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【第1章 眠れる夜】第1話 正確すぎる不正解

高澤廉は、眠ることを諦めた顔をしていた。 深夜二時を過ぎても、リビングの明かりは落ちていない。テーブルにはホットミルクと、開いたままのノートPC。画面には収支表と統合後の運用計画が並んでいる。 相沢は寝室の扉にもたれ、しばらくその背中を見ていた。 背筋は伸びている。資料を見る目も、キーボードへ置いた手も、いつもと変わらない。眠れない人間には見えないところが、余計によくなかった。 声をかけると、高澤は横になれば数字が浮かぶとだけ答えた。 統合後、Auroraを取り巻くものは一気に増えた。アトラボが動き、レーベルが広がり、外から人も金も入ってくる。面白いから始めたものを、続けられる形へ整える仕事が必要になる。 そういうものを、高澤は放っておかない。 相沢は寝室の扉から離れた。 このまま画面の前に座らせておいても、眠るとは思えなかった。 「今からカラオケ行かない?」 高澤が顔を上げた。さっきまでの収支表より理解しにくいものを見る目だった。 「なぜ」 「眠れないなら、別のことした方がいいだろ」 「合理性が薄い」 「薄くていいんだよ。夜中なんだから」 「お前は歌いたいのか」 「俺じゃなくて、お前」 高澤の眉がわずかに動いた。 「俺?」 「そう。高澤廉、深夜のカラオケデビュー」 数秒考えたあと、高澤はノートPCを閉じた。 「一度くらいは、経験しておくべきか」 相沢は笑った。 「じゃ、決まり」 * カラオケボックスの扉が閉まると、外の夜が急に遠くなった。 薄い照明の下、壁にはメニューが貼られ、テーブルの画面には明るすぎるおすすめ曲が次々と流れている。 相沢はソファへ腰を下ろした。 「本当に来るとは思わなかった」 向かいでは、高澤がメニューを読んでいる。 「一度くらいは経験しておくべきだと思った」 「やっぱりそこなんだな」 相沢が予約端末を引き寄せると、高澤が手を出した。 「俺が選ぶ」 高澤は端末を受け取り、曲名を追い始めた。 「お前の歌、初めて聞くよな」 「昔、歌って笑われたことがある」 「うそだろ」 「笑われた理由は、今も分からない」 会議資料でも読むような顔で選んだのは、音域の広いバラードだった。 「それ難しくない? 大丈夫?」 「確認する」 「何を」 「当時、笑われた理由を」 「ここで?」 「今なら分かるかもしれない」 「前向きだな」 「向き合わなかった項目だからな」 イントロが流れ、照明が少し落ちた。 高澤はマイクを持って画面の前に立った。背筋が伸び、変に力んでもいない。構えだけなら、妙に様になっている。 歌い出すまでは。 最初の音を聞いた瞬間、相沢は画面へ目を逃がした。 低い。それだけではない。 高澤は原曲とは別の場所を、迷いなく進んでいた。 本人は気づいていない。リズムは合っている。歌詞も落とさない。息を入れる場所まで律儀で、本人の中では何ひとつ破綻していないらしい。 音程だけが、帰ってこない。 サビへ入っても変わらなかった。むしろ堂々としている。 相沢は天井を見た。 笑ったら駄目だ。 高澤は本気で歌っている。眠れない夜に連れ出され、初めての深夜カラオケで、音域の広いバラードを正確に間違えている。 最後の音がどこにも着地しないまま、曲が終わった。 採点画面に出た数字は、思ったより高かった。 相沢はしばらくそれを見つめた。 「高すぎない?」 高澤は平然としている。 「安定していた」 「……そうだな」 相沢はどうにか頷いた。 「安定はしてた」 音程以外は。 高澤はマイクを持ったまま振り返った。 「改善点は?」 もう分析する顔になっている。 相沢は黙った。 「ん?」 「ちょっとだけ、音が自由だった」 「自由?」 「枠にとらわれてないというか」 高澤は少し考えた。 「原曲通りに歌ったが」 「うん」 「ずれていたか」 逃げ道を塞がれた。 「……少し」 高澤はすぐに予約端末を取った。 「もう一回だ」 「待て」 「データが足りない」 次に選んだのはアップテンポの曲だった。 歌い出せば、やはり外れている。今度は軽快に。 相沢はとうとう耐えきれず、俯いたまま肩を揺らした。 「何だ。トイレか」 「いや」 「どうした」 相沢は顔を上げた。 「……高澤」 「ん?」 「お前、音痴だ」 高澤の動きが止まった。 「定義は?」 「そこから?」 「音程か?」 「そう」 「どの程度だ」 相沢は少し迷った。 「……かなり」 高澤は天井へ目を向けた。原因の所在でも探しているようだった。 「論理的には正しい音を出しているつもりだ」 「耳と喉が別の部署なんだろ」 「それは改善可能か?」 「可能」 「ならやる」 「なんでだよ」 「分析対象だからだ」 相沢は笑いながらマイクを取った。 「じゃあ、見本」 同じ曲を入れ、最初の音を取る。無理に伸ばさず、息を置き、曲に合わせて声を引く。 高澤は黙って聞いていた。 家で数字を見ていた時とは違う。眉間にも肩にも、さっきまであった固さがない。 曲が終わると、高澤が頷いた。 「なるほど」 「何が」 「理論と感覚の同期か」 「たぶん、そんな立派な話じゃない」 「もう一度やる」 高澤がマイクを受け取り、歌い出す。 やっぱり外れた。 相沢はソファへ倒れ込んだ。 「おい。笑うな」 「無理!」 「仕組みは理解した」 「理解してこれなの?」 高澤は答えず、マイクを持ち直した。 その肩からは、もう家にいた時の硬さが消えていた。 次の曲を選ぶ横顔を見ながら、相沢は息を整える。 深夜二時まで収支表を追っていた男が、今は誰にも判断を求められず、正確に音を外している。 曲が終わると、また妙に高い点数が出た。 高澤が画面を見上げる。 「採点基準が分からん」 「お前に優しい世界なんじゃない?」 「そうか」 高澤は少し考え、隣へ座った相沢を見た。 「お前の前でよかった」 相沢は返事をせず、その顔を見返した。 家では見なかった顔だった。 「これは俺以外に聴かせるな」 「検討する」 「そこは約束しろ」 高澤がわずかに笑う。 次の曲を探す画面の光が、二人の手元へ落ちていた。 相沢はソファへ身体を預けた。 眠れなかった夜は、まだ続いている。 それでも高澤の意識は、もう仕事の外にあった。

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