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第3話 歌唱改善の追加検証
夕方のアトラボ五階は、三階より静かだった。
収録用のスタジオが並ぶ廊下は余計な音をほとんど残さない。閉じたドアの向こうから声が漏れることもなく、いくつかの使用中ランプだけが淡く点いている。
相沢は廊下を歩きながら、昼から考えていたことをまだ引きずっていた。
五階へ来ない理由も、高澤を呼ばない理由も、Fluctuation Crossだけはやめておく理由も、結局ひとつも見つからなかった。
スタジオの前には凪が先にいた。黒いケースを壁へ立てかけ、スマートフォンを見ている。
相沢に気づくと、悪びれもせずドアを開けた。
「来たじゃん」
「確認しに来ただけ」
「確認、大事だな」
中へ入った相沢は、すぐに足を止めた。
マイクが一本用意され、奥のモニターにはFluctuation Crossの音源が開かれている。
本当にやる気らしい。
「五階、取ったのか」
「歌唱改善の追加検証」
「それで通すなよ」
凪は笑っている。
ただ、昼間のように面白がっているだけではないことを、相沢は知っていた。高澤の録音を聞いている途中、凪の肩から笑いが消えた。
音を聞く人間の顔になった。
だから相沢も、結局ここまで来た。
「今日は一回だけだぞ」
「高澤が納得すればな」
それが一番難しい。
高澤は直せるものを放置しない。まして本人は、昨夜の歌唱を完全に改善対象として認識している。
開けたままのドアの向こうに、高澤が姿を見せた。
「入っていいか」
凪が顔を背ける。その肩が早くも揺れた。
相沢は息を吐いてから返事をした。
高澤はスーツ姿のまま入ってきた。タブレットも資料も持っていない。その代わり、手には薄いノートがある。
嫌な予感がした。
「何それ」
「歌唱改善の記録用」
凪がまた横を向いた。
高澤は気にせずノートを開き、スタジオを見回した。設備が整っている分、前夜より正確に確認できると本気で考えているらしい。
開かれたページには、曲名、検証環境、歌唱者、目的が並び、最後に音程改善と記されていた。
相沢は横からそれを見て、少しだけ申し訳なくなった。
「高澤。無理ならやめていいからな」
「問題ない」
迷いのない返事だった。
「音程が合っていないと分かった以上、改善できるか確認する必要がある」
凪がマイクの方へ視線を向けた。
「じゃあ、Fluctuation Cross」
高澤の眉がわずかに動いた。
「難易度が高くないか?」
「だからいい」
「凪、段階を踏んだ方がいいだろ」
相沢が口を挟んだが、高澤はすでにノートへ曲名を書き始めていた。
止めるなら、もう少し早く止めるべきだった。
高澤はマイクの前へ立ち、画面の歌詞を確認した。背筋はまっすぐで、動きにも迷いがない。
歌うところを見るまでは、本当に歌える人間に見える。
イントロが流れた。
Fluctuation Crossの音は、相沢の耳にもよく馴染んでいる。
高澤が歌い出した。
相沢はすぐに視線を落とした。
歌詞は合っている。リズムも大きく崩れない。声量もあり、言葉も明瞭に届く。
音程だけが違う。
しかも迷って外れているわけではない。一音ずつ確信を持って、原曲とは別の場所へ進んでいく。
隣で凪の肩が震えた。
相沢は卓へ片手をついた。
録音で聞くより、生の方が強い。
サビへ入ると、それはさらに明確になった。聞き慣れた旋律から、高澤の声だけが別の線を引いていく。
「……何でだよ」
凪が小さく漏らした。
相沢にも分からない。
笑えるのに、耳が離れなかった。
予想した場所には来ない。戻ったと思えば、また外れる。それでも歌そのものは止まらず、完全には崩れない。
正確に、不正確だった。
一番を歌い終え、高澤がマイクから離れた。
「どうだ」
相沢はすぐには答えなかった。
凪も黙っている。
モニターには、今の声が記録として残っていた。
「改善点は」
促されて、ようやく凪が口を開いた。
「改善すると、消えるかもしれない」
「何が」
凪は答えを探すように画面を見た。
「今のやつ」
高澤の眉が寄った。
意味が分からないのは当然だった。
相沢にも、まだ言葉にできない。
録音を止めても、さっきのサビだけが耳の奥に残っていた。
「高澤」
「何だ」
「もう一回、歌って」
高澤がこちらを見る。
「改善点の提示が先では」
「同じ条件でもう一回聞きたい」
今度は凪も頷いた。
高澤はしばらく二人を見比べたあと、ノートへ視線を落とした。
「再試行か」
「そう」
それなら理解できたらしい。
高澤はもう一度マイクの前へ戻った。
凪が相沢のそばへ寄る。
「お前、これ隠してたのか」
「だから外に出せないって言っただろ」
今度は凪も否定しなかった。
相沢は保存された一回目の録音を見る。
笑える音だった。
それでも、もう消す気にはなれなかった。
「これ、使えるかもな」
凪がこちらを見る。
「素材じゃない」
「まだな」
二回目のイントロが流れた。
高澤は同じように真剣に歌い始める。
相沢はモニターへ目を向けた。
同じ曲なのに、さっきとは聞き方が変わっていた。
一回目と同じ場所では外れない。音程がずれるたび、元の旋律から別の線が伸びていく。
正しい形ではない。それでも、ただ壊れている音とも違った。
サビへ入ったところで、凪がとうとう吹き出した。
「だめだ、強い」
相沢も耐えられず笑った。
高澤が歌いながらこちらを見る。視線だけが険しくなる。それでも歌は止めない。
そして、また外した。
凪が壁へ手をつき、相沢も椅子へ身体を落とした。
最後まで歌い切った高澤が、静かにマイクを下ろす。
「二人とも、検証態度に問題がある」
それは間違いなかった。
笑いを抑えながら謝ったが、高澤の視線は冷たい。
「改善点を聞きたい」
その一言で、相沢はモニターへ目を戻した。
一回目と二回目。同じ曲を同じ人間が歌っているのに、外れ方は完全には重ならない。
凪も同じものを見ていた。
「高澤」
呼ばれて、高澤がそちらを見る。
「音痴は直した方がいい」
「当然だ」
「でも、今日のこれは今すぐ直さなくていい」
「矛盾している」
「してるけど」
高澤は説明を待っている。
相沢は録音画面を閉じた。
「まだ説明できない」
高澤の顔に納得した様子はない。
凪がマイクを片づけながら言った。
「耳に残った」
高澤は黙った。
相沢にも、それ以上の言葉はまだなかった。
評価でも、完成でもない。
だから、今は保留でいい。
高澤はしばらく考えたあと、ノートへ何かを書き込んだ。
相沢が覗く。
《保留》
《追加検証必要》
凪が隣で笑った。
「次も来る気だ」
「改善点が提示されていない」
高澤にとっては当然なのだろう。
高澤のノートには、まだ改善対象として残っている。
凪の耳には、もう別の音として残っている。
相沢にも、消すという選択肢はなくなっていた。
まだ外には出せない。
スタジオが静かになっても、さっきのサビだけが耳の奥に残っていた。
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