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第5話 眠れない音

相沢が音を作り始めて、三日目の深夜だった。 作業部屋の明かりは落としてあり、机の上だけ小さなライトがついている。ノートPCの画面には、まだ名前のない音源データが開かれていた。 仕事ではない。 業務時間にやることでもないから、相沢は夜に触っていた。 初めてカラオケへ行った夜も、高澤は眠れていなかった。ホットミルクを飲みながら、収支表と統合後の運用計画を見ていた背中を覚えている。 今夜は、相沢の方が眠れていなかった。 高澤の声が耳に残っている。 正確に不正確で、真面目に外れる。それでも、曲の途中で完全には崩れない。 直すためではなく、その声が落ちる場所に合わせるために、相沢は音を置いていた。 ひとつ鳴らして高澤の録音を重ねると、少し高い。位置を動かせば、今度は低すぎた。 何度か戻しながら、声が落ちる場所だけを拾っていく。整った旋律からは少しずつ離れていくのに、高澤の声を重ねると、その歪みがわずかに収まる。 まだ曲とは呼べない。 それでも、作り始めた頃よりは近づいていた。 ドアの向こうで床が鳴り、相沢は手を止めた。 すぐにノックが入る。 「起きてるか」 高澤だった。 「起きてる」 ドアが開き、高澤がマグカップを二つ持って入ってきた。白い湯気が、机の明かりの中へゆっくり上がる。 「ホットミルク」 片方が相沢の前へ置かれた。 「珍しいな」 「眠れない時に飲むといいらしい」 「誰に聞いたの」 「検索した」 相沢は少し笑った。 高澤は気にせず、画面へ視線を向ける。 「仕事か」 相沢もモニターを見た。 仕事にしてしまえば、もっと楽だったかもしれない。業務なら時間も場所も理由もつく。 けれど、これは相沢が勝手に始めたものだった。 「……趣味」 「曲か」 「まだ曲じゃない」 少しだけ迷ってから付け足す。 「検証用」 高澤は納得したように頷いた。 「歌唱改善の件か」 相沢はマグカップを持ち上げた。 掌に熱が残る。 「まあ、そんな感じ」 高澤は画面をもう一度見たが、それ以上は近づかなかった。 「聞いてもいいか」 「まだだめ」 「未完成?」 「うん」 それだけで、高澤は引いた。 相沢は少し意外だった。 もっと聞かれると思っていた。何を検証しているのか、基準は何か、どう直すのか。 けれど、高澤は何も聞かなかった。 代わりに、机の上のマグカップを指した。 「飲め」 「うん」 「あと、寝ろ」 「それは無理」 「なら少しは休め」 相沢はホットミルクを飲んだ。 甘い。思ったより、ちゃんとおいしい。 「高澤」 「何だ」 「これ、うまい」 高澤の眉がわずかに動いた。 「分量通りに作った」 「高澤らしいね」 相沢が笑うと、高澤は少しだけ不思議そうな顔をした。 それでも何も聞かず、部屋を出ていった。 ドアが閉まる。 作業部屋はまた静かになった。 机の端では、まだホットミルクから湯気が上がっている。 相沢は画面へ向き直った。 さっきまで迷っていた場所へ、もう一つだけ音を置く。 今度は、消さなかった。

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