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第9話 ファントムにどうか安らかな救済を

都心の一等地に聳え立つ、高級タワーマンションの最上階。 ガラス張りの巨大な窓からは煌びやかな東京の夜景が一面に広がり、無機質な部屋を冷たく照らしていた。 その一室で、筒香は冷たい床に体を預け、弱々しく息を吐いていた。 両手と足首には重々しい拘束具が着けられている。 目の前のソファでは、白洲が優雅にワイングラスを傾け、どこか楽しげな、けれど底冷えのする笑みで筒香を見下ろしていた。 「失望したよ、ファントム。お前は俺のコレクションの中でも、一際優秀で最高の資産だと思っていたのに」 「………」 「俺を裏切った気持ちはどうだ?」 白洲の冷ややかな声が、静かな部屋に響く。 「お前の手で自社システムを破壊するだけの簡単な仕事だったはずだ。それなのに……お前の一瞬の迷いのせいで攻撃は途中で失敗。あげく、足跡まで残してこちらの遠隔介入を余儀なくさせた。…一体今のお前にどれほどの価値が残ってるんだ?」 「……」 筒香は衰弱した体で力無く壁に背を預けたまま、何も言い返さなかった。 白洲の言う通り、自分は失敗した。 ハッカーとしての価値も、白洲の玩具としての利用価値も、もう何一つ残っていない。 「最期の時を待つ気分はどうだ? ……まあ、そんなに急ぎはしないよ。お前のような優秀な玩具が壊れていく姿を眺めるのが、俺の数少ない退屈しのぎだからね。…それが、お前の最後の利用価値だ」 そう白洲に吐き捨てられた筒香の心には、恐怖も絶望も一切湧き上がってこなかった。 ふっ…、と筒香の唇から、小さな吐息のような笑みが零れた。 それは、どこか憑き物が落ちたような、驚くほど柔らかく、儚い笑みだった。 「ふっ……、いいんだ。もう、どうだって……」 本当は、最初から今回の依頼を完遂させる気はなかった。 脅迫され、泥のような暗闇の中で利用され続けてきた筒香の精神は、もうとうに限界を迎えていた。 ただ、このまま大人しく消える前に、ひたすら真っ直ぐで、自分には眩しすぎる鳳という男が、自分のプロジェクトを成功させる姿を最後まで見届けたかった。 ──本当は、感謝してたんだ。 『このプロジェクトを成功させるには、どうしても筒香の力が必要なんです!』 『海外出張のメンバーには、彼を同行させてください!』 純粋に自分という存在を信じ、自分のために上司へ真っ直ぐ頭を下げてくれた鳳。 ──それが本当に、誇らしかった。 サイバー攻撃など仕掛けて鳳が命を掛けていたプロジェクトを壊滅させるなんて、そんな事はもう自分には出来なかった。 そして、そんな彼の輝きを見届けたら、そのまま自分のすべてを終わりにしようと決めていた────。 筒香は天井を仰ぎ、ゆっくりと瞼を閉じた。 脳裏に浮かぶのは、あの出張先でのホテルの夜。 自分を一切の損得なしに一心不乱に案じ、力強く包み込んでくれた鳳の、あの不器用で温かな体温。 (ああ……こんなにゴミみたいな人生だった俺が、最後にあんなに温かい時間を貰えたなんて……) ただ見届けるはずだったのに、最後にまさかあんな温もりまで貰えるとは思ってもみなかった。 泥のような孤独と脅迫の中で生きてきた自分の人生に、一度だけ差し込んだかけがえのない光。 あの温もりを知ることができたなら、どん底だったはずの自分の人生が、不思議と救われるような気がした。 「もう……十分だ。これ以上、白洲の言う通りに動くことも……誰かを裏切ることもない。もう俺は眠りたいんだ……」 白洲が面白半分に繰り出す言葉はもう耳に入らない。筒香はただ静かに訪れる終わりの時を一人で待ち侘びていた。 *** ──それから、どれくらいの時が経っただろうか。 静寂を破るように唐突に重厚なドアのインターホンが鳴った。 白洲は待ち侘びたように扉を開けると、そこに立っていたのは、いつもの端正なスーツ姿のまま、底知れぬ凄みを纏った鳳の姿だった。 「夜分遅くに失礼します、白洲社長」 鳳の殺意を感じるような視線に捕らえられても、白洲は余裕の笑みを崩さなかった。 「やあ、鳳くん。まさか、あの鳳財閥の三男坊がここまで乗り込んでくるとはねぇ」 鳳は、相手に自分の正体が最初から見抜かれていると分かっても微塵も動じず、冷徹な瞳のまま一歩も引かずに言葉を続けた。 