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エピローグ 幻の残響
あの日からひと月が過ぎた、穏やかな休日の昼下がり。
鳳のマンションの部屋には、柔らかい陽光が差し込んでいた。
そして、キッチンでは鳳が相変わらず慣れない手つきでエプロンを締め、レシピ本と格闘しながら得体のしれない何かを作っている。
「うわー真也ー!この調味料の順番ってこれで合ってる?!なんか焦げ付きそうなんだけど!?」
「……はぁ?お前は本当に仕事は出来るくせに、料理の才能だけは皆無だな。貸してみろ」
ソファーで寛いでいた筒香が呆れ顔で立ち上がり、鳳の手からフライパンを受け取る。
手際よく火加減を調整する筒香の横顔を見て、鳳は後ろから愛おしそうに抱きしめた。
「わっ…ちょっと、何すんだ!危ないから離れろって!」
「ふふん、別にいいじゃない。…こうやって君と普通に喧嘩して、あんまり美味しくない昼食を作る。この時間が、今の僕にとって一番の幸せなんだから」
耳元で聞こえる温かい吐息に、筒香はフッと呆れたような笑みを漏らした。
──胸を刺していた惨めな過去の傷跡は、今もすべて消えたわけではない。
けれど、今はこの鳳太陽という底抜けに眩しくて暖かい男に、惜しみない優しさを湯水のように注がれて、自分をそんな過去の傷口ごと新しく再構築しようとしているところだ。
フライパンにかけていた火を止め、筒香がふと、思い出したように口を開く。
「……そういえばさ。あのあと、白洲はどうなったんだ…?」
鳳の抱きしめる手が、ほんのわずかに強まる。 そして、少しだけ遠い目をして、静かに言葉を紡いだ。
「……それがね。あのあと正式な監査や捜索が入った時には、もうあそこは……もぬけの殻だったんだ」
「もぬけの殻?」
「ああ。家具も、あの豪華な調度品も、生活感すら何一つ残っていなかった。最初から誰も住んでいなかったみたいに、綺麗に空っぽになっていたよ」
筒香は手を止め、ゆっくりと鳳を見つめ返した。
「……最初から誰も? じゃあ、あのファンドの会社は……」
「会社の方も同じだ。白洲という男の痕跡も、彼が率いていたファンドの資金ルートも、すべてがまるで最初から存在しなかったかのように綺麗に消し飛んでいた。警察も実家の調査チームも、彼の本名すら辿れずにいる」
鳳はバツが悪そうに、筒香の首筋にしょんぼりと顔を埋めた。
「…すまない。あの時は、真也を見付けて保護すること以外何も考えられなくて……。僕の詰めが甘かったせいで、あいつをまんまと逃がしてしまった。…あとで親父にも死ぬほど叱られたよ。『いい加減、私情で一人で突っ走るな』ってさ」
落ち込むように肩を落とす鳳の自己申告に、筒香は思わず目を丸くした。
「鳳……。いや、本当にありがとう。……ただの一人の同僚なのに、そこまでしてくれて」
「今は、恋人だ」
咎めるような、それでいて愛おしげな低い囁きと共に、鳳は筒香の肩を引き寄せる。
その熱を帯びた瞳に捕らえられ、筒香は少しだけ照れたように目を伏せた。
──白洲という男は、一体何者だったのか。
幼い筒香を金で買い叩き、自ら圧倒的な才能を与え、そして鳳という男の覚悟を試すように退屈しのぎの戯曲を演じきって、煙のように消えてしまった。
筒香は、自分の指先をじっと見つめた。
「……ファントム(幻影)は」
ぽつりと漏れ出た筒香の呟きに、鳳が首を傾げる。
「……あいつの方だったんだな」
都市の暗部に突然現れ、人の運命を狂わせ、最高の戯曲を見届けたあとに跡形もなく姿を消した、かつて白洲と名乗った男───。
「……ふっ、かもしれないね」
鳳は筒香の髪に優しく触れ、引き寄せるようにそっと唇を重ねた。
「でも、彼が幻だろうと何だろうと、僕の手元にはこうして『一番欲しかった本物』が残った。……それだけで十分だよ」
窓の外では、澄み切った青空がどこまでも広がっている。 かつて自分を縛り付けていた幻影はもうどこにもいない。
やがて、静寂の中に甘い嬌声が響き始めた。
二人はただ、静かに重なるお互いの体温だけを貪るように確かめ合うのだった。
(完)
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