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第2話 相沢涼が壊れた日
翌日の昼過ぎ、相沢涼は仕事中に笑っていた。
アトラボ三階の共有スペースには、窓からやわらかな光が入っている。相沢は窓際の席でノートPCを開き、開発中の仕様書を表示していた。
片耳にはワイヤレスイヤホンが入っている。
マウスを動かしてはいるものの、カーソルはさっきから同じ場所に止まっていた。耳の奥で高澤の歌がサビへ入るたび、相沢の肩がわずかに揺れる。
前夜、高澤が改善用だと言って残した録音だった。本人はあとで聞き直すつもりらしい。相沢も共有されたデータを確認しているだけ、と言えなくはない。
これで三回目だった。
通路を歩いてきた凪隼人が、その横で足を止めた。
「何してんの」
「仕事」
凪はノートPCの画面を覗き込んだ。仕様書は開いているが、一行も進んでいない。
「何聴いてんだよ」
相沢はイヤホンへ触れた。
「何でもない」
それで引く凪ではなかった。
伸びてきた手を避けるより早く、片耳からイヤホンを抜かれる。
「おい」
凪はそのまま自分の耳へ入れた。相沢が取り返そうとすると、片手で止められる。
「ちょっと待て」
最初の数秒、凪は何も言わなかった。
やがて眉が動き、相沢を見る。イヤホンの中では、ちょうどサビに入ったはずだった。
凪が顔を背けた。
肩が揺れる。
「……高澤?」
相沢は答えなかった。
それだけで伝わったらしい。
凪はイヤホンを外し、相沢を見た。
「お前、性格悪いな」
「癒されるんだよ」
「最低だな」
それでも凪は、もう一度イヤホンを耳へ入れた。
相沢は返せとは言わず、その横顔を見る。
高澤はリズムも歌詞も外さない。声量も安定している。それなのに、音程だけが原曲からきれいに離れていく。
凪はしばらく笑っていたが、途中から肩が動かなくなった。
相沢はその変化に気づいて、手を伸ばす。
「もう返せ」
「もう一回」
声が少し低かった。
相沢はイヤホンを取り返し、ケースへしまった。凪の目はまだそこへ向いている。
「昨日、カラオケ行ったのか」
「うん」
「俺も誘えよ。で、点数は?」
「思ったより高かった」
「機械、何見てんだよ」
「高澤には甘かった」
凪が笑った。
「本人は?」
「改善する気。録音もそのために残した」
「……マジかよ」
けれど、凪はすぐには視線を外さない。
さっきまでとは違う。面白いものを見つけた時ではなく、音を拾った時の顔になっていた。
「これ、生で聴かせろ」
「だめだ」
相沢は即答した。
「この音はまだ、俺のところで止める」
凪がこちらを見る。
「相沢が止める音か」
「そう」
「余計聴きたいだろ」
相沢はイヤホンケースをポケットへ入れた。
共有スペースの少し離れた場所では、数人が打ち合わせをしている。窓際を通る人間もいるが、こちらを気にする者はいない。
今、高澤の録音を聞いたのは相沢と凪だけだった。
その事実が、さっきより少し重くなっていた。
凪は缶コーヒーを持ち直した。
「ほかの曲でも、こんな感じだったのか?」
「うん。何を歌っても音程だけ外れる」
「じゃあ、Fluctuation Cross歌わせようぜ」
相沢は黙った。
頭の中で一度だけ、高澤の声がその曲へ重なる。
凪が笑う。
「今、想像しただろ」
「Fluctuation Crossは難易度高い」
「それがいいんだろ」
相沢は凪を見る。
「お前も性格悪いな」
「お前に言われたくねぇよ」
凪は共有スペースの奥にあるエレベーターへ目を向けた。
「今日の夕方、五階な」
「行かない」
「じゃあ俺が高澤に言う」
相沢の手が止まった。
「やめろ」
「歌唱改善の追加検証って言えば来るだろ」
来る。高澤なら間違いなく来る。
前夜の結果を、あれで終わらせるはずがない。音程が合っていないと分かり、改善できる可能性があるなら、検証という言葉だけで十分だった。
「凪」
「なんだよ」
「まだ外に出す音じゃない」
凪は少しだけ笑った。
「分かった。夕方、検証な」
何も分かっていない。
そう言う前に、凪はエレベーターの方へ歩き出した。
相沢はポケットの中のイヤホンケースへ触れた。
最初は、ただ面白かった。
高澤が真顔で歌い、正確に外す。それだけだった。
けれど、凪は途中で笑わなくなった。
「もう一回」と言った時の声が、まだ耳に残っている。
相沢はノートPCへ視線を戻した。
仕様書は、まだ一行も進んでいない。
夕方までに片づけるつもりだった仕事とは別に、考えることがひとつ増えていた。
五階へ行かない理由。
たぶん、見つからない。
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