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第3話 たとえ許されなくても
その日の夕食の時間だった。
目の前には、温かい料理が並んでいる。
もう何度も繰り返してきた、いつもと変わらない食事の時間。
ただ一つ違うのは、相良の機嫌が放課後からずっと悪いことだった。
「……いつの間に そんなに仲良くなったわけ?」
椅子に座った相良が、唐突に言った。
「仲良くっていうか…図書委員が一緒になっただけだよ」
「俺には、随分楽しそうに見えたけど」
「……そんなこと」
「じゃあ、何で笑ってたんだよ」
答えられなかった。
海都に挨拶をされたとき、少しだけ嬉しかった。
その気持ちを、どう説明すればいいのかわからなかった。
何より、それを相良に知られることが怖かった。
「……ごめん」
口から出たのは、いつもの言葉だった。
相良の目が細くなる。
「だから、何で謝ってんの?」
「……っ」
「お前さ」
相良の声がだんだん荒々しくなる。
「俺といるとき、そんな顔したことあった?」
怖い。怖くてたまらない。
何を言えばいいのかわからない。
そんな顔。
どんな顔だろう。
海都の前で、自分がどんな顔をしていたのか。
俺には、よくわからなかった。
ただ、相良の前では、いつも怒らせないことばかり考えている。
海都の前では、少しだけ、それを忘れていた。
それが、いけなかったのだろうか。
「……ごめんなさい」
「……チッ」
舌打ち。
それだけで、背中が冷たくなる。
次の瞬間。
ガシャンッ、と大きな音がした。
「……っ!」
皿が床に叩きつけられた。
料理が飛び散り、白いご飯が床を転がる。スープが広がり、温かかったはずの食事が、無残に床へぶちまけられた。
俺はその場で固まった。
何が起きたのか、理解するより先に、身体が震え始める。
「食えよ」
「……え?」
「聞こえなかったか?」
相良は頬杖をつき、床に散らばった料理を指差した。
「犬みたいに這いつくばって食えよ。三分以内にな」
頭の中が、真っ白になった。
床に落ちたご飯。飛び散ったおかず。
そのすぐそばで、不敵な笑みを浮かべながら俺を見ている相良。
冗談だと思いたかった。
けれど、相良の目は少しも笑っていなかった。
「……でも、これ……」
口から、かすれた声が漏れた。
言った瞬間、しまったと思った。
相良の表情から、笑みが消えた。
「俺の命令がきけないってのか?」
その言葉だけで、身体が強張った。
俺はゆっくりと床に膝をつき、そして手をつく。
視線を落とし、床に散らばった料理を見つめる。
喉の奥が詰まって、うまく息ができない。
嫌だ。
食べたくない。
どうして、こんなことをしなければいけないんだろう。
そんな気持ちが、胸の奥で小さく渦巻いた。
けれど、すぐに別の考えが浮かんでくる。
逆らったら、どうなる?
もっと怒らせたら?
昨日みたいに縛られてサンドバッグだ。
考えるだけで、手が震えた。
「……っ、いただきます」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
俺は床に落ちたご飯を口で拾う。
冷たい。
さっきまで温かかったはずなのに。
口の中に入れても、味がよくわからなかった。
ただ、食べなければいけない。
三分以内に。
相良の命令だから。
俺は床に手をついたまま、散らばった料理を口に運び続けた。
指先が震える。
目の奥が熱くなる。
それでも、顔を上げることはできなかった。
「ははっ……」
頭上から、笑い声が聞こえた。
「マジで食ってんの?」
相良だった。
俺は動きを止めそうになったが、すぐに手を動かした。
止まったら、また怒られる。
相良が近づいてくるのを気配で感じた。靴音が、俺のすぐそばで止まる。
俺が顔を上げるより早く、相良の足が伸びてきた。
「……うっ!」
頬に、靴底が押しつけられた。
床に手をついた姿勢のまま、顔を踏まれる。
痛みと驚きで、息が詰まった。
身体が傾き、頬が床に押しつけられる。
その拍子に、口元についていた食べかすが頬に広がった。
「……っ、さが、ら……」
相良は足をどけなかった。
むしろ、俺の顔を見下ろして、楽しそうに笑った。
「お前、今自分がどんな顔してるか分かってる?」
俺は答えられなかった。
頬が痛い。
床が冷たい。
口の端には、食事の汚れがついている。
惨めで、恥ずかしくて、今すぐここから消えてしまいたかった。
けれど、動けない。
「ははっ、ひでぇ顔」
相良は腹を抱えるようにして笑っている。
「お前、ほんっと犬みたいだな」
その言葉が、耳の奥に刺さった。
犬。
俺は人間、なのに。
「……ほら、まだ残ってんぞ」
残ったご飯を口に運ぶ。
喉が詰まりそうになっても、必死に飲み込んだ。
大部分を食べ終わると、相良が満足したように息を吐いた。
「片づけとけよ」
「……はい」
「床もな。汚ねぇから」
俺は床に膝をついたまま、俯いていた。
顔を上げる勇気がなかった。
「返事」
「……はい」
相良はそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
扉が閉まる音がした。
足音が遠ざかっていく。
それを聞いても、俺はしばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
誰もいない部屋。
床に残った汚れ。
ひりつく頬。
俺は唇をぎゅっと結んだ。
「……なんで」
声が震えた。
誰にも聞かれない、小さな声だった。
「……なんで、俺……」
続きを言おうとして、言葉が詰まった。
どうして、こんな目に遭わなければいけないんだろう。
どうして、嫌だと言えないんだろう。
どうして、逃げられないんだろう。
答えなんて、どこにもなかった。
俺は溢れ出る感情をなんとか押し殺し、散らばった食器を拾い始めた。
さっきまで温かかった胸の奥が、少しずつ冷えていく。
海都と話せたこと。
優しい言葉をかけてもらえたこと。
また明日、と笑ってくれたこと。
その全部が、遠くなっていく。
――明日は、海都に話しかけないほうがいい。
そう思った。
そうすれば、相良を怒らせずに済む。
せっかく少しだけ嬉しいと思えた気持ちも、なかったことにしてしまえばいい。
俺は俯いて、足元だけを見つめた。
けれど、胸の奥には、まだ小さな温かさが残っていた。
誰かに心配してもらえたこと。
困ったら頼っていいと、言ってもらえたこと。
それを、忘れたくないと思ってしまった。
たとえ、相良が許さなくても。
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