なく蹴りが飛んでくる。
ボロ雑巾のように床にうずくまりながら、俺はただ「ごめんなさい」と繰り返すことしかできなかった。
相良だって、友達がいるのに。
どうして俺は、誰とも話しちゃいけないんだろう。
ずっと昔から、心のどこかで感じていた疑問。
考えないようにしてきた。
気づかないふりをしてきた。
それなのに今、その疑問は、はっきりとした形を持って俺の中に浮かび上がっていた。
普段の相良は、体裁を気にしているのか、顔に痣が残るようなことは避けていた。
けれど、今日は違った。
それほどまでに怒りが収まらないのか、いつもの余裕すら失っているようだった。
何度も顔を殴られ、口の端は切れ、鼻血まで出ていた。
涙と鼻水、鼻血でぐしゃぐしゃになった俺の顔を、相良は再び髪を鷲掴みにして覗き込む。
「きったねえ顔」
その言葉を聞いても、俺はもう何も感じなかった。
痛いとも、苦しいとも、思わなかった。
ただ、壊れたロボットのように、同じ言葉を繰り返す。
「……ごめんなさい。ごめんなさい……」
相良の手が、唐突に離れた。
支えを失った俺の身体は、そのまま床に転がり落ちる。
「おい」
低い声に、びくりと肩が跳ねた。
相良は自分のズボンのベルトに手をかけながら、まるで犬でも呼ぶように俺を見下ろした。
「しゃぶれ」
――相良は、こんなに汚い顔をした俺に、そんなことまでさせたいんだ。
頭がうまく働かない。
ぼんやりと、そんなことを考えていた。
相良。
どうして、俺なの。
相良なら、俺なんかよりずっとかっこよくて、
もしくは可愛くて、
もっとちゃんとした人間を選べるはずなのに。
相良の周りには、俺なんかより魅力的な人がいくらでもいる。
それなのに、どうして。
どうして相良は、こんな俺に
ここまで執着するの。
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