「白洲社長、単刀直入に伺います。筒香真也は、ここにいるんですね?」 そして鳳は怒気を隠そうともしない声で、白洲に詰め寄った。 「僕の背後にはすでに鳳家の弁護士団も、いつでも警察を動かせる告発ルートも全て揃っています。あなたがこれまで行ってきた違法買収とサイバー工作の証拠は、今この瞬間にすべて共有しました。…もう、逃げられませんよ」 白洲は一瞬目を細めたが、やがてフッと悪びれもなく笑った。 「へえ……。君の事は少し調べたけど、実家の力まで総動員して、随分頑張ったみたいだねぇ…。まあ、まさか一人でここまで乗り込んでくるとは思わなかったけどね」 白洲は鳳を面白がるように笑った。 「それにしても、そんなに物騒な事を言って探偵ごっこのつもりかい? さすがにそれはお坊ちゃんの道楽の範疇を超えているんじゃないかな?」 「ええ、お坊ちゃんの道楽と言いたければ勝手に言えばいい」 「僕はもう大切なものを守るためなら、実家のコネでも何でも使えるものは泥をすすってでも全部使い倒してやると決めたんです」 己のプライドをかなぐり捨て、泥にまみれることも厭わないその姿は、かつて「無菌室のお坊ちゃん」と呼ばれた過去の面影を完全に消し去っていた。 「それと……」 鳳は一歩、さらに白洲との距離を詰め、凍りつくような眼光を突き刺した。 「これ以上はぐらかすようなら、最初の質問への答えは肯定と捉えます」 その凄まじい気迫は、獲物を盗られた獣の執念そのものだった。 そんな鳳の狂おしいまでの獲物への執着を目の当たりにした白洲は、しばらく彼を見つめた後──。 「───あはは!完敗だ!」 部屋中に響きわたるような大声をあげて、心底楽しそうに笑い出した。 悔しがる素振りも一切見せず、白洲はワイングラスを揺らし、晴れ晴れとした笑顔で言い放つ。 「いやあ、まさか真也を拾ったあの日から、ここまで面白いドラマが見られるなんて思ってもみなかったよ。無菌室育ちのお坊ちゃんが、たった一人でここまで牙を剥いて俺を脅しにくる結末だなんてねぇ…」 白洲は胸ポケットから煙草を取り出し、優雅に火をつけると、紫煙の向こうから鳳の姿を満足げに眺めた。 「最高だったよ。久しぶりに良い退屈しのぎになった。心から感謝するよ、演者諸君」 ま、真也は少しいじめ過ぎたかも知れないがねと優雅に微笑む白洲の姿を見て、その余裕と圧倒的な悪としての風格に、鳳は一瞬息をのんだ。 白洲にとっては結局、何が起ころうとこの世の全ての出来事は極上のエンターテインメントに過ぎないのだ。 そして、白洲は幕引きだと言わんばかりにひらひらと手を振り、これ以上は一度も振り返ることなくグラスのワインを飲み干した。 「さっさと行きなよ、鳳太陽。俺の最高傑作が、ただの退屈な人間に戻る前にね」 *** 白洲の指し示した部屋の扉を開けると、そこには衰弱してボロボロになった筒香の姿があった。 元々細かった身体は更に痩せ細り、かつて社内で天才だと一目置かれていたあの切れ者らしい面影はない。そのあまりにも痛々しい姿に、鳳の声がわずかに震えた。 「……筒香…!」 突然、圧倒的な凄みをもって目の前に現れた鳳に、筒香は呆然とした顔で、掠れた声を絞り出す。 「……おお、とり……? ……何で……」 戸惑いに揺れるその瞳を見つめ、鳳はふっと短く息を吐き出すと、どこか呆れたような、それでいて狂おしいほどの愛おしさを隠しきれない声で答えた。 「何でって? あんなに縋りつかれて泣かれたら、こっちも全力で助けに行くしかないだろ?」 そして、きょとんとした顔の筒香の前に屈み込むと、鳳は力を抜いて笑い、その額に軽やかなデコピンを食らわせた。 「いっ……?!」 予想外の痛みに顔を顰める筒香の肩を、あの夜と変わらない確かな力強さで、鳳は強く抱き締めた。 「……筒香!頼むからもう本当に、これ以上一人で何かを抱え込まないでくれ……!! 心配過ぎて、目が離せなくなる!!!」 白洲の前で見せていた冷徹な仮面は跡形もなく砕け散り、そこにあったのは、愛する人間を失いかけた男の剥き出しの焦りと庇護欲だった。 鳳は筒香の手首を優しく、けれど絶対に解けない強さで捕らえ、その体をしっかりと抱え込むようにして白洲の支配が渦巻いていた空間を後にした。

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