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第4話 俺の好きなもの

図書委員になってから、隼は海都と顔を合わせる機会が増えた。 本の整理や貸出カードの確認、図書室の掃除当番。 一つひとつの仕事は決して難しくない。けれど、二人で作業をする以上、どうしても言葉を交わさなければならなかった。 隼は、できるだけ海都と距離を置こうと思っていた。 海都と話すのは楽しい。 一緒にいると、胸の奥が少しだけ温かくなる。 けれど、その温かさを知ってしまうのが怖かった。 自分には、相良以外の人間と親しくする自由なんてない。 それを忘れてしまえば、きっとまた傷つくことになる。 だから、必要なことだけ話して、余計なことは言わない。 そう決めていた。 ――決めていた、はずだった。 * 図書室の掃除当番がある日の朝。 隼は、いつもより早く学校に着いてしまった。 時計を見ると、約束の時間までまだ三十分近くある。 「……早すぎたな」 一度教室に戻ろうかとも思ったが、せっかく図書室にいるのだから、時間まで本を読んでいよう。 そう考えて、静かな図書室へと足を踏み入れた。 朝の図書室には、まだ誰もいなかった。 窓から差し込む柔らかな光が、整然と並んだ本棚を照らしている。 隼はゆっくりと棚の間を歩き、ふと目に留まった一冊を手に取った。 風景画の画集だった。 以前、何度か見かけて気になっていたものだ。 表紙を開く。 ぺらり。 ページをめくる音が、静かな室内に響いた。 一枚一枚、絵を眺めていく。 雨に濡れた街並み。光が差し込む花畑。木々の間から覗く青空。 見ているだけで、その場所の空気や温度まで伝わってくるようだった。 隼は、いつの間にか夢中になっていた。 「……こういうの読むんだな」 「っ……!?」 突然、すぐ後ろから声がして、隼は肩を跳ねさせた。 振り返ると、海都が立っていた。 「か、海都……」 「おはよう、隼。そんな驚く?」 海都はおかしそうに笑った。 「ごめん。驚かせるつもりなかったんだけど」 「いや……俺が気づかなかっただけだから」 隼は慌てて画集を閉じかけた。なぜだろう。 別に、悪いことをしていたわけじゃない。 ただ本を読んでいただけなのに、見られたことが少し恥ずかしかった。 そんな隼を見て、海都が画集に目を落とす。 「絵が好きなの? 見る方? 描く方?」 思いがけない質問だった。 隼は一瞬、答えに迷った。 絵が好きだ。 見るのも、描くのも。 本当は、誰かにそう言いたかった。 けれど、そんなことを口にする機会は今までほとんどなかった。 「……どっちも、好きなんだ」 少し恥ずかしくなって、視線を画集に落とす。 すると海都は、ぱっと顔を明るくした。 「へえ! どんな絵を描くの?」 「風景画とか、人の絵とか……前はよく描いてた」 口にしてから、隼ははっとした。 自分から、こんな話をしてしまった。 昔相良に絵を描いているところを見られたことがある。そのとき言われたのは、たった一言。 『下手な絵だな』 その言葉が、今でも頭の片隅に残っている。 自分の絵には、価値なんてない。 そう思い込もうとしていた。 「美術館とかもよく行くの?」 海都の声が、隼を現実に引き戻した。 「……前は、よく行ってた」 「いいな。誰の絵が好きとか、ある?」 「有名どころでいうと、モネとかゴッホかな。『睡蓮』とか『ひまわり』とか、知ってる?」 「もちろん。詳しくはないけど、見たことあるよ」 「そっか……」 思わず声が弾んだ。 海都はそんな隼を見ても、からかったりしなかった。 ただ、続きを聞きたそうに笑っていた。 ──不思議だった。 自分の好きなものについて、こんなふうに尋ねられたことがあっただろうか。 好きなものを話していいのだと、誰かに教えてもらったことがあっただろうか。 気づけば、隼は次々と言葉を口にしていた。 「隼が一番好きな絵って、どんな絵?」 海都に尋ねられ、隼は少し考えた。 頭の中に、ずっと忘れられない一枚の絵が浮かぶ。 「……カイユボットの、『パリの通り、雨』かな」 「へえ、どんな絵?」 「雨の日のパリの街を描いた絵なんだけど……」 隼は画集をそっと閉じ、海都の方を向いた。 「すごいのは、雨粒そのものが描かれてるわけじゃないのに、雨の日だってわかるところなんだ。濡れて銀色に光る石畳とか、重苦しい色の空とか……そういうものだけで、冷たくて、湿った雨の日の空気が伝わってくるんだよ」 話しているうちに、胸の奥が熱くなっていく。 「ただ街並みを描いてるだけじゃなくて、そこにいる人の気配とか、街全体の空気まで感じられるっていうか……。俺、そういう絵が好きなんだ」 言い終えてから、隼はようやく我に返った。 海都がじっと自分を見ている。 しまった。また話しすぎた。 「……ごめん。俺、ひとりで話しすぎて」 隼は慌てて目を伏せた。 「え? なんで?」 海都はきょとんとしている。 「全然いいよ」 「……え?」 「隼のこと、知れて嬉しいし」 海都はそう言って、優しく笑った。 「好きなこと話してるときの隼、すごく楽しそうだな」 その言葉に、隼は何も返せなかった。 胸の奥が、じんわりと温かくなる。 自分の話を聞いてもらえること。 自分の好きなものを、否定されずに受け止めてもらえること。 たったそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。 「……ありがとう」 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。 その後、二人は図書室の掃除を済ませた。 本棚を整えながら、海都は昨日見た映画の話をした。 隼は相槌を打ち、ときどき小さく笑った。 気づけば、当初決めていた「必要なことだけ話す」という目標は、すっかり頭から抜け落ちていた。 それでも、隼は知らなかった。 海都と過ごす時間が、こんなにも早く過ぎてしまうことを。 そして、こんなにも簡単に、もう一度話したいと思ってしまうことを。

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