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第4話 高澤専用
高澤が仕事へ戻ったあとも、五階のスタジオにはまだ音が残っていた。
使用中ランプは消えている。廊下は静かで、ドアの向こうを通る気配もほとんどない。室内ではモニターだけが淡く光り、さっき録ったデータがそのまま画面に残っていた。
相沢は椅子に座ったまま、その波形を見ている。
凪は壁にもたれ、しばらく黙っていたが、やがてモニターを指した。
「もう一回」
「何回聞くんだよ」
「お前が言うな」
仕事中に何度も高澤の録音を聞いていたのは相沢の方だった。
言い返せず、再生する。
スピーカーから高澤の声が流れた。
Fluctuation Crossは、本来なら凪のギターと相沢の声が交差しながら、夜の街へ抜けていく曲だ。そこへ高澤の声が乗ると、知っているはずの旋律が別の方向へ引かれる。
歌詞は合っている。リズムも大きく崩れない。声そのものも悪くない。
音程だけが、毎回わずかに違う場所へ落ちる。
しかも、その外れ方には妙な迷いのなさがあった。
凪が途中で顔を背ける。
相沢も笑いそうになったが、そのまま最後まで聞いた。
音が止まっても、サビだけが耳に残る。
「これ、何で残るんだろうな」
相沢は答えず、サビへ再生位置を戻した。
高澤の声がもう一度流れる。
下がる場所。上がりきらない場所。戻ったと思えば、少しだけ違うところへ逃げる。
完全に同じではない。それでも、外れ方には癖があった。
「適当に外してるわけじゃないな」
「うん」
「ここ、だいたい同じ方向に落ちる」
相沢は少し考えた。
「昨日の曲でもそうだった」
凪がこちらを見る。
「同じ?」
「完全にじゃない。でも、下がるところとか、届かないところは似てる」
前夜から何度も聞いた声が、頭の中で重なる。
曲が変わっても、高澤の歌い方そのものは大きく変わっていない。
凪ももう一度、サビを聞いた。
「癖なんだな」
「たぶん」
相沢は椅子の背へ身体を預けた。
高澤は歌詞を追う。リズムも取る。声量も落とさない。
そこまでは、きちんとやっている。
その先だけが、合わない。
「音だけ別ルートなんだな」
凪が言った。
「高澤らしい」
相沢は少し笑った。
否定できなかった。
モニターには、まだFluctuation Crossのデータが開かれている。
既存の曲には、最初から正しい旋律がある。
だから高澤が歌えば、どこを外したのかすぐに分かる。どれだけ声に癖があっても、正解との差として聞かれてしまう。
相沢はもう一度、サビを流した。
今度は笑わなかった。
高澤が下がる場所を聞く。次に上がりきらない音を待ち、そのあと、わずかに逃げる方向まで追う。
直すことばかり考える必要はないのかもしれない。
正しい旋律がまだないなら、高澤が落ちる場所を最初から音として置けばいい。
相沢の中で、聞き方が変わった。
「作るしかないな」
凪が顔を上げる。
「何を」
「高澤用」
数秒遅れて、凪が笑った。
「最低なのに、愛があるな」
「うるさい」
「専用曲?」
「まだ曲じゃない」
凪が卓の横へ来た。
「音痴を直さずに合わせるのか」
「たぶん」
「すげぇな」
「できるかは分かんないけど」
それでも、相沢は新しいトラックを開いた。
何も入っていない画面が現れた。
